プロローグ 凪は異世界帰還者
御祖凪は高校生の時、異世界に召喚された。
その時に凪を異世界召喚した女神様から魔王に滅ぼされる世界を救ってくれと頼まれ、女神から授けられた強力な能力を駆使して魔王を討伐するまでに十年の月日が必要だった。
そして異世界を救って元の世界へ戻って来た時、二十六歳。日本社会において立派なアラサーの無職となっていた。
高校生で十年間行方不明になり高校中退のため、履歴書はボロボロを通り越して空白。当時に捜索願いが出されているせいで、失踪宣告で死亡扱いとされていた。
就職面接では、十年間どこで何をしていたかを必ず聞かれるのに、異世界へ行っていたとは話すことができない。下手な嘘で取り繕おうとしても「何故両親や親戚、誰にも連絡しなかったのか」と疑われ、それを説明できない怪しい人間を企業は雇わない。そもそも書類選考が通過するのが稀で、何とか漕ぎ着けた一次面接でもほとんどが異世界へ行っていた間の質問で落とされた。
ようやく就職できたのは、万年人手不足である情報通信業界の派遣会社で、地獄のブラック勤務の始まりである。働き方改革が叫ばれて久しい中、大企業を中心に情報通信業界もブラック企業が目に見えて減っていったらしい。しかし減っているだけで、現実として特に中小企業の中にはブラック企業が未だに蔓延している。
しかしそんなブラック企業だからこそ、十年間行方不明だった怪しい人物を雇ってくれたのだ。だから恩義を感じて、どんな理不尽な命令でも従い、給与が一切上がらなくても賞与がゼロでも、できる限り働いた。
そして三十六歳のアラフォーとなった凪はふと我に返った。
「俺の人生、なんだったんだろ……」
二十年前、高校生で異世界召喚された時は、使命に燃えて異世界の人々を救うため必死に戦った。
けれど今、平和な現代日本へ帰還してサラリーマンとして生きている凪は、ただ生きているだけで居ても居なくても誰も気にしない、人生が虚無感で支配されている。
凪の世界は平和で、命の危険のない仕事でお金を稼ぎ、綺麗で美味しい食べ物が手に入り、寝ている間に襲われることを考えなくて良く、明日には仲間の訃報が届くかもと不安にならずに済むのに、苦しい。
ただ真面目に生きていただけなのに、もう取り返しが付かない状況になってしまった気がする。
「……異世界に、帰りたい」
都心の夜は、無数の光が織りなす幻想的な光景だった。高層ビル群の街並みはガラスと金属のジャングルのようにそびえ、夜空に向かって輝いている。ビルの窓から漏れる光は星の如く煌めき、まるで現代の星座を描いているかのようだった。
主要な大通りには、車のヘッドライトとテールランプが絶え間なく流れていた。赤と白の光が交錯し、街全体が動いている。車のエンジン音やクラクションの響きが遠く近くで交じり合い、その騒音が都会の息吹を感じさせる。歩道には行き交う人々が絶えず、彼らの足音や笑い声が混ざり合って賑やかな雰囲気を醸し出していた。
そんな時に一台の大きなトラックがスピードを上げて交差点へ差し掛かる。直後に夜の街へクラクションが鳴り響いた。右折しようとした乗用車と直進したトラックが衝突したのだ。トラックの進路が変わり、信号待ちをしていた人々から悲鳴が上がる。
凪は信号待ちをしながら、呆然とその光景を見続けた。信号待ちの最前列に立っているのが自分だと思い出した時には、一センチメートル眼前にトラックがあった。
「がっああぁぁ……あ?」
トラックに轢かれたと思った凪が気が付くと、そこは図書館だった。中央ホールは天井が高く、その天井には精巧なフレスコ画が描かれている。天井の中央には大きなシャンデリアが吊るされており、クリスタルが柔らかな光を放っていた。床は磨かれた大理石で、一切のシミや汚れを許さないほどに綺麗に掃除されている。
ホールの両脇には大理石の柱が整然と並び、その間には無数の書棚がそびえ立っていた。書棚は天井まで届き、数千冊の本がびっしりと並んでいる。書棚の一つ一つに設けられた梯子が、訪れる者が高い場所の本を手に取るための道具として控えていた。
中央には広々とした閲覧エリアが設けられ、木製の大きな机が幾つも並び、机の上には柔らかな光を放つランプが置かれている。椅子はクラシックなデザインのクッション付きで座り心地が良さそうだけれど、その椅子で本を読んでいる人の姿はなかった。
「お久しぶりです、凪さん」
そんな図書館を見回して驚いていると、唐突に背後から声を掛けられる。凪が振り返ると、そこにはシックなローブを身に着けて丸眼鏡におさげという、いかにも図書館が似合いそうな美女が立っていた。
凪はその美女に心当たりがあり、姿勢を正してお辞儀をする。
「ご無沙汰しております、女神様。女神様は相変わらずお美しく、見とれてしまいました」
「お世辞を言えるなんて、すっかり大人になりましたね」
「はは、もうアラフォーですから」
この目の前の美女こそが、二十年前に高校生だった凪を異世界へ召喚した女神だった。凪が救った異世界を創造した女神らしいのだが、他の神々に比べて力が劣っており、異世界を侵略する敵を女神自身の力で排除するのが難しいらしい。代わりに才能ある者を召喚して、敵を排除して貰っていて、二十年前はその才能ある者に凪が選ばれたのだ。
「俺、事故で死にましたか?」
「思ったよりも冷静に受け止めていますね」
「二回目、というのもありますけど、最近は仕事しかしていなくて、これから何十年も仕事だけ。まあ、死んだら死んだで良いかな、なんて気持ちがずっとありました。まさか人生で二回もトラックに轢かれて死ぬとは思いませんでしたが」
凪は二十年前の高校生だった自分が、初めて女神に出会った時のことを思い出していた。
あの時の凪は自分が死んだことを認められず、女神のことも信じていなかった。それは凪が子供だったから、という理由だけではない。高校生だった凪は、まだ自分の将来が明るいもので、これからの人生で楽しいことがたくさんあると信じていたからだ。それを奪われた事実に耐えられなかったから、己の死を信じたくなかった。
――あなたの死という運命を覆すには、大勢の人間から信仰される英雄の偉業が必要です
だから女神の言葉を信じて己の死を覆すため、異世界で魔王討伐という偉業を達成したのだ。二十年前に異世界で戦おうと思った理由は、生き返って、元の世界へ戻りたかったから。
「それよりも、どうして俺はまた図書館へ来ているのでしょうか? たしかもう二度と出会うことはないって聞いたと思うのですが」
「はい…………その、とても言い辛いのですが、あなたに救って貰った世界が、再び危機に瀕していまして。タイミング良く、あなたがまた死亡して、あなたならあの世界にも慣れていますし」
「行きます」
「使命を再びあなたへ与え、あんな悲惨な戦いへ送り込む私の不徳の致すところで……え?」
「任せてください」
思わずガッツポーズしたくなったものの、ちょっと年齢を考えて咳払いをして誤魔化した。
「私は、また、あなたを戦いの世界へ導こうとしているのですよ? 本当に、良いのですか?」
「その、本音を言うと、元の世界に馴染めませんでした。だから異世界へ帰りたいなんて思ってて、女神様にまた機会をいただけて感謝しています」
「………………申し訳ありません。世界を救うほどの才能を持つあなたの人生を、私は台無しにしてしまったのかも知れません」
「そんな。大袈裟です。そもそも事故死したのですから、台無しも何もありません」
女神様の弱々しい笑顔に対して、凪も年相応の達観した笑みを浮かべた。