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メモワールの火炉  作者: 向井葵
第3章
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思いを馳せる―前編―



「どの時間に行きますか?」



低く、重たい――それでいてどこか落ち着く響きだった。


意味の分からない問いかけ。


でも、その言葉には一切の迷いがなかった。


「……どこ、とはどういう意味でしょうか?」


思わず、質問を返していた。


運転手は穏やかな声で答える。


まるで何度も口にしてきたフレーズを、慣れた調子で繰り返すように。


「行きたい時間を教えてください。

過去でも未来でも、お好きなところへお送りします。」


抑揚のない口調。


なのに、耳に残る。


それは、タクシーという日常の空間にはそぐわないほど、端的で、どこか断定的だった。


「……過去でも未来でも……?」


言葉をなぞるように繰り返し、胸の中で何度も反芻する。


まるで、それが何かを解く鍵になるかのように。


「本当に、好きな時間に行けるんですか?」


「はい。望む時間へお送りします。」


運転手の表情は変わらない。


淡々と告げるその姿に、嘘の気配は見当たらなかった。


望む時間。


つまり、それは――“私が幸せでいられるはずの時間”ということ。


でも、私は果たして、幸せになれるのだろうか。


仮に、過去に戻ったとこで何ができるだろうか。


彼の気持ちは変わらないだろう。


私の考えが変わることも――きっと、ない。


……過去はもう、変えようがない。


だとしたら――


「それなら、10年後へ……ちゃんと誰かと一緒にいられる未来があるなら、それが知りたいんです。」


酔っていたせいかもしれない。


まともな判断ができていなかっただけかもしれない。


それでも、何かにすがるように、私は口にしていた。


「わかりました。」


運転手は短く答えると、静かに身体を前へ戻し、タクシーを発進させた。


10年後……


10年後の私は、誰とともに生きているのだろうか。


それとも、また――ひとりだろうか。


もしひとりだったとしたら、私はその未来に、何を思っているのだろう。


結婚をどう受け止めている?


それとももう、完全に諦めてしまっているのか。


10年後の私は、どんな目標を持って生きている?


期待とも願望とも不安ともつかない、冷たくて熱い、言葉にできない感情が胸の奥をじわじわと満たしていく。


沈黙が流れる。


私はひとり、頭の中で10年後を想像し続けていた。


――その時。


「お客さん、すみません。隣の席の足元に箱があるでしょう?そこから、中身を出していただけますか?」


急に運転手が声をかける。


「えっ……箱、ですか?」


言われたとおり、隣の席の足元を見ると、小包ほどの大きさの箱が置かれている。


そっと開けると――ラベルのない、透明な瓶が一つ。


「これ、ですか?」


私は瓶を持ち上げ、ルームミラー越しに運転手が頷くのを確認する。


「はい。それです。目的地に着くまで、その瓶を持っていていただけませんか?」


「は、はい。構いませんけど……」


不思議な依頼。


瓶に目を落とし、くるくると回してみる。中身は空っぽ。


蓋はきっちり閉められていて、開けた痕跡もない。


それ以外には――何の変哲もない、ただの空の瓶。


一体、これが何になるというのだろう。


「お客さん。さっき、けっこう深刻そうな顔をされてましたね。何か、あったんですか?」


急に振られた問いに、少し身構える。


「え?ええ、まあ。ちょっと……」


見ず知らずの運転手に、痴話話をするなんて――


そう思い、とっさに口をつぐんだ私に、運転手は苦笑まじりに言う。


「ああ、すみません。無遠慮でしたね。どうも職業癖で……」


「いえ……むしろ、こうして話しかけてもらえて、少し気が紛れました。さっきも、気分転換がてらコンビニに行ってたところで……運転手さんは、いろんな方の話を聞いてるんでしょうね。」


「ええ。案外、悩み事や辛いことって、知らない人になら話せるものですから。」


……たしかに、そうかもしれない。


事情を知らない他人だからこそ、言葉にしても、どこかに滞らない気がする。


心の中に滲んでいた言葉の断片が、ひとつ、またひとつと浮かび上がってくる。


「それなら……お恥ずかしいのですが、私の話も――聞いていただけますか?」


その言葉を口にした瞬間、瓶の内側に光が一滴、落ちたように見えた。


錯覚かと思って目を凝らすと、瓶の底に、ほんのりと水のような影がにじんでいる気がした。


不思議に思いながらも、私は話し始めた。


――つい先ほど、結婚を前提に付き合っていた男性と別れてしまったこと。


理由は、家庭観に対する考えの違い。


私は母のように立派な女性になりたくて、その想いを貫こうとしていたこと。


彼は、そのすべてを受け入れてくれた理想の男性だったのに、たった一つ、子どもの育て方だけはどうしても噛み合わなかったこと。


もう、心も体も疲れ切ってしまい、この先の人生がただ、恐ろしいことだけの連なりに思えていること――


「そうですか。それは、不安でお辛いですね。」


運転手の声は、あまりに優しくて。


その響きが胸の奥に触れた瞬間、なぜかきゅっと締めつけられる感覚があった。


「お客さんは……どんな将来を思い描いているんですか?」


私の思い描く将来。


それは――


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