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メモワールの火炉  作者: 向井葵
第3章
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思いを馳せる―中編―


私の思い描く将来。


それは、私が育った家庭そのものの再現だ。


両親と妹との4人家族。


父は仕事に追われてほとんど家にいなかったけれど、その分、母が私たち姉妹にたっぷりの愛情を注いでくれた。


たとえば――


「星座の名前の由来を調べたい」と言ったら、すぐにプラネタリウムに連れていってくれた。


ピアノをやりたいと言えば、レッスンの送り迎えも欠かさずしてくれた。


遠足でキャラ弁が羨ましいとこぼした日には、好きなものだらけのキャラ弁を作ってくれた。


母はいつでも、私の“やりたい”を疑わず、「いいよ」と言って背中を押してくれた人だった。


だから私は、新しいことに触れるのが楽しくてしかたなかった。


習い事も全く苦にならない。


友達や大人たちは「お勉強ばかりで可哀そう」と言ったけれど、私はただ、夢中で、自由だった。


下校後から夜まで、休日も朝から晩まで、ずっと好きなことを続けていられた。


その環境があったからこそ、進学も、就職も、何もつまづくことなくここまで歩いてこられたのだと思う。


だが、周囲の同級生たちは、何かしらで悩んでいた。


迷ったり、立ち止まったり――


その苛立ちの矛先が、私に向いたこともある。


でも私は、その姿を見て、むしろ「可哀そう」と強く感じていた。


私の子どもには、挫折も絶望も味わってほしくない。


“叶わなかった夢”を抱えさせたくない。


思うままに、望む未来を掴める子であってほしい。


だからこそ、この価値観だけは、譲れなかった。


……けれど、私は今、結婚という扉の前で立ち尽くしている。


そのこと自体が、すでに“つまずき”なのだと気づいてしまった。


――私は、これも含めて子どもに伝えたくない。


「私が思い描く将来は、家族が明るく穏やかで、何があっても応援してくれる、深い絆に満ちた家庭です。


子どもは自分の未来を自由に描き、親はそれを支えてあげる――


『自分の家庭が一番好き』と言ってもらえるような、そんな家庭を持ちたいんです。」


「素晴らしい将来ですね。家族が心の支えになるというのは、本当に大切なことです。」


……よかった。


否定されなくて。


同じように思ってもらえて。


「でも、彼は理解してくれませんでした。


周りの人たちと同じように……“勉強ばかりでは可哀そうだ”って。」


私と彼の価値観は、そこで大きく分かれてしまった。


私は絶対に譲れず、彼もまた、自分の考えを譲らなかった。


折衷案も出せなかった。


気づけば、互いにぶつけあうばかりになっていた。


「そうでしたか……きっとお客さんに信念があったように、お相手にも、譲れない想いがあったんですね。」


「でも、困るのは……子どもなんです。


どうして、わかってくれなかったのか……


運転手さんは、挫折とか、つまずいた経験はありますか?」


「ええ、もう……長く生きていますから、数えきれないほどありますよ。


でも、お客さんのお気持ちもよくわかります。


――親心、ですよね。」


「そうです。


今まさに、私はこの“結婚”というところでつまずいています。


思ったようにいかないことが、こんなにも辛くて怖いなんて。


こんな思いを、子どもには味わってほしくないんです。」


「お優しいお考えですね。


でも、当の本人は案外、そういう困難をすり抜けたり、別の道を見つけたりして生きていくものですよ。


……渡世術、というんでしょうか。


思ったより、“何とかなってしまう”こともあるんです。」


「そういう、もの……なんでしょうか。


私には……正直、よくわかりません。」


――失敗しないことが、いちばんのはずなのに。


彼は、そんな苦しみを子どもに背負わせようとしていた?


やっぱり、理解はできない……


「ご自身と違う考えを慮るというのは、とても難しいことです。


すべてを理解する必要はありませんが……


ほんの少しだけ、相手の想いに“思いを馳せる”ことができたら――


きっと、何か見えてくるものがあるかもしれませんよ。」


思いを、馳せる。


私はずっと、やりたいことをやれない未来は“可哀そう”だと信じてきた。


でも、彼は……違ったのかもしれない。


私は、子ども時代に後悔なんてなかった。


あえて言うなら、友達との時間が少し物足りなかったくらい。


でも、学校では交流もあったし、塾でも仲のいい子たちと習い事をしていた。


私は、知らないことを知るのが楽しかった。


できることが増えるのが嬉しかった。


褒めてもらえるのが誇らしかった。


同級生からも、頼られることが多かった。


だからやっぱり、わからない。


うつむいた拍子に、手元の瓶が視界に入る。


あれ……?


――さっきまで、空だったはずなのに。


瓶の中には、うっすらと青く光を含んだ液体が、底に小さく、確かに溜まっていた。


「運転手さん、瓶の中に――」


言いかけたところに、運転手が静かに声をかけてくる。


「お客さん。着きましたよ。“10年後”です。」


タクシーがゆっくりと停止する。


エンジン音が静まると同時に、心臓の鼓動だけが耳に響いていた。


「あ……」


言いかけた言葉を飲み込み、私は窓の外に目を向けた。


薄暗い街灯の光が、舗装された道をぼんやりと照らしている。


「ここが……10年後……」


わずかに震える声が、静かな車内に溶けていく。


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