帰宅した夜
「どの時間に行きますか?」
俺は意味が分からず、返事をすることができなかった。
「どこ…とは…?」
硬直したまま、かろうじて口から出た言葉がこれだ。
運転手は穏やかな声で、まるで何度も繰り返してきた説明のように言葉を紡ぐ。
「行きたい時間を教えてください。
過去でも未来でも、お好きな時間へお送りします。」
抑揚のない口調。
だが、その響きは異質だった。
タクシーの車内という日常的な空間にそぐわないほど、簡潔で断定的。
俺は一瞬、冗談か何かかと疑った。
だが、運転手の顔には微笑もなく、その言葉はあまりにも自然に宙を漂っている。
「……そんなことが、できるんですか?」
「はい。」
戸惑いながらも、時間移動なんてものが本当にできるなら、昨日の夜、自宅に帰った瞬間に戻りたいと思った。
失敗の始まりに戻ることができるなら。
「昨日の夜、自分が帰宅した瞬間……そこに戻りたいです。」
運転手は「わかりました。」とだけ言い、アクセルを踏んだ。
エンジンの低い振動が俺の背中に伝わる。
沈黙。
妙に落ち着いた空間。
車が流れる道路の外には、さっきまで俺が駆け抜けていた現実が広がっているはず。
なのに、それがすでに遠ざかっているような錯覚。
「細かい場所まではわからないので、昨日の朝でもいいですか?」
運転手がそう言ったとき、俺はわずかに眉をひそめた。
「……え? あー……はい……」
言葉の意味が飲み込めないまま、曖昧に答えてしまう。
昨日の朝…
過去に戻るとは、どういうことなのか?
時間を遡る?
その言葉通りなら、昨日の朝、その瞬間にタイムリープするということか?
だが、そんなことが本当にあり得るのか?
車内の温度は一定で、まるで均質な空気に包まれていた。
窓の外を流れる景色が、距離感を失っているように感じる。
気づくと、熱いか寒いかわからない体の熱と、焦燥感が消えていた。
寝坊してしまった——そのはずなのに、もうそれどころではない。
“現実の中の非現実”に取り込まれたような感覚に、ただ混乱するばかりだった。
運転手はふと、静かな声で言う。
「”昨日の朝”なら、すぐに着きます。安心してください。」
言葉は優しく穏やかだったが、その響きには確信がある。
俺はためらいながら問いかけた。
「運転手さん……あの……よくわからずお願いしてしまったんですが、“昨日の朝”まで時間を遡るってことですよね?」
「はい。」
「その意味がよくわからないんですが……」
「お客さん。最初”昨日の夜に戻りたい”とおっしゃいましたけど、何か後悔していることがあるんですか?」
「え?……はい。実は……」
俺は話し始めた。
昨夜、緊張を紛らわすために飲んだ酒のこと。
ほんの一杯のつもりが、気づけばボトルが半分空になっていたこと。
それでスマホの充電を忘れ、アラームが鳴らなかったこと。
起きたときにはすでに商談に間に合わない時間だったこと——。
「そうだったんですか。大丈夫ですよ。それなら、たいしたことありません。」
運転手はゆるやかに言う。
その言葉に、俺は思わず声を荒げた。
「たいしたことって……俺にとっては人生がかかってるんですよ?」
「ああ、すみません。そういう意味じゃなくて、ちゃんと取り返しがつく、という意味です。」
運転手は慌てて訂正するも、同じ意味のように感じる。さっぱりわからない。
運転手はスムーズにハンドルを切り、タクシーをゆるやかに停車させた。
「お客さん。着きましたよ。“昨日の朝”です。」
俺は窓の外を見た。
いつも通りのオフィスビルの前の路肩。
何も変わらない光景。
ただの朝の街角。
「……本当に“昨日の朝”なんですか?」
疑いの眼差しをバックミラー越しに運転手へ向ける。
「はい。そうですよ。安心してください。」
嘘でも本当でも、ここにいつまでもいるわけにはいかない。
俺は諦め、支度を始める。
運転手は淡々と告げた。
「では、お代は記憶1日分です。」
「はあ?」
「運賃は、お客さんの記憶1日分です。」
「いや、その言葉の意味がわからないんですけど……」
「お客さんの、今から昨日の朝までの記憶を代金として頂戴します。」
「……」
俺は理解することを諦めた。
話が進まない。
仮に本当に昨日の朝までの記憶がなくなったとしても、構わない。
普段は平日に酒なんて飲まない。
だから、いつも通りの平日の夜を過ごせばいい。
酒を飲まなければスマホだってちゃんと充電する。
朝、アラームが鳴っていつも通り起きれるはずだ。
今度は失敗しない。
こんな生きた心地のしない記憶なんて、忘れてしまったほうがいい——そう思った。
「……どうやって支払うんですか?」
運転手は静かに微笑む。
「ええ、うちはタッチ決済のみです。この端末に手をかざしてください。」
運転手が差し出した手のひらサイズの端末に、俺はゆっくりと手を伸ばした。
——指先が、端末に触れようとした瞬間。
かすかな灯が、掌の奥で揺らめいた。
それは熱でもなく、光でもなく、何かがゆっくりと解けていく感覚だった。
まるで閉じ込めていた火を放つように、俺の内側から零れ落ちるもの。
見えない火が肌を離れ、薄暗い影のように漂いながら、夜空に消える火の粉のように端末へと吸い込まれていく。
その瞬間、俺の記憶がひとつひとつ溶けるように、静かに消えていった。
脈打つ心音が遠のく。
深い眠気が、影のように意識を覆っていく——。




