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メモワールの火炉  作者: 向井葵
第2章
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教室




「どの時間に行きますか?」




落ち着いた低音が車内に響いた。


静けさの中に、妙な確信めいた響きを持った問いかけだった。


「えっと…時間って、どういう意味ですか…?」


運転手は穏やかな口調のまま、まるで何度も繰り返してきた説明のように言葉を紡ぐ。


「行きたい時間を教えてください。

過去でも未来でも、お好きな時間へお送りします。」


簡潔で断定的な言葉。それなのに、その響きはどこか現実離れしていた。


「え…?それって、過去に戻れるってこと!?」


「はい。お客さんが望む時間へ行けます。」


それなら……何もかも元凶である、あいつと付き合う前に戻りたい!!


「じ、じゃあ…1か月前に戻りたい!」


私は思わず前のめりになって運転手へ伝える。


運転手は「わかりました。」と短く答え、前へ向き直る。


タクシーが静かに発車した。


──よかった。これで、また学校に行ける。みんなと過ごせる!


1か月前に戻ったら、あいつの悪い噂をいっぱい流してやる!


どんな男なのか、みんなに言いふらして居づらくしてやる!


車内は静寂に包まれていた。沈黙を破ったのは運転手だった。


「”1か月前”でしたら、少ししたら到着しますよ。」


「わかりました。」


……いや、ちょっと待って。


当たり前のように会話しているけれど、過去に戻るなんて漫画みたいな話じゃない?


「本当に過去に戻るんですよね?なんか、信じられないんですけど、一体どうやって……」


「不思議ですか?私もそう思います。」


「え?」


運転手の言葉に拍子抜けする。


「はは、失礼しました。冗談です。」


い、いやいや!そんな、茶目っ気を出すみたいに言われても、どう反応すればいいの……?


「あはは…やっぱり、冗談ですよね……一瞬信じちゃいましたよ。そう、ですよね…そんなわけないですよね。……1つ先の駅までお願いします。」


なんとか言葉を絞り出し、自宅最寄り駅を伝える。


「いえいえ。過去に戻るのは本当ですよ。今、向かっていますから。」


「はい…?」


何を言っているんだ、このおじいちゃんは。


「いえ、なんだか、お客さんの目が赤かったので、ちょっと冗談を言ってみました。」


「あ……」


そんなに、泣いてたっけかな……


「何か、あったんですか?」


静かで優しい声。


まるで泣いている子供を慰めるような声で、運転手は問いかける。


「えっと…」


私は話した。


入学直後のオリエンテーションで、たまたま同じグループになったあいつのこと。


おちゃらけてて、人を惹きつける面白い人。


学年の人気者になるのに、そう時間はかからなかった。


あいつを中心に何人かの友達と一緒に過ごすことが多くなって……


1か月前に私から告白をした。


それからは、学校とバイトの合間や夜遅くから朝まで、とにかくあいつはずっと私の家にいた。


あいつだけじゃなく、同じグループの友達も勝手に連れてくることが増えていた。


友達には、心の広い大人な彼女を演じたくて断れなかった。


”人気者の彼氏を持つ彼女=度量が大きい女性”というイメージをなんとしても維持したかった。


一度だけ「私がバイトの日くらいはゆっくり休ませてほしい。」と伝えたことがある。


あいつは「気にしないで。お前と一緒に居たいだけだから。」と……


そう言ってくれるのが嬉しくて、言葉のまま捉えていた。


本心は違ったんだ…と思う。


私の家は駅のすぐ隣。


あいつは、ただ私の家を便利に利用していただけ。


最初の1週間は浮かれていて気付かなかった。


けれど、だんだんと違和感が積み重なり、疲労に変わっていった。


マシンガントーク、周りを巻き込むテンション。


少しでもノリが悪い返事をすれば機嫌が悪くなり、ひそひそと「ノリ悪い」と周囲に言いふらされる。


最悪なのが「俺、朝講義ないから一緒に居てよ。」と、私まで巻き込んで講義を休むように誘ってくる。


断れば機嫌が悪くなり、周囲に文句を言うのが目に見えていた。


だから、仕方なかった。


自分の時間がなくても、バイトは行かなきゃならないし。


逃れられず、心身がどんどん疲弊していった。


そんな中で、レポートの件だ。


積もり積もった不満や疲れから、八つ当たりしてしまった。


いや、八つ当たりじゃなくて——彼女として当然の意見だったのに。


「最初は、よく笑う面白いヤツだと思ってた。一緒にいれば絶対に楽しい時間を過ごせると信じてた。でも、あいつはただの自己中心的な人間だった。自分が楽しむためなら、周囲を巻き込むことすら気にしない。こっちの気持ちなんて考えず、ひたすら好き勝手に振る舞ってた。私も、『やめてほしい』『少しは休ませてほしい』って、ちゃんと言えればよかったのに……でも、周りの人を気にして、何も言えなかった……」


ずっと我慢していた心のうちを吐き出すと、ぽろぽろと涙が溢れた。


「そうですか。お客さんは優しい方なんですね。」


優しい?……違う。私は臆病なだけだ。


「いえ…優しいんじゃなくて、周りからの目が怖くてずっと我慢してきただけ、なんです……」


タクシーが路肩に停車する。


「お客さん。着きましたよ。”1か月前”です。」


運転手の言葉が、穏やかに、しかし確かに響く。


外を見ると、学校の正門。


いつも通っている道、見慣れた風景。


だが、それは本当に”過去”なのだろうか。


「本当に……”1か月前”?」


「はい。そうですよ。安心してください。」


また冗談を言ってるわけじゃ……ないよね?


戸惑いを抱えながらも、とりあえず外に出ようとバッグに手をかける。


その瞬間、運転手が淡々と告げた。


「では、お代は記憶1か月分です。」


「え?記憶?」


「はい。運賃はお客さんの記憶1か月分です。」


「いや、記憶って……?そもそも、どうやって支払うんですか?」


運転手は静かに微笑む。


「ええ、うちはタッチ決済のみです。この端末に手をかざしてください。」


運転手が、手のひらサイズの端末を差し出す。


タッチ決済……?スマホじゃないんだから、そんなので記憶を支払うなんて——


「き、記憶って……いつの記憶なんですか?」


「お客さんの、今から1か月前までの記憶です。」


1か月前——


あいつと付き合う前。


いつもの臆病な自分なら、告白なんてできないはず。


でもその勇気を、別の事に変えられていたら……


いや、そもそも、初めての彼氏があいつだなんて、忘れてしまったほうがいい——そう、思った。


指先が、端末に触れようとしたその瞬間——


掌の奥で、かすかな灯が揺らめいた。


それは熱でもなく、光でもなく、何かがゆっくりと解けていく感覚。


まるで閉じ込めていた炎を放つように、内側から零れ落ちるもの。


見えない火が肌を離れ、薄暗い影のように漂いながら、


夜空に消える火の粉のように、静かに、端末へと吸い込まれていく。


——記憶が、ひとつひとつ、溶けるように消えていく。


脈打つ心音が、遠のく。


世界が、静寂に包まれた。


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