深酒
夜が明ける。部屋のカーテン越しに差し込む光がぼんやりとした影を作っていた。
意識がはっきりするよりも先に、強烈な違和感が襲った。
時計を確認しようと手を伸ばす。しかしスマホは机の上で沈黙している。
画面は黒いまま、電池が切れているのだとすぐに悟った。
「まさか…!」
胃の奥がねじれるような感覚を覚えながら、壁の掛け時計へ目を向ける。
そこには、約束の時間をすでに30分過ぎた数字が並んでいた。
身体から血の気が引き、昨夜のことが脳内で走馬灯のように駆け巡る。
今日の商談に備え、気持ちを落ち着かせるために飲んだ酒。
同僚や上司、社長までもが自分に大きな期待を寄せている。
その期待がプレッシャーとなり、緊張につながって判断を鈍らせた。
ほんの一杯だけのつもりが、気づけばボトルは半分空になっていたのだ。
疲れも手伝って、そのまま眠りに落ちてしまい――。
そして今、最悪の形でその代償を払うことになった。
「ヤバい……!」
頭の中で警鐘が鳴り響く。スマホの充電が切れていたから、アラームも鳴らなかったのか。
しかも、会社への連絡も取れず、タクシーを呼ぶこともできない。
とにかく行くしかない。職場へ向かわなければ。
急いで支度をし、慌ただしくシャツのボタンを留める。ネクタイはカバンに詰め込む。
靴を履き、ドアを開け、駅へ向かって全力で走った。
心臓が激しく脈打つ。呼吸が浅い。
走りながら、遅刻の影響について考えずにはいられなかった。
上司の叱責は避けられないだろう。
それだけならまだいい。
大事な商談だ――もし失敗すれば、会社に居場所はなくなるかもしれない。いや、最悪クビなんてことも――
今流れる汗は、ただの発汗か、冷や汗か、脂汗か。
走って体が熱いのか、血の気が引いて寒気を感じているのか。もう訳が分からない。
たった一回深酒をしただけで、自分の居場所がなくなってしまうのか?
たったスマホの充電を忘れただけで、人生が終わってしまうのか?
足を止めるわけにはいかない。だが、この焦燥感は胸の奥に根を張り、離れない。
そのとき、目の前に1台のタクシーが静かに停車した。
「…助かった…!」
そう思い、タイミングよく開いたドアから飛び込むように乗る。
「運転手さん…!急いでノクス企画のオフィスビルまで……え?」
シートに身を沈めると、妙な静けさに気づいた。
外の喧騒が、まるで遮断されたかのように感じる。
車内には規則正しく響くエンジン音だけが残り、温度も心地よすぎるほど整っている。不自然な程に。
運転席を見る。黒い手袋をはめた運転手が、ハンドルを握ったままゆったりとした動作で振り返る。
彼はまるで、聞こえなかったかのように、落ち着いた声で言った。
「どの時間に行きますか?」
荒い呼吸のまま、硬直する。
目の前の運転手の言葉の意味が分からない。
ただのタクシーではない。
そう悟るには、十分すぎる沈黙だった。