晒された失敗
「………ん。…きゃ…さん。おきゃくさん。」
遠くで声がする。揺れに包まれている。
俺はゆっくりとまぶたを開いた。
「お客さん。起きてください。目的地に着きましたよ。」
ここは、タクシーの後部座席。
目の前には黒い手袋をした運転手の姿。
低く穏やかな声が車内に響く。
「あ……すみません。」
頭がぼんやりしている。
意識の奥が霞んでいて、まだ完全に覚醒しきれない。
会社に行かなきゃ——それだけを考えながら、体を起こした。
「ええっと、お代は?」
「清算は終わってますよ。」
「え? ……そうですか……?」
違和感があった。
だが、それを言葉にするほど思考は明瞭ではない。
無意識に荷物をまとめ、タクシーを降りる。
歩きながら、ふと思う。
——俺は、どうしてタクシーに乗っていた?
だが、答えが出る前に会社のビルが目の前に迫る。
「おはようございます。」
オフィスに入るなり、俺はいつものように挨拶した。
「おい!」
突然、鋭い声が響き、上司がこちらへ向かってくる。
「遅刻だぞ!連絡もつかないし、どういうことだ!?」
「え? ……遅刻…?」
俺は反射的にオフィスの時計を見る。
出社時間を2時間も過ぎている。
血の気が引いた。
「も、申し訳ありません……!」
「連絡もなし、電話もつながらないし、どういうことだ?」
スマホを確認する。電源が入らない。充電切れのようだ。
「スマホの充電が切れてて、連絡ができず……電話にも出られませんでした。」
寝ぼけた頭を必死に働かせ、どうにか説明を繋げる。
「寝坊してしまい、急いでタクシーを使ってきました。申し訳ございません。」
上司に深く頭を下げる。
周囲の同僚の視線が突き刺さるように感じる。
大勢の前で怒られるなんて……最悪だ。
「今日ならまだいいが。その遅刻、明日やらかしてたら大事になっていたぞ?君の今後にだって影響しかねない。」
「はい……承知しています。」
頭を下げたまま返す。
「はあ……昼までに遅刻報告書を提出するように。」
「はい。……以後、気をつけます。申し訳ありませんでした。」
上司は溜息をついて自席へ戻る。
俺も自分のデスクに腰を下ろし、大きく息を吐いた。
はあ……なんでこんな目に……。
「ほんとに、明日じゃなくてよかったな。」
隣のデスクの同僚がぼそっと言う。
「大事な商談に遅刻するわけないだろ。そもそも遅刻なんて、今回が初めてだよ。」
「確かにな。でもこの商談、破談になったら損害額ハンパないぞ……減給か降格は確実だし、今後のキャリアに響くよなー。」
「まあ、そう思えば不幸中の幸いか……でも、みんなの前で怒られるなんて最悪だ……。」
「仕方ない仕方ない。景気づけに帰りに1杯飲んでいくか?」
「アホか!どこの誰が寝不足になるリスクを負うんだよ!帰ったら速攻寝るわ。」
「はは、冗談だよ。そういえば、ネクタイは?そのままだと、また上司に怒られるぞ。」
「……ネクタイ?」
俺は首元を確認する。
ネクタイが……ない?
不思議な感覚が胸に広がる。
——今朝、俺はどうしてたっけ?思い出せない。
カバンを開くと、ぐちゃぐちゃに折れ曲がったネクタイが出てくる。
「あ~あ。しわだらけ。しっかり伸ばしてから報告書持ってけよ。また怒られるから。」
「はあ。今日は本当についてないな……。」
俺はネクタイのしわを伸ばしながら、苦々しくつぶやく。
だが、胸の奥では別の感情がじわじわと広がっていた。
——朝の記憶が抜け落ちている。
——本当に俺は、寝坊しただけなのか?
その疑問は、ゆっくりと意識の底へ沈んでいく。
まるで、夜の灯火が静かに消えていくように——。




