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メモワールの火炉  作者: 向井葵
第3章
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小さな寝息


「………ん。…きゃ…さん。おきゃくさん。」


ぼやけた耳に、低く穏やかな声が届いた。


目を覚ますと、私はタクシーの後部座席にいた。


黒い手袋をした運転手が、こちらを振り返っている。


「お客さん、大丈夫ですか? 目的地に着きましたよ。」


目的地?


窓の外には、自宅の玄関が見えていた。


どうしてタクシーに乗っていたのか、まるで思い出せない。


頭の中が霞がかかったようにぼんやりする。


「あれ……なんでタクシーに……?」


「お荷物、お忘れずに。」


声に促されて隣を見ると、酒の入ったコンビニ袋が置かれていた。


ああ……そうだ。酔いに任せて買い物に出かけて、その帰りか。


視界がゆらつく。


私はきっと、眠ってしまっていたのだろう。


「ありがとうございます。おいくらでしょうか?」


ぼうっとした頭で、なんとか言葉を口にする。


「精算済みですよ。ご乗車ありがとうございました。」


――え、いつの間に?


まだ胸の奥が、もやもやとした霧のような感覚に包まれていた。


けれどそのまま、私はタクシーを降りて家へと向かう。


玄関の鍵を開けると、見慣れない男物の靴が目に入った。


その瞬間、緊張が走る。


一歩外に戻ろうとしたそのとき――


奥の部屋から、男が現れた。


「おかえりー。遅かったね。ちょっと心配したよ。」


その顔に、見覚えがあった。


彼は、さっき別れたばかりの、かつての交際相手。


でも、別れたはずの彼が、なぜこの家に……?


私はその場に立ち尽くしてしまい、身体が動かなくなる。


彼の方も、私の様子に戸惑ったようだった。


「ど、どうしたの? 固まっちゃって……」


「あ……あの……どうして、私の家に?」


思わず震える声が出た。


それに、さっき会った時より、少し……年を重ねている気がする。


「え? どうしてって……ほんとに、どうしたの? とりあえず、ソファに座って……」


彼に促され、私はゆっくりと部屋へと入った。


ソファに座ると、彼が水を差し出してくれた。


私の動揺を察してか、あまり詰めず、ゆっくりと話しかけてくる。


少しずつ言葉を交わすうち、彼が信じられない事実を語りはじめる。


――私たちは10年前に入籍していた。


私は、彼が“私の夫”であることを受け入れられずにいた。


けれど彼は、落ち着いた口調で経緯を説明してくれた。


最後に覚えているのは、価値観の食い違いから交際が破談になった日のこと。


私はその夜、ショックでひとりヤケ酒をし、コンビニへ出かけた。


……その先の記憶は途切れている。


彼の話によれば、その数日後、私から結婚相談所を通して「もう一度話し合いたい」と連絡があったという。


そして私は、以前は譲れなかった彼の価値観に歩み寄る姿勢を見せ、彼もまた、それを受け入れてくれた――


そうして、私たちは結婚に至ったのだと。


私は何も覚えていない。まるでその人生を誰かから借りたような感覚だった。


「……全然思い出せないです。」


絞り出したその声に、彼はふっと眉を下げる。


「いいんだよ。思い出せなくても。君が帰ってきてくれた、それだけで今日は十分だ。」


そう言って、彼はそっと私の背中をさすってくれた。


その手の温度だけが、現実を少しだけ輪郭づけてくれる。


「それと…敬語、やめてくれよ。……なんか、照れるから。」


「……うん。」


ほんのわずかに笑みがこぼれる。けれど心はまだ、揺れていた。


「そろそろ寝なさい。寝室も変えてないから、場所は分かるよね?」


「大丈夫。間取りは覚えてる。」


部屋を見渡すと、配置や色は違えど、確かに“私の家”のままだった。


キッチンカウンターに目をやると、飾られた写真立てが目にとまる。


そこには、私と彼、そして小学生くらいの男の子が写っていた。


視線を外せずにいると、彼が気まずそうに近づいてくる。


「もしかして……これも覚えてない?」


彼は写真立てをそっと外し、私に手渡してくる。


「場所はわかる。あなたと初めて行った丘の上のカフェ。


でも、この子の顔には、心当たりがないの。」


彼は、寂しそうに少し目を細め、短く説明した。


「これは、去年の家族旅行で立ち寄ったカフェで撮った写真だよ。


写ってるのは、俺たちの子ども。今は奥の部屋で寝てる。」


静かに涙が滲んだ。けれどそれは喜びの涙ではなかった。


私は確かに、願っていたはずの未来を手に入れている。


なのに、そこにたどり着いた“私”を、私は知らない。


欲しかったものが、知らないうちに用意され、何も感じる間もなく渡されたような――そんな虚無感。


「ごめんなさい……ごめんなさい……何もわからないの。思い出せない……」


嗚咽は出なかった。ただ、言葉が滲む。


彼はゆっくりと頷き、落ち着いた声で応えた。


「いいんだよ。明日、病院に行こう。


記憶のこと、少しずつ調べていこう。今日は……今日は、ここに帰ってきたんだから。」


彼の手が私の背に添えられ、優しく撫でてくれた。


その温度に導かれるように、私は寝室へと向かった。


照明を落とした寝室は、音が沈んだ海のようだった。


空気はほのかに冷えていて、ここだけが時間から切り離された場所のように思えた。


ベッドに横たわり、瞼を閉じる。


目の裏で、なにかが漂っている。


それが記憶なのか感情なのか、まだ名前はつけられない。


けれど、胸の奥では微かなざわめきが渦巻いていた。


苦しさでも、悲しさでもない。


ただ“自分ではない誰かの人生を着ているような居心地の悪さ”だけがそこにあった。


私が今日まで、どんなふうに暮らしてきたのか。


子どもに、どんな声をかけてきたのか。


――わからないまま、明日が来ることが怖かった。


ふと、机のことを思い出した。


そういえば私は、日記をつける習慣があった。


記憶の中のままの机。


鍵のかかった引き出しを開けると、分厚い三行日記が何冊も並んでいた。


その重みに少し怯えながらも、私は一冊を取り出してめくる。


今日だけは眠れそうにないから――


せめて、“かつての私”が遺した言葉に触れていたかった。


空っぽだった器に、誰かの声がすこしずつ落ちていく。


それは昨日の私ではなく、きっと“明日の私”になるための記憶。


同じかたちでは戻らない。けれど、この雫がまたなにかを咲かせてくれるなら――


私は、この空白に、根を張ってもいいと思えた。


そう願いながら、私はそっとページを繰っていく。


知らないはずの言葉が、どこか懐かしく胸を打った。


窓の向こうでは、夜が淡く解けはじめていた。


新しい朝が、記憶のない私の上にも、等しく差し込んでくる。


それだけが、この夜の終わりの、確かなしるしだった。


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