彼氏
レポートを忘れていたことに気づいた瞬間、全身に冷や汗が流れた。
出席日数もギリギリ、このままでは単位を落としかねない。
明日が提出期限だが、今から手をつけても到底間に合わないだろう。
少しでも進めていれば、何とかなったのに——。
どうしようもない焦りのあまり、彼氏に八つ当たりしてしまう。
「お前がレポート忘れてたのが原因だろ?俺に当たるなよ……」
「わかってるよ!でも、そんな言い方しなくてもいいじゃん!彼女が困ってるのに、助けようって気持ちはないわけ?」
「は?なんで俺が、お前のレポートをどうにかしなきゃいけないんだよ?関係ねぇじゃん。」
「関係ないって……付き合ってるんだから、ちょっとくらい協力してよ!」
「俺、レポートのことなんか知らねえし!お前が勝手に忘れただけだろ?普通、自分で何とかするもんだぞ!!」
「だから、その言い方が腹立つんだって!もう少し気を遣えないわけ!?私、今本当にピンチなんだけど!」
「そんなことでキレるなよ、面倒くせえな……お前、自己中すぎるんだよ!」
売り言葉に買い言葉。言い争いはどんどん激しくなる。
「……無理。もう知らね。俺に責任押し付けんな!勝手に単位でも落としてろ!二度と俺に関わんな!!」
彼氏は舌打ちし、踵を返して立ち去ろうとする。
「……っ!!あんたがいなければ、そもそもレポートなんて忘れてないんだよ!それこそ、こっちに責任押し付けんなっ!!!」
怒りが頂点に達し、バッグごと彼氏に投げつけた。
中身が散乱し、彼氏は振り返ることなく、そのまま部屋を出る。
ドンッッ!!!と、壁を蹴る音が響く。
足音が遠ざかり、静まりかえる部屋。
力が抜けたように、その場にしゃがみ込む。
ああ、もう嫌だ。
あんな奴だと思わなかった。
あんなのと付き合ってた自分が許せない。
そう思った途端、涙が溢れる。
ムカつく。ムカつく!ムカつく!!ムカつく!!!
悔しい。悔しい!悔しい!!悔しい!!!
出席日数も、レポートを忘れたのも、全部あいつのせいだ!
付き合わなければ、こんな思いをすることもなかったのに!!
人が寄り付かない校舎の隅の教室で、彼氏だった相手を呪う。
しばらく泣いた後、顔を上げ、散乱した荷物をぼんやりと見つめる。
視界がかすむ——コンタクトが外れたのかもしれない。
定まらない視界でなんとか荷物をまとめ、中からメガネを取り出す。
最悪の気分のまま、教室を出ていく。
自宅へ向かう途中、喧嘩の光景が何度もフラッシュバックする。
あいつは口が軽いから、きっとみんなに言いふらす。
もうすでに、SNSであることないことばら撒いているかも。
みんなに陰口を叩かれるかもしれない。
みんなから、後ろ指をさされるかもしれない。
明日には、グループからハブられるかもしれない。
もしかして…もう、自分の居場所がないのかもしれない……
一人で学校生活なんて、絶対無理だよ……
後悔と不安、恐怖が絡み合い、また涙が溢れそうになる。
「………」
その時、視界の端に一台のタクシーが映る。
静かに近づいてきた車の後部座席の扉が、何も言わずに開く。
——こんな状態じゃ歩くのもつらいし…タクシーを使おうか——
乗り込んだ瞬間、異様な空気を感じた。
外の喧騒が、すぅっ、と消え去る。
まるで街から切り離されたかのように、車内には雑音がない。
あるのは、心地よいエンジンの振動と低く響く駆動音だけ。
シートに身を沈めると、驚くほど柔らかく感じた。
体を預けた瞬間、まるで重力から解放されたかのような感覚が広がる。
自分の体重の存在すら忘れそうになるほどに。
怒りも、悲しみも、焦りも、すべてが霧散する。
とても落ち着く。
それが異様に思えるほどに。
前を向くと、黒い手袋をはめた運転手が、穏やかにこちらを見ていた。
「どの時間に行きますか?」
低く、ゆっくりと響く声。
深みがあるのに、不思議なほど安らげる。
異様なのに、心地よい。
頭がぼんやりとするほどの静けさの中、その言葉だけが鮮明に響いていた。




