第4話『彼女の名はアルシェ』
「……名前を、教えろ」
銀の髪を揺らし、弓を構えたままの少女が言った。
その声には冷たい鋼の響きがあったが、同時に、どこか人間に対する試すような色も混じっていた。
蒼真は一瞬ためらい、深く息を吸った。
「蒼真……飛鳥井蒼真。俺は――ただ、地球に帰りたいだけだ」
少女は眉をひそめる。
「ソウマ……奇妙な名だな。それに“チキュウ”というのは……惑星の名か?」
グラントが横から慌てて割り込む。
「おい! あまり余計な情報を与えるな!」
だが少女はすでに、焚き火の向こうでその言葉を吟味していた。
まるで“地球”という未知の響きが、彼女の中の何かを揺さぶったかのように。
「……私の名はアルシェ」
ようやく弓を下ろした少女が言った。
「お前たち人間が、この森に踏み込んだ理由を聞こう」
蒼真はちらりとグラントを見やる。
だがここで黙り込めば、二度と信頼を得られないと悟った。
「俺たちは――この世界の外へ出るための“船”を作っている。そのために、大気中のマナを扱えるエルフの力が必要なんだ」
「船?」
アルシェの蒼い瞳が細められる。
「人間が海を渡るための小舟か?」
「違う」
蒼真は焚き火に手をかざし、拳を強く握った。
「空を越えて、星々を渡る船――宇宙船だ。
……俺はそれで地球に帰る」
アルシェの表情に、明らかな嘲笑が浮かんだ。
「星々を渡る? 人間の力で? 馬鹿馬鹿しい……そんなものは夢物語だ」
彼女は冷たく言い放ち、背を向けようとする。
だがその瞬間、蒼真は思わず口にしていた。
「夢だとしても、不可能だと言われても、信じなければ帰れないんだ!」
声が森に響く。
アルシェの足が止まった。
焚き火の影で、彼女の銀髪がわずかに揺れる。
長い沈黙の後、かすかに振り返り――冷ややかな瞳で蒼真を射抜いた。
「……本当に、マナを扱うエルフの力が必要なら。それを証明してみせろ」
彼女の声は挑戦の響きを帯びていた。
グラントがニヤリと笑う。
「ほぉ、どうやら興味は持ってくれたようだな。だが蒼真、これは厄介じゃぞ。エルフを納得させるのは容易じゃない」
蒼真は拳を握りしめる。
「なら、やってみせる。俺には……帰る理由があるから」
焚き火の火が、少年の決意を照らし出していた。
そしてその光を、アルシェは確かに見ていた。
ーー森の奥、淡く揺らめく光が壁のように広がっていた。
見た目はただの靄だが、近づくと肌にざらりとした冷気がまとわりつき、ただの霧ではないことがわかる。
アルシェが立ち止まり、蒼真たちを振り返る。
「これが……エルフの里を守る結界。“幻影の門”だ。侵入者は自らの心に潜む影と対峙させられる。乗り越えられなければ、永遠にここを彷徨うことになる」
蒼真はごくりと喉を鳴らした。
心の影――。
いずれにせよ、彼らに引き返すつもりなどない。
森を覆う結界に踏み込んだ瞬間、蒼真とグラントはそれぞれ闇の中に引きずり込まれた。
木々も、風も、アルシェの姿すら消え失せ、ただ己の心が形をとったような影が立ちはだかる。
◆
闇の中、彼女の姿が現れる。
地球に残してきた、あの日初めて告白し、手をつないだ少女。
その彼女が涙に濡れた声で囁いた。
「……どうして、帰ってこないの? いつまで私を待たせるの?
もしかして……もう別の女と一緒にいるの?」
胸が痛む。
その可能性は、蒼真自身が心の奥底で恐れてきたことだった。
いつ地球に戻れるかも分からない。
彼女は待っていてくれるのか? それとも、別の誰かと未来を選んでしまうのか?
幻影の彼女は震える手で、蒼真にすがりつく。
「ねぇ……このまま、ここにいてよ。勇者になんてならなくていい、宇宙船なんて作らなくていい。私だけを見てくれるなら、それでいいの……」
甘い囁きに、心が揺らぐ。
このままここに残れば、きっと俺は幸せだろう。例えそれが偽りだろうと、俺の前に彼女はいる……。
だが、地球に残っている美月はどうなる?
突如、わけもわからず消えた俺を心配しているはずだ。あの子の純粋過ぎる優しさに、俺は恋をしたのだから。
蒼真は歯を食いしばり、幻影の彼女を抱きしめ――そして、静かに背を向けた。
「俺は……必ず帰る。たとえ待っていてくれなくても、約束を果たすために。信じたいんだ。君も、そして俺自身の心も」
幻影は霧散し、闇に裂け目が走る。
蒼真の選択が、道を切り開いた。
◆
一方のグラントを包む闇は、彼の幼少期の記憶を映し出す。
膨大な知識を幼くして吸収し、誰よりも早く答えに辿り着く少年。
だが周囲の子供たちは距離を取り、親ですら理解できず、ただ畏怖の目で見ていた。
「お前は異常だ」
「一緒にいると気味が悪い」
「家の恥さらしめ」
誰にも理解されず、孤独を抱え続けた過去が突き刺さる。
幻影は彼に囁く。
「お前は永遠に一人だ。人はお前を道具としか見ない。ならばその才能を、この世界を焼き尽くすための復讐として使え」
「……そうだ。誰もわしを理解しようとはしなかった。父も母も、兄弟でさえ。わしはただ、ありのままを認めて欲しかっただけなのに。そんな世界に、一体どれほどの価値があるというのか……」
グラントの足が止まりかけたその時――。
声が聞こえた。
「グラント!」
闇の外から届く、蒼真の叫び。
「お前の知識で、俺は助けられた! 孤独だなんて言わせない! 確かに俺達は出会ったばかりの他人かも知れない。でも、それがなんだ! 俺はこの世界で初めて出会えた人が、お前で良かったと心から思う。俺は、お前を理解できる仲間でありたい!」
胸の奥に、熱が灯る。
孤独を抱えてきた彼に、初めて差し伸べられた言葉。
グラントは目を閉じ、静かに笑った。
「……そうか。ならば、この才は滅びではなく、希望のために」
幻影が砕け散り、闇は晴れた。
⸻
二人が結界の外で再び目を覚ますと、そこにアルシェが立っていた。
その翠の瞳は、ほんの僅かにだが確かに柔らかく揺れていた。
「……少しは、見直したわ」
彼女のその一言が、森を抜ける鍵となった。




