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メモワールの火炉  作者: 向井葵
第3章
13/15

思いを馳せる―後編―


「ここが、10年後……」


見慣れたようで、どこか知らない住宅街。


看板も、街灯も、家々の灯りも……微かにずれている。


「本当に10年後なんですか?冗談ではなく……?」


「はい。ここは“10年後”です。ご安心ください。」


「……」


どう反応すればいいか分からず黙り込んでいると、運転手が静かに切り出す。


「さて、お代なんですが……」


「え……お代?」


そうか、当然だ。


タクシーなのだから。


けれど――時間移動となると、一体いくらかかるのだろう。


財布の中身を思い出して、少し不安になる。


「おいくらでしょうか?」


「はい。ですがその前に、瓶をご確認ください。


そこに満ちている水は、お客さんの“10年分の記憶”です。」


「記憶……?」


瓶の底を覗き込む。


青白く、薄く輝く液体が静かに揺れている。


見たこともない水。


いつの間に、こんなに――


「これは、ご乗車いただいてから”今日”まで、お客さんが選択し歩んだ10年分の記憶を抽出したものです。」


この瓶に、私の――歩んでいたはずの10年間が詰まっている?


目の前のこの世界と、瓶の中の記憶。


それらが交差する前触れのように、胸がざわつく。


「運賃として頂戴するのは、“その記憶10年分”になります。」


「……記憶が、代金?」


思考が追いつかない。


しかし、もう逃れられないような静けさがあった。


「お支払いはタッチ決済のみとなっております。


記憶を取り込まれた上で、こちらの端末に手をかざしてください。」


さっきまで穏やかだった運転手が、抑揚なく淡々と告げる。


声の調子は優しいままなのに、どこか――抗えない断定が滲んでいた。


「さあ。ご準備ができましたら、どうぞ、それを飲み干してください。


中には、お客さんが歩んだ“10年”が満ちています。


飲み終えたら、触れるだけで――支払いは完了いたします。」


飲んでから払えだなんて、それはなかなか……


「の、飲まずにこのままお渡しでは……いけませんか?」


「申し訳ございません。


その水は、お客さんにとってのみ価値のあるもの。


中身を取り込まなければ、対価としての意味を持ちません。」


なんて、残酷な。


私が知りたかったのは、あくまで“結果”だったはず。


けれど今、答えは手の中にあって――それを知ったうえで、すぐに失わねばならない。


知るのも、怖い。


失うのも、怖い。


呼吸が浅くなる。手が、ほんのり汗ばむのを感じる。


「お客さんのタイミングで結構です。


どうか、心を落ち着けてください。」


そう言われても、やっぱり怖い。


私は知らないことを知るのが、ずっと好きだったはずなのに――


……ふと、思い出す。


塾に通っていた頃、勉強が苦手でいつも泣きそうな顔をした子がいた。


特別講習のときには、まるで地獄にでも行くような顔で机に向かっていたっけ。


今なら、分かる気がする。


みんながみんな、知ることが好きなわけじゃない。


私は、いつのまにか自分の感覚だけを正しいと思っていたのかもしれない。


ほかの選択肢や可能性を考えもせずに。


ああ、でも。


せっかく気づいたこの気持ちも、やがて失われるのか……


……そう思った瞬間、瓶の中で光がまたひとつ、ふっと揺れた。


青白い水面に、ぽたり――と遅れて落ちた一滴。


それはまるで、今の“この気づき”さえも、記憶として未来に届いていた証のようだった。


もし、未来の人生で気づけていたのなら――それだけで、もう十分だ。


きっと大丈夫。


そうでなかったとしても――きっと、受け止められる。


その時には、もう記憶はないけれど。


でも、それでも。


私は瓶の蓋をそっと回し、青く輝く液体を口元へと運ぶ。


一口――未来の記憶が、身体を駆け抜ける。


二口――知りたかった景色を、心の中で噛みしめる。


三口――喉を通った瞬間、涙が零れ落ちる。


ああ、よかった。


私は――()()()()()()()


それを失うのは、確かに苦しい。


だけど、まだ、やり直せる。


そう思えただけで、もう十分だった。


運転手が、静かに端末を差し出す。


私は、深く呼吸しながら、その端末に手を伸ばす。


――触れようとしたその瞬間。


掌の奥が、かすかに揺らいだ。


熱でもなく、痛みでもない。


それは、“何かが自分の内側から解かれていく”感覚だった。


閉じ込めていた火が放たれ、見えない灯が肌を離れ、薄く揺れる影のように宙を漂い――


夜空へと消えていく火の粉のように、端末へと吸い込まれていく。


その瞬間、私の記憶がひとつずつ、音もなく溶けていった。


心音が遠のき、深い眠気が影のように意識を覆っていく――

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