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メモワールの火炉  作者: 向井葵
第2章
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彼氏


レポートを忘れていたことに気づいた瞬間、全身に冷や汗が流れた。


出席日数もギリギリ、このままでは単位を落としかねない。


明日が提出期限だが、今から手をつけても到底間に合わないだろう。


少しでも進めていれば、何とかなったのに——。


どうしようもない焦りのあまり、彼氏に八つ当たりしてしまう。


「お前がレポート忘れてたのが原因だろ?俺に当たるなよ……」


「わかってるよ!でも、そんな言い方しなくてもいいじゃん!彼女が困ってるのに、助けようって気持ちはないわけ?」


「は?なんで俺が、お前のレポートをどうにかしなきゃいけないんだよ?関係ねぇじゃん。」


「関係ないって……付き合ってるんだから、ちょっとくらい協力してよ!」


「俺、レポートのことなんか知らねえし!お前が勝手に忘れただけだろ?普通、自分で何とかするもんだぞ!!」


「だから、その言い方が腹立つんだって!もう少し気を遣えないわけ!?私、今本当にピンチなんだけど!」


「そんなことでキレるなよ、面倒くせえな……お前、自己中すぎるんだよ!」


売り言葉に買い言葉。言い争いはどんどん激しくなる。


「……無理。もう知らね。俺に責任押し付けんな!勝手に単位でも落としてろ!二度と俺に関わんな!!」


彼氏は舌打ちし、踵を返して立ち去ろうとする。


「……っ!!あんたがいなければ、そもそもレポートなんて忘れてないんだよ!それこそ、こっちに責任押し付けんなっ!!!」


怒りが頂点に達し、バッグごと彼氏に投げつけた。


中身が散乱し、彼氏は振り返ることなく、そのまま部屋を出る。


ドンッッ!!!と、壁を蹴る音が響く。


足音が遠ざかり、静まりかえる部屋。


力が抜けたように、その場にしゃがみ込む。


ああ、もう嫌だ。


あんな奴だと思わなかった。


あんなのと付き合ってた自分が許せない。


そう思った途端、涙が溢れる。


ムカつく。ムカつく!ムカつく!!ムカつく!!!


悔しい。悔しい!悔しい!!悔しい!!!


出席日数も、レポートを忘れたのも、全部あいつのせいだ!


付き合わなければ、こんな思いをすることもなかったのに!!


人が寄り付かない校舎の隅の教室で、彼氏だった相手を呪う。


しばらく泣いた後、顔を上げ、散乱した荷物をぼんやりと見つめる。


視界がかすむ——コンタクトが外れたのかもしれない。


定まらない視界でなんとか荷物をまとめ、中からメガネを取り出す。


最悪の気分のまま、教室を出ていく。


自宅へ向かう途中、喧嘩の光景が何度もフラッシュバックする。


あいつは口が軽いから、きっとみんなに言いふらす。


もうすでに、SNSであることないことばら撒いているかも。


みんなに陰口を叩かれるかもしれない。


みんなから、後ろ指をさされるかもしれない。


明日には、グループからハブられるかもしれない。


もしかして…もう、自分の居場所がないのかもしれない……


一人で学校生活なんて、絶対無理だよ……


後悔と不安、恐怖が絡み合い、また涙が溢れそうになる。


「………」


その時、視界の端に一台のタクシーが映る。


静かに近づいてきた車の後部座席の扉が、何も言わずに開く。


——こんな状態じゃ歩くのもつらいし…タクシーを使おうか——


乗り込んだ瞬間、異様な空気を感じた。


外の喧騒が、すぅっ、と消え去る。


まるで街から切り離されたかのように、車内には雑音がない。


あるのは、心地よいエンジンの振動と低く響く駆動音だけ。


シートに身を沈めると、驚くほど柔らかく感じた。


体を預けた瞬間、まるで重力から解放されたかのような感覚が広がる。


自分の体重の存在すら忘れそうになるほどに。


怒りも、悲しみも、焦りも、すべてが霧散する。


とても落ち着く。


それが異様に思えるほどに。


前を向くと、黒い手袋をはめた運転手が、穏やかにこちらを見ていた。




()()()()に行きますか?」




低く、ゆっくりと響く声。


深みがあるのに、不思議なほど安らげる。


異様なのに、心地よい。


頭がぼんやりとするほどの静けさの中、その言葉だけが鮮明に響いていた。


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