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メモワールの火炉  作者: 向井葵
プロローグ
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プロローグ


古びたタクシーが、路肩にゆっくりと停車しハザードをつける。


客をひとり降ろしたばかりの車内には、わずかな温もりと静寂が残っている。


車内の表示灯が「空車」に変わると、運転手はハンドルから両手を離し、小さく息を吐いた。


無言のまま、助手席のダッシュボードを開ける。


中から取り出したのは、一冊の重みある記録帳。布張りの装丁に、年季と手入れの跡がにじんでいる。


黒い綿手袋越しにページを開き、降りた客の乗車記録を整った文字で書き加えていく。


数字に乱れはなく、筆跡にも癖がない。


その手つきは、まるで何かを送る儀式のように静かだった。


書き終えると、記録帳を再びダッシュボードにしまい込む。


一連の動作に一切のムダがない。すべてが最適化されたように整っていた。


運転手はそっとドアを開け、外の空気に身体を預ける。


風はぬるく、舗道には夕方の熱がかすかに残っていた。


ジャケットの内ポケットから煙草の箱を取り出し、一本を唇にくわえる。


火を点けると、オレンジ色の先がふっと瞬いた。


その輪郭の向こうには、街のざわめきが遠く揺れている。


缶コーヒーのプルタブをゆっくり引き上げ、ぬるくなった液体を流し込む。


苦味は控えめで、香りも薄い。だがこの瞬間に体の緊張がほどけたのを感じる。


タクシーは今、ほんの小さな無音の炎のなかにある。




次に誰を乗せるか、まだ決まっていない。


けれど、遠からず現れる。


決して奇跡ではない。けれど偶然とも言えない“その瞬間”に。


乗客たちは最初、気づかない。


ただの古びた車体と、物静かな運転手。


黒い手袋だけが、少しだけ印象に残る。


そして、最初の違和感がやってくる。




()()()()に行きますか?」




言葉そのものは丁寧だが、意味はすぐには飲み込めない。


けれどその瞬間、世界の“時間”がどこか軋む音を立てる。




タクシーは再び、音もなく走り出す。


誰かの過去か、未来か。まだ名も知らぬ乗客の火を探して。


それが、まだ燃えきらないまま残っているうちに。


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