思いを馳せる―中編―
私の思い描く将来。
それは、私が育った家庭そのものの再現だ。
両親と妹との4人家族。
父は仕事に追われてほとんど家にいなかったけれど、その分、母が私たち姉妹にたっぷりの愛情を注いでくれた。
たとえば――
「星座の名前の由来を調べたい」と言ったら、すぐにプラネタリウムに連れていってくれた。
ピアノをやりたいと言えば、レッスンの送り迎えも欠かさずしてくれた。
遠足でキャラ弁が羨ましいとこぼした日には、好きなものだらけのキャラ弁を作ってくれた。
母はいつでも、私の“やりたい”を疑わず、「いいよ」と言って背中を押してくれた人だった。
だから私は、新しいことに触れるのが楽しくてしかたなかった。
習い事も全く苦にならない。
友達や大人たちは「お勉強ばかりで可哀そう」と言ったけれど、私はただ、夢中で、自由だった。
下校後から夜まで、休日も朝から晩まで、ずっと好きなことを続けていられた。
その環境があったからこそ、進学も、就職も、何もつまづくことなくここまで歩いてこられたのだと思う。
だが、周囲の同級生たちは、何かしらで悩んでいた。
迷ったり、立ち止まったり――
その苛立ちの矛先が、私に向いたこともある。
でも私は、その姿を見て、むしろ「可哀そう」と強く感じていた。
私の子どもには、挫折も絶望も味わってほしくない。
“叶わなかった夢”を抱えさせたくない。
思うままに、望む未来を掴める子であってほしい。
だからこそ、この価値観だけは、譲れなかった。
……けれど、私は今、結婚という扉の前で立ち尽くしている。
そのこと自体が、すでに“つまずき”なのだと気づいてしまった。
――私は、これも含めて子どもに伝えたくない。
「私が思い描く将来は、家族が明るく穏やかで、何があっても応援してくれる、深い絆に満ちた家庭です。
子どもは自分の未来を自由に描き、親はそれを支えてあげる――
『自分の家庭が一番好き』と言ってもらえるような、そんな家庭を持ちたいんです。」
「素晴らしい将来ですね。家族が心の支えになるというのは、本当に大切なことです。」
……よかった。
否定されなくて。
同じように思ってもらえて。
「でも、彼は理解してくれませんでした。
周りの人たちと同じように……“勉強ばかりでは可哀そうだ”って。」
私と彼の価値観は、そこで大きく分かれてしまった。
私は絶対に譲れず、彼もまた、自分の考えを譲らなかった。
折衷案も出せなかった。
気づけば、互いにぶつけあうばかりになっていた。
「そうでしたか……きっとお客さんに信念があったように、お相手にも、譲れない想いがあったんですね。」
「でも、困るのは……子どもなんです。
どうして、わかってくれなかったのか……
運転手さんは、挫折とか、つまずいた経験はありますか?」
「ええ、もう……長く生きていますから、数えきれないほどありますよ。
でも、お客さんのお気持ちもよくわかります。
――親心、ですよね。」
「そうです。
今まさに、私はこの“結婚”というところでつまずいています。
思ったようにいかないことが、こんなにも辛くて怖いなんて。
こんな思いを、子どもには味わってほしくないんです。」
「お優しいお考えですね。
でも、当の本人は案外、そういう困難をすり抜けたり、別の道を見つけたりして生きていくものですよ。
……渡世術、というんでしょうか。
思ったより、“何とかなってしまう”こともあるんです。」
「そういう、もの……なんでしょうか。
私には……正直、よくわかりません。」
――失敗しないことが、いちばんのはずなのに。
彼は、そんな苦しみを子どもに背負わせようとしていた?
やっぱり、理解はできない……
「ご自身と違う考えを慮るというのは、とても難しいことです。
すべてを理解する必要はありませんが……
ほんの少しだけ、相手の想いに“思いを馳せる”ことができたら――
きっと、何か見えてくるものがあるかもしれませんよ。」
思いを、馳せる。
私はずっと、やりたいことをやれない未来は“可哀そう”だと信じてきた。
でも、彼は……違ったのかもしれない。
私は、子ども時代に後悔なんてなかった。
あえて言うなら、友達との時間が少し物足りなかったくらい。
でも、学校では交流もあったし、塾でも仲のいい子たちと習い事をしていた。
私は、知らないことを知るのが楽しかった。
できることが増えるのが嬉しかった。
褒めてもらえるのが誇らしかった。
同級生からも、頼られることが多かった。
だからやっぱり、わからない。
うつむいた拍子に、手元の瓶が視界に入る。
あれ……?
――さっきまで、空だったはずなのに。
瓶の中には、うっすらと青く光を含んだ液体が、底に小さく、確かに溜まっていた。
「運転手さん、瓶の中に――」
言いかけたところに、運転手が静かに声をかけてくる。
「お客さん。着きましたよ。“10年後”です。」
タクシーがゆっくりと停止する。
エンジン音が静まると同時に、心臓の鼓動だけが耳に響いていた。
「あ……」
言いかけた言葉を飲み込み、私は窓の外に目を向けた。
薄暗い街灯の光が、舗装された道をぼんやりと照らしている。
「ここが……10年後……」
わずかに震える声が、静かな車内に溶けていく。




