ほころびだした蕾
空気が変わる、とはこういう事かとレオンハルトは思った。
一歩室内に足を踏み入れ、しっかりとレオンハルトの黄金の瞳と目を合わせてから、最上の礼をとったその人は、ゆっくりと口を開く。
「フェルナンド・ジュレ・エンデバルトと申します。本日は我が邸にどのようなご要件でしょうか、殿下」
静かな、しかしよく通る声でフェルナンドは話す。そこには動揺も焦りも感じられない。何をした訳でもない、それでもライリーを始めエンデバルト家の一面はレオンハルトからの魔力圧を全く感じなくなったことで呼吸がしやすくなった安堵を覚える。フェルナンドの存在感はそこにいるだけで場を支配する。
表情を読み取ろうにもその冴えた美貌しか見えないフェルナンドにレオンハルトは魔力圧を消しながら、いや、相殺されたまま答える。
「別段ここに用があった訳じゃねーよ、キアラに連れてこられただけだしな」
「左様でございますか。ではもうここには無用という訳ですな。セオドア、殿下はもうお帰りになる。ルーファス、殿下を望む場所まで送って差し上げろ、この国以外のな」
「おいおい、帰るなんて言ってねーよ。第一帰るならキアラも一緒だ」
「は?」
フェルナンドの片方の眉根が吊り上がりその美貌が冷たく凍る。
「いいか? さっきも言ったんだがこれは決定事項だ。確かに急ではあるが、変えることはない」
「先ほどは居りませんでしたので、何のことか分かりかねます。キアラは下がらせますので、無作法があれば代わりに謝罪致します」
「いや、それには及ばないな。キアラはアルバラードに連れて行く」
「承服しかねます」
「言っただろ、決定事項だ、エンデバルト公爵」
レオンハルトが発した言葉が鋭くフェルナンドへ放たれる。
謝罪をすると言って頭を下げたままだったフェルナンドが顔を上げる。
「では殿下、リール王国……いえ、我がエンデバルト家と戦争をなさると?」
「はっ、そんなつもりはないさ。くっくっく、子どもも親も俺に配慮の一つもないのかよ」
「生憎いきなり人さらいのような所業を行う世間知らずな青いガキに使う配慮はないのですよ。お分かり頂けたのでしたら、どうぞお引取りを」
「ふっ、容赦ねーな、さすが『氷の貴公子』」
「昔のことです」
「いや、切れ味も変わらねーようだな」
再び金の瞳が輝き、紫紺の瞳が鋭さを増す。ぶわっと二人を中心に風が巻き起こる。お互いの魔力が噴き出し、ぶつかり合っているのだ。ここに来て一同はレオンハルトとフェルナンドの魔力の強大さに改めて驚愕する。レオンハルトは先ほどは全く本気ではなかったことにライリーの額に汗が滲む。魔力量だけで言えばライリーも負けてはいないのだが、強さのレベルが違った。本来なら魔法展開もしていないなかでこのような状態にはならない。
さらに、魔力圧が高まり渦を巻き始める。カタカタと客間に掛かっている絵画や置物が揺れ出す。それぞれの調度品はフェルナンドがマリアンヌへの贈り物ででそれなりの価値があるものも多いが、高価なものばかりではない。例えば一番大きな額の絵はキアラが10歳のときに描いた絵をマリアンヌが飾ったものだ。いつもは身内や家族の特に親しい友人以外ほぼ訪問者がいない屋敷であるためマリアンヌの趣味趣向で飾られた部屋だった。
「おい、お前ちょっと止めてこい」
「無茶言わないでよラル兄様、あんな魔力圧に防御魔法も展開せずに突っ込んでいったら重傷とまでは言わないもののケガすることは目に見えてるでしょ」
ライリーがフェルナンドとともに屋敷に戻ってきたルーファスだけに聞こえる声で話しかける。
「大体なんでこんな事になってるの、キアラ何したの?」
「知るものか、私だって屋敷に着いたとたん何の説明もなしにセオドアに放り込まれたんだ。家の客間にアルバラードの皇子がいるなんて誰が思うか」
「確かに……」
ルーファスとてセオドアからの緊急通信を受け取ったときは、何かの間違いかと思ったのだ。それでもあのセオドアが冗談でもそんな通信を送るはずがないことは確かで、よく事態が飲み込めないまま父と自分がすぐ乗るであろう天馬の支度に飛び出したのだ。ルーファスはフェルナンドが騎士団長であったことは知ってはいたが、物心ついた頃にはすでに騎士団は退団した後であったため騎士のとしてのフェルナンドの力量は知らなかった。まさか、現役騎士の自分が置いていかれそうになるとは……。まだまだ精進しなければとルーファスはちょっぴりがっかりしながらフェルナンドから少し遅れて客間に着いたのだった。そうして客間に入ってみれば、すでにピリリと肌を突き刺す魔力圧を感じ、父と向かい合っている背の高い美丈夫が目に飛び込む。そしてフェルナンドにいきなり何処かに送ってやれと言われ、またも自分の愛馬を用意するべきかと部屋に踏み込んだ足を廊下に戻しかけたが、ライリーから「ここにいろ」という珍しく焦った目線を送られたのだ。
両者の睨み合いは激しさを増し、とうとう一際大きな花瓶が落ち音を立てて割れた。それでも誰も動かない。いや、動けずにいた。
「ちょっと止めて、父様! あなたも!」
そんな二人に割って入ったのはキアラだった。魔力圧が渦となっている中に防御の魔法展開もなく入り込むこんで来たのだ。ざぁと鮮やかな金髪が散らばる。キアラの髪が少なくない本数が切られたのだ。
「大丈夫か?!」
「キアラっ」
フェルナンドとレオンハルトが同時に叫ぶと魔力圧も消えた。皆が焦ってキアラに近づく。
「どこも問題ないか?」
「うん? 大丈夫」
当の本人はけろりとした顔で言う。そんなキアラをさっとレオンハルトから遠ざけるようにフェルナンドは自身の身でキアラを隠す。
「でも父様もレオンハルト様ももう止めて。あの花瓶、母様がすごく大切にしていたのに……」
悲しそうに花瓶の欠片があった場所に目を向ける。欠片はセオドアによってすでに回収されていた。
「お嬢様、御髪を整えさせていただいてよろしいでしょうか?」
セオドアとともに控えていたメイドの一人がキアラに近づき、そっと耳元で囁く。
「え?」
キアラはそこで初めて自分の髪が一部切られていることを知る。
な、何これ? いつの間に?
レオンに動揺を知られたくなくて平静を装い「お願い」と小声でお願いすると、さっとまとめて結い上げてくれた。
「ほかは問題ないか、キアラ」
「どこも痛くない? あぁ可哀想にキアラのきれいな髪が……」
ワタワタと妹に駆け寄る二人の兄と髪は一部切られたものの無傷のキラアを見つめ、これは……とフェルナンドは考える。
元々ウルがキアラだけあれだけ懐いていることもこの力のせいだったのか? しかし、マリーにはそれほどウルは懐かなかった。すでにマリーにはさほど力が残っていないためかとも思ったが、シアすらあれにたやすく触ることは出来なかったからウルは単に幼い頃から一緒のキアラに懐いているだけだと思っていたのだが。
この力が大きくなれば、隠しておくのも難しくなる。そうなればいずれどこかの神殿や王族に目を付けられてしまう。それならいっそ今のうちに皇国の庇護に入った方が……? いや、キアラ自身が望まないのであればそれは強要したくない。それにまだあの子を手放したくない。しかし……。
瞬きもせずフェルナンドは今自分が思い至った考えと今後の可能性について考えを巡らす。
「エンデバルト公爵、貴公が考えていることと俺が考えていることは、たぶん当たらずとも遠からずだ」
そんなフェルナンドの考えを見透かすようにレオンハルトが声を掛ける。
「……一体いつ」
さらに冷ややかな視線が突き刺さるがレオンハルトはどこ吹く風。
「湖で、な。あの舞も初めて見たが素晴らしかった」
「チッ」
「はは、聞こえてるぞ」
「聞こえるようにしたんです」
「はっ、そうか。ま、間違いないと思うぜ? 早いとこ保護しておかねーと」
「そのために連れて行くと?」
「いや、俺がキアラ自身を欲しいからだ」
「よくも父親の前でそんなセリフを……」
父様もこの男も、一体何の話をしているのかしら?
魔力のぶつかり合いは抑えたものの、まだ言い争っている二人をキアラは見つめる。
なんか舞って単語が聞こえたけど、もしかして、祈りの舞は他の人に見せてはいけないものだったかしら? でも、お水は早く汲んで帰りたかったし、そもそもこの男が祈りの湖で釣りなんてしていたからいけないのよ!
「蕾は綻びだしたら止められねーぞ」
「……随分と詩的に表現なさる、腐っても殿下という所か」
「光栄だ」
「腐っているがな」
はっ、レオンハルトが笑い声をあげる。
楽しそうにくつくつと笑うレオンハルトに笑み一つこぼさずに冷ややかに視線すら送らないフェルナンドだったが、全く引かない態度にどうやってこの場から、いや、リール王国から立ち退いてもらうべきか考えを巡らせる。