思いを馳せる―前編―
「どの時間に行きますか?」
低く、重たい――それでいてどこか落ち着く響きだった。
意味の分からない問いかけ。
でも、その言葉には一切の迷いがなかった。
「……どこ、とはどういう意味でしょうか?」
思わず、質問を返していた。
運転手は穏やかな声で答える。
まるで何度も口にしてきたフレーズを、慣れた調子で繰り返すように。
「行きたい時間を教えてください。
過去でも未来でも、お好きなところへお送りします。」
抑揚のない口調。
なのに、耳に残る。
それは、タクシーという日常の空間にはそぐわないほど、端的で、どこか断定的だった。
「……過去でも未来でも……?」
言葉をなぞるように繰り返し、胸の中で何度も反芻する。
まるで、それが何かを解く鍵になるかのように。
「本当に、好きな時間に行けるんですか?」
「はい。望む時間へお送りします。」
運転手の表情は変わらない。
淡々と告げるその姿に、嘘の気配は見当たらなかった。
望む時間。
つまり、それは――“私が幸せでいられるはずの時間”ということ。
でも、私は果たして、幸せになれるのだろうか。
仮に、過去に戻ったとこで何ができるだろうか。
彼の気持ちは変わらないだろう。
私の考えが変わることも――きっと、ない。
……過去はもう、変えようがない。
だとしたら――
「それなら、10年後へ……ちゃんと誰かと一緒にいられる未来があるなら、それが知りたいんです。」
酔っていたせいかもしれない。
まともな判断ができていなかっただけかもしれない。
それでも、何かにすがるように、私は口にしていた。
「わかりました。」
運転手は短く答えると、静かに身体を前へ戻し、タクシーを発進させた。
10年後……
10年後の私は、誰とともに生きているのだろうか。
それとも、また――ひとりだろうか。
もしひとりだったとしたら、私はその未来に、何を思っているのだろう。
結婚をどう受け止めている?
それとももう、完全に諦めてしまっているのか。
10年後の私は、どんな目標を持って生きている?
期待とも願望とも不安ともつかない、冷たくて熱い、言葉にできない感情が胸の奥をじわじわと満たしていく。
沈黙が流れる。
私はひとり、頭の中で10年後を想像し続けていた。
――その時。
「お客さん、すみません。隣の席の足元に箱があるでしょう?そこから、中身を出していただけますか?」
急に運転手が声をかける。
「えっ……箱、ですか?」
言われたとおり、隣の席の足元を見ると、小包ほどの大きさの箱が置かれている。
そっと開けると――ラベルのない、透明な瓶が一つ。
「これ、ですか?」
私は瓶を持ち上げ、ルームミラー越しに運転手が頷くのを確認する。
「はい。それです。目的地に着くまで、その瓶を持っていていただけませんか?」
「は、はい。構いませんけど……」
不思議な依頼。
瓶に目を落とし、くるくると回してみる。中身は空っぽ。
蓋はきっちり閉められていて、開けた痕跡もない。
それ以外には――何の変哲もない、ただの空の瓶。
一体、これが何になるというのだろう。
「お客さん。さっき、けっこう深刻そうな顔をされてましたね。何か、あったんですか?」
急に振られた問いに、少し身構える。
「え?ええ、まあ。ちょっと……」
見ず知らずの運転手に、痴話話をするなんて――
そう思い、とっさに口をつぐんだ私に、運転手は苦笑まじりに言う。
「ああ、すみません。無遠慮でしたね。どうも職業癖で……」
「いえ……むしろ、こうして話しかけてもらえて、少し気が紛れました。さっきも、気分転換がてらコンビニに行ってたところで……運転手さんは、いろんな方の話を聞いてるんでしょうね。」
「ええ。案外、悩み事や辛いことって、知らない人になら話せるものですから。」
……たしかに、そうかもしれない。
事情を知らない他人だからこそ、言葉にしても、どこかに滞らない気がする。
心の中に滲んでいた言葉の断片が、ひとつ、またひとつと浮かび上がってくる。
「それなら……お恥ずかしいのですが、私の話も――聞いていただけますか?」
その言葉を口にした瞬間、瓶の内側に光が一滴、落ちたように見えた。
錯覚かと思って目を凝らすと、瓶の底に、ほんのりと水のような影がにじんでいる気がした。
不思議に思いながらも、私は話し始めた。
――つい先ほど、結婚を前提に付き合っていた男性と別れてしまったこと。
理由は、家庭観に対する考えの違い。
私は母のように立派な女性になりたくて、その想いを貫こうとしていたこと。
彼は、そのすべてを受け入れてくれた理想の男性だったのに、たった一つ、子どもの育て方だけはどうしても噛み合わなかったこと。
もう、心も体も疲れ切ってしまい、この先の人生がただ、恐ろしいことだけの連なりに思えていること――
「そうですか。それは、不安でお辛いですね。」
運転手の声は、あまりに優しくて。
その響きが胸の奥に触れた瞬間、なぜかきゅっと締めつけられる感覚があった。
「お客さんは……どんな将来を思い描いているんですか?」
私の思い描く将来。
それは――




