第49話『あの日々を』
暗闇が遠ざかり、蒼真の視界に広がったのは ――懐かしの図書室だった。
窓から差し込む午後の光が埃を金色に揺らし、様々な背表紙が静かに並ぶ。古い紙の独特の匂い、ページを繰る指先と紙が擦れる音。ここは彼が安心して息を吐ける数少ない場所だった。
「――あの、飛鳥井くん。この本、棚に戻しておきましょうか?」
振り向けば、そこに月白美月がいた。図書委員の相棒であり、いつの間にか心許せる相手になっていた少女だ。蒼真の顔を覗き込む瞳は、澄み切った夜空の星々のように美しかった。
「い、いや……大丈夫です。俺がやるから」
「ふふ、ありがとう。あ、それ、天体の本?」
言葉はどこかぎこちなく、敬語とタメ口がせめぎ合う。だが二人で背表紙を並べる時間が長くなるほど、声は自然と柔らかくなっていった。飛鳥井蒼真は、いつの間にか月白美月の笑い方、仕草、ページをめくるときの小さな吐息まで覚えてしまっていた。
――気づけば、二人で机を並べ、星の話をするのが日常になっていた。
「見て、飛鳥井くん。この星座の並び、まるで隣の星と会話してるみたい」
「……本当だ。こっちの星はあまり規則性は無さそうだけど、ちょっとスニーカーっぽいな」
「うーん、そうかなぁ? ちょっと、こじつけな気もするけど、言われてみたら見えなくもないかな?」
美月は真剣に星を読み、ふっと子どものように笑う。その笑顔だけで、蒼真の胸はぽっと温かくなった。
図書委員の仕事を終えても、二人はすぐに帰らない。窓際に残り、ノートに星の名前を書き連ねる。誰も見向きもしないような小さな光に「名前をつけよう」と目を輝かせる彼女の横顔が、蒼真にはたまらなく愛おしかった。
――ある晩、二人で山頂に登った。冷たい空気が頬を刺し、吐く息がほのかな光を纏う。見下ろす町の灯りは宝石箱のように遠く、夜空は深淵のように広がっていた。
「ねえ、見て。少し外れたところに、小さな光がある」
「ああ……本当だ。こんなに小さいのに、ずっと光ってる」
「私たちで、名前をつけようよ。二人だけの名前」
美月の声は震えていた。彼女はノートを取り出し、控えめにペン先を走らせる。蒼真はその動作を見つめ、白い息を吐く。
「なんだか……私たちの子どもみたいね」
ぽつりと洩らされた言葉に、蒼真の鼓動は一拍遅れて大きく跳ねた。
「な、なに言って……っ」
「ち、ちがうの、変な意味じゃないの! 二人で初めて見つけた星だから、記念にって」
二人は同時に笑って、慌てて顔を逸らした。寒さと照れで頬が赤く染まる。その馬鹿らしいほどの幸福感が、蒼真の胸に深く刻まれた。
日々は穏やかに続いた。放課後の本の整理、委員室で交わす何気ない感想、夕暮れの市場で買い食いを分け合う時間──些細なことが、二人の距離を確かに近づけていった。
そして訪れた、告白の夕暮れ。商店街の路地はオレンジ色に染まり、風が紙袋を揺らす。蒼真は手の中のぬくもりを確かめるように拳を握りしめた。
「……あの、美月」
「なに?」
彼女の目は、いつものように真っ直ぐで、少しだけ不安そうだった。蒼真の声は震え、唇がうまく動かない。
「……俺は、その……」
言葉にならず、胸が締め付けられる。だが美月は小さく笑い、先に口を開いた。
「……わかってる。私も、同じだよ」
その一言で、蒼真の世界は光に満ちた。二人の気持ちが重なり合う瞬間、世界から音が消えた。聞こえてくるのは、互いの心臓の音だけ。
「それでも言わせてくれ」
「うん」
「俺は美月のことが好きだ」
「私も蒼真が好き」
幸福が、胸の奥を満たす──その直後、あたりの景色が少しずつ柔らかさを失っていく。夕暮れが深く、色濃く、時間の輪郭が薄れてゆく。美月の笑顔は少しだけ遠ざかり、声が響くように聴こえた。
――そして幻影は囁き始める。静かに、致死量に及ぶであろう甘さで。
「ねえ、蒼真。ずっとここにいよう?」
美月の声が、いつぞやの試練の時よりも更に甘美な誘惑として鼓膜を揺らしていた。
在り続けることが約束された停滞。誰もが縋りつきたくなるような温もり。
「帰らなくてもいいのよ」
「ここなら、ずっと一緒にいられる」
図書室の紙の匂い、山頂の冷気、夕暮れの温もり――すべてが蒼真を包み込み、彼を逃がさない。胸の奥にある『怖れ』がひどく喚き始める。もし現実に戻っても、美月はもう、あの頃のままでは無いかも知れない。彼女は別の誰かと笑っているかもしれない。あるいは、待ってなどいないかもしれない。
その恐怖はある種、真実だった。目の前にある無条件の幸福と、遠くにある希望——どちらを選ぶべきか。心が真っ二つに引き裂かれる。
「……美月……」
蒼真の膝が震え、声が掠れる。頷けば安堵に包まれるだろう。だが頷けば、約束した未来を捨てることになる。
彼は小さく息を吸い込み、胸の中でたぎる感情を見つめた。思い出に縋れば楽だ。優しい幻影の中に留まれば、心は癒えるだろう。しかしそれは、彼女と共に歩む「これから」を放棄することだと、蒼真の理性が告げる。
「違う。俺が愛したのは、記憶じゃない。これからを生きる君だ」
言葉は震えていたが、そこに揺るぎはなかった。
蒼真はゆっくりと立ち上がる。手の届く距離に、幻影の彼女が揺らめく。胸にぶつかる温かさに、ほんの一瞬だけ足が止まる。だが彼はその場で拳を強く握りしめ、もう一歩前へ踏み出した。
「俺は帰る。たとえどんな困難があっても、どんなに時間がかかっても。必ず――美月の元へ戻る」
蒼真が踏み出すと同時に、幻影が軋むように音を立て、色を失っていく。夕暮れのオレンジが粒となって砕け、山の星々が瞬いて崩れ、図書室の本の背表紙が薄い光の塵となって舞った。幻は、優しくも容赦なく、消えていく。
残されたのは冷たい墓地の風だけだった。だがその風は、先ほどよりも蒼真にとって穏やかに感じられた。胸の奥で固く結ばれた「誓い」が、彼を支えている。
「……美月、待っていてくれ。必ず、帰る」
飛鳥井蒼真は顔を上げ、暗闇の向こうへ、まっすぐに歩みを進めた。
過去は温かく残るが、もう彼を縛る鎖ではない。試練を越えた彼の足取りは、少しだけ強く、静かに決意を帯びていた。




