第48話『幻の妹』
冷たい風が頬を撫でた瞬間、ミラの視界に広がったのは――見覚えのある屋敷だった。
高い天井、光を集める水晶灯、豪奢な装飾。
その空気は、彼女が幼い頃に過ごした、魔導師の名家の館に他ならなかった。
足元に視線を落とすと、小さな影が駆け寄ってくる。
「……お姉さま!」
懐かしい声に振り向くと、眼前に信じられない光景が広がっていた。
そこにいたのは、幼い妹――リナ。
――ありえない。
あの日、あの事件で……リナは。
少女はただ純粋に笑っていた。
「おねぇさま、一緒に魔法の練習しようよ。わたし、また失敗しちゃった」
リナは頬を赤らめ、恥ずかしそうに笑う。
その笑顔は、ミラの記憶の中に焼き付いたままの真っ直ぐな笑顔だった。
ミラの指が震える。
伸ばせば届く。
その小さな手を、二度と離さないで済む。
私に力さえあれば、あの日、救えたはずなのだ。
「……リナ……」
その名を呼んだ声は、幼子のように弱々しかった。
思い出が脳裏をよぎる。
かつて二人で庭園を駆け回った日。
小鳥を捕まえようとして、リナは転んで膝を擦りむいた。
泣きじゃくる妹に、ミラは拙い治癒魔法を必死でかけた。
ほとんど効果はなかったが、リナは涙を拭い、にっこりと笑ってこう言った。
――「ありがとう、お姉さま」
その笑顔が、何よりの宝物だった。
だが、そんな幸せが続くことはなかった。
屋敷が襲われた“あの夜”。
濁流のような炎が天井を舐め、壁を崩し、全てを呑み込んでいった。
ミラは幼い腕で必死にリナを引こうとした。だが、瓦礫が崩れ落ち、灼熱が二人を隔てる。
「お姉さま、逃げて!」
炎の向こうから叫んだその声が、最後だった。
伸ばした手は届かず、ただ轟音と火の粉が降り注ぎ――リナの姿は紅蓮に消えた。
――守れなかった。
あの瞬間から、私の中の何かは死んだのだ。
幻影のリナが微笑み、彼女の手を取ろうとする。
温もりがすぐそこにあった。
だが、ミラはその瞬間、息を呑み、自らの頬を叩いた。
……違う。
これは夢。
本物のリナは、もう――。
「……私が欲しいのは、あなたじゃない」
唇を噛み、ミラは小さく震える声で告げた。
「本物のあなたは、もう戻らない……わかってる。だから私は……過去に縋らない。あの日の無力な私は死んだの、最愛の妹とともに……」
その声に、幻影の少女は一瞬、寂しげに目を伏せた。
重苦しい沈黙。
失ったものは戻らない。
痛みを抱いて歩めるほど、強くもない。
世界はどこまでも不条理だ。
ならば私は、全ての不条理を覆せるだけの力を欲する。
次は、私が世界へ不条理を押し付ける。
「リナ……見ていて。私は必ず、この力であなたの仇を滅ぼし尽くす」
その宣誓は、正義とは呼べない。だが彼女にとっては、それこそが真実なのだ。
復讐の火は強く、激しく、彼女がいかに妹を愛していたかの証でもある。
ミラの杖に濁流のごとく魔力が流れ込む。
炎雷が幻影を焼き払い、光の粒子が闇に溶けて消えていく。
自ら幻影を消し去り、その手に空虚な現実を取り戻す。
それでも彼女は知っていた。
過去を振り返ることは、何の慰めにもならないことを。
居心地の良い過去を振り払い、漆黒の墓地へと彼女の意識は回帰した。




