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メモワールの火炉  作者: 向井葵
第3章
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母の背中


またダメになってしまった。


……なんで?


……わからない。


……どうして?


今度こそは、今回こそは――そう思っていたのに。


またダメだった。全部、終わってしまった。


顔を上げ、酒をあおる。


喉に焼けるような苦味が広がり、胸の奥まで染みていく。


テーブルには空き缶が七本。銀色の内側をこちらに向けて転がっている。


まるで、敗者を見下ろすようだった。


その傍らには、彼と撮った一枚の写真。


楽しそうに笑う自分が写っている――その笑顔を、もう失っていたと知らずに。


スマホの画面には、彼からの最期のメッセージが表示されている。


「あなたのこれからの人生が素晴らしいものになりますよう、心よりお祈りしています」


祈るくらいなら、私を幸せにしてくれればよかったのに。


画面を見つめながら、何度もそう思った。


友達、同僚、妹、従姉妹――


周囲の女性たちは、次々と結婚し、出産し、家庭を持っていく。


ただ私だけが、取り残されたままだ。


幸せになりたかった。


何度も出会いを繰り返し、花嫁修業だって欠かさなかった。


ひたすらに、母の背中を追って生きてきた。


母のように家庭を守り、父を支え、子供に惜しみない愛情を注げるような、そんな女性になりたかった。


私にとっての“幸せ”は、母の姿そのものだった。


理想は高くない。


男性に求めていたのも、ほんの少しの優しさと誠実さ。


それを受け入れてくれる人を、何年も探し続けてきた。


結婚相談所に通い、幾人も諦めて、ようやく出会えた――そう思っていたのに。


最後の最後で、意見の相違。価値観の違い。そして、借金の告白。


でも、本当は借金なんてどうでもよかった。


二人で力を合わせれば、返せない額じゃなかった。


それよりも受け入れられなかったのは、子供の教育方針だった。


私は母に感謝している。


やりたいことは全部させてくれた。習い事も、留学も。


友達と遊ぶ時間は少なかったけど、その経験がどれだけ自分を助けてくれたか――よくわかっている。


けれど彼は、子供には自由でいてほしいと言った。


習い事ではなく感性を伸ばしたいと。


そのままじゃ、子供の未来は狭まる。


可能性は、最初から育てなきゃ育たない。


私はそう思って、強く反論した。


すると彼は、優しげな言葉で、静かに、私の手を離していった。


なんで……


なんで……


私、もう30歳だよ。


早く、家庭を持ちたい。


早く、両親に幸せな姿を見せたい。


二人そろって、穏やかな老後を迎えたい。


できれば、最期の瞬間も、愛する人とともに果てたい。


それなのに――


どうして、私は誰も見つけられないの?


わからない……


わからない……


怖い。このまま誰にも見つけてもらえずに、老いていくことが、怖い。


このまま一人で生きていくなんて、考えられない。


私にはどう生きていけばいいのかわからない。


将来が見えない。


見えないまま進むのが、こんなに怖いなんて。


彼以上の人なんて、きっともう現れない。


彼となら幸せになれると、確信していたのに。


どうして……


どうして……


「あれ……ない……」


最後の缶も空だった。


飲むものがない。


時間は、0時を少し回ったところ。


まだ、眠れない。


恐怖が消えていかない。


もう少し――もう少しだけ飲みたい。


財布と鍵だけを手に取り、私は家を出た。


住宅街の夜道には、薄く街灯がにじんでいた。


日中の暑さを残したアスファルトが、まだ肌を焼くようで、湿気がじっとりとまとわりつく。


息苦しさすら覚える。


まるで世間そのもののようだった。


結婚に焦り、がむしゃらになった私に向けられた周囲の視線。


そこにあったのは、応援でも心配でもなく、哀れみを含んだ冷笑。


笑われたくなくて、見返してやりたくて、それでも“幸せになる”ことを信じて――私は踏ん張っていた。


でも、それももう、終わってしまった。


また一から相手を探す?


そんな気力、もう残っていない。


情熱も、とっくに尽きた。


――この先、どう生きていけばいいの?


目標だったはずの「結婚」「家庭」「母のような人生」


――それが叶わないかもしれないと考えるだけで、全身の力が抜けていく。


私は――


“結婚できなかった女”として、このまま笑われて、忘れられて、それでも生きていくのだろうか。


コンビニで酒を数本買い、家へと戻る道。


頭の中ではずっと、同じ考えがぐるぐる回っていた。


“このままひとりで、老いていくのかもしれない”


“この人生に意味はあるのだろうか”


“笑って過ごせる未来なんて、本当に存在するのだろうか”


心がどんどん重くなっていくのを感じる。


胸の中でなにかが押しつぶされそうになる。


そのとき。


静まり返った道の先、ひときわまぶしい光が視界を照らした。


顔を上げると、タクシーのヘッドライトだった。


こちらへ向かってきて――目の前で、ぴたりと止まる。


後部座席のドアが、カチリと音を立てて開いた。


停めたつもりなんてない。


でも――


このまま帰って、また布団の中で悩み続けるくらいなら。


少しだけ、気を紛らわせてもいいかもしれない。


私は、無意識にその後部座席へと腰を下ろしていた。


車内に入り込んだ瞬間、空気の質がまるで別世界のように変わった。


外の生ぬるい空気が、ぴたりと肌を離れ、静けさが満ちていく。


室内はまるで、時間ごと密閉された箱のようだった。


湿気も、視線も、迷いさえも消えてしまったような――そんな錯覚すら覚える。


黒い手袋をはめた運転手が、ゆっくりと振り返る。


静かに、落ち着いた低い声で、ひとことだけ問いかけた。




()()()()に行きますか?」




鼓動が跳ねた。


意味がわからない。


けれど、心だけが、なぜかそれを“待っていた”ような気がした。


胸の中に、なにかがそっと生まれはじめていた。


絶望ではない。


希望でもない。


ただ、時間という言葉に潜むなにか――その気配が、確かにこちらに手を伸ばしていた。


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