祈りの湖
大陸から離れ、たどり着くには海を渡るしかない島国、リール王国。広大な領土を誇る列強の国々からすると小国だが、貴重な魔石や宝石が採れるため、大陸の各国とも交易が盛んな豊かな国だ。王都は大陸顔負けのきらびやかさで観光名所としても名高いが、入国するには厳しい審査があるため、一般市民には憧れであり、一生に一度でも訪れたことがあるといえば自慢にもなる国でもある。
王都から随分と離れた土地に、澄んだ湖があった。清廉とした空気と生命力溢れる水が心地よい場所だ。
キアラはいつものように、湖に水を汲みに来ていた。
今日は遅くなってしまったわ。
朝、愛馬の調子があまり良くなく、しばらく付き添っていたのと、そんな愛馬に乗れるはずもなく、徒歩で湖まで来たためだった。獣医の見立てではよくある疝痛とのことで、温めて安静にしていれば大丈夫と言われ、ようやく出発してきたのだ。
でも、良かった、大したことなくて。
ウルも早く元気になって貰えるように、今日はいっぱい汲んで帰らなきゃ。
いつものように母様に、今日はウルの分もと、瓶は2つだ。
バシャ
水の跳ねる音がする。
お魚かな? 元気だなー
バシャ
バシャ
バシャン
……魚が跳ねるにしても、おかしい。こんなにザワつくなんて、何かあったのかしら?
湖に向かう足を早める。
下げている瓶が振り子のようになって走りづらいが、キアラは気が急いていたので瓶を押さえながらも足を動かす。木々に覆われトンネルのようになっている湖への小道を通り抜けると、湖全体が見渡せるようになる。
「あ、あなた! 何やってるんですか! すぐにそこから離れて!」
「はぁ?」
「はぁじゃない! すぐそれ仕舞って、お魚は湖に戻して!」
「えぇ、せっかく釣ったのに?」
「こちらの湖は釣り場じゃないの、いいから、早く!」
見知らぬ男が一人、湖のほとりで魚を釣っていた。
キアラは慌てた、ここの湖は気軽に魚を取っていいところではない。
男はキアラの剣幕にも関わらず、のんびりとした態度を崩さない。それでもキアラの言う通り、釣っていた魚は全て湖に戻してくれた。魚たちが元気に泳ぎだしたのを見て、キアラはほっと息を吐いた。
そうしてくるりと向きを変えるとやたらと背の高い男に向き合った。
「一体ここで何してるの?」
「え? 魚釣ってた」
「分かってるわよ、そうじゃなくて、ここがどこだか知らないの?」
「リール王国だろ」
「国名のことなんて聞いてない、この湖のこと! 知らないんでしょ。そうよね、私、貴方のこと見たこと無いもの! だから教えてあげる」
キアラは一旦言葉を区切って見慣れぬ男に近づく。
「この湖は神様の領域よ、湖全体が祀られているの。だから湖の水もお魚も全部神様のものなの、無断で取ってはいけないものなの」
「へぇーえ」
まったく動じない男にキアラはもう一歩近づく。
「ほら、あっちに祠もあるでしょ! すごく困っているなら別だけど、勝手に色々したら貴方にも神罰が下るかもしれない。だからもう近づかないで」
すると男が口の端を持ち上げた。さも、面白いものを見つけたというように。
「俺の心配してくれてんの?」
「そうじゃなくて、私はただここを荒らされたくなくて……」
「ふーん。じゃあ、それは?」
男がキアラの下げている瓶を指差す。
「お前は神様の水を汲んでもいいのかよ?」
「お祈りをするもの」
「お祈り?」
「そうよ、お祈りを捧げてからお水を頂くから大丈夫。ここのお水はとっても体にいいのよ」
「俺も飲みたい」
「は?」
「俺もこの水飲みたい、喉乾いたし」
なにこの男、全然人の話聞いてないじゃない。
キアラはキッと睨みつける。背の高い男へ精一杯背伸びをしながら。
「だから、そんな簡単に言うことじゃないの!」
「だってこれから水汲むんだろ? 俺も飲みたい」
全く話を聞かない男をまじまじと見つめる。
長身で黒髪、前髪が少し長くて瞳はよく見えない。服装は旅人のそれだが、農民や釣り人には見えない。なにしろ腰には短剣が装備されている。
「だめ」
「なんでだよ」
「これは母様とウルにあげるために汲むものだから。見たところあなた元気そうだもの。水が飲みたいならもう少し行けば農村があるわよ」
「ウル?」
「私の愛馬」
「へぇー、お前馬乗れんの?」
「だったらなに?」
「いや……」
失礼な男ね。私だって馬くらい乗れるわ。だって父様の娘で兄様の妹だもの。
「喉乾いてんのは本当。バタついてて朝から何も食べてなくてさ、ちょうど湖があったから魚でも釣って食べようかと思ってたんだ」
「朝からって、もうすぐお昼よ」
「だな、だから倒れそうなんだよ」
そうは見えないけど……。
キアラが疑いの眼差しを向けた途端、
ぐぅぅぅうう
大きな音が聞こえた。
「あはははは! すごい音がしたわ。……ごめんなさい、本当にお腹が空いているのね。うん、ヨシ。ちょっと待っていて」
ひとしきり笑った後に、キアラは初めて男に笑いかけ、祠へ足を向けた。
男は黙って頷いた。ほんの少し熱くなった耳に違和感を覚えながら。
祠に道の途中で摘んだマリスの実を供える。その後に靴も靴下も脱いで、手早く湖の水で手足を清める。手足に小さな飾りを付けると息を整え、目を閉じてキアラは舞い始める。奉納の舞だということはその男にも分かったが、その舞は見たことがないものだった。ふわりと舞う度に金の髪が揺れ光をこぼす。しなやかな手足は指先までピンと伸び、薄い鱗を繋いだような銀色の飾りがしゃらんと鳴る。決して激しい動きではないのに、見ているだけで身体の奥底から熱が上がってくるようだ。
「美しい……」
男は思わず呟いていたが、キアラも男自身もそのことには気がついていなかった。
舞い終わると、周囲の空気が清廉なだけでなく温かさを感じるようにも思える。風もないのに水面がわずかに揺れ煌めく。
「これは……まさか」
しばし舞の余韻に浸っていた男は、さらに心地の良い空間に目を見張る。
「お待たせ! まだちょっと歩くから特別ね、一口だけよ」
そう言って差し出された瓶を男は受け取り、口を付ける。柔らかな水は口のなかで溶け、しかし喉には適度な冷たさと潤いを残す。
「美味いな」
言いながら男は確信する。
疲れていたことは確かだったのに、じんわりと身体に馴染んだ水は隅々まで潤し、頭はクリアになる。
「じゃ、行きましょ」
スタスタと歩き出すキアラに男は黙ってついて行く。口の端に堪えきれないといった笑みを湛えているが、男の前を歩くキアラには見えない。いつも男の近くにいる者が見れば、獲物を見つけた時の顔だと警戒する顔だ。
「それで? どうしてあそこにいたのよ、どっから来たの?」
「んー、ちょっと旅をなー」
「旅? その割には何の荷物もないようだけど」
「あー、そう……迷ったときに置いてきちまった」
「え? どこで?」
「さぁ? だって迷子だったから」
「そっか。うーん、ウルが元気になったら探してあげるわね」
「それは助かるな」
ふいに両肩に下げていた瓶が持ち上がる。
「ありがとう、でも、大丈夫よ」
「ま、遠慮すんなって」
「いいの、私が自分で運びたいのよ」
「……ふーん」
じゃあと、再び瓶はキアラの手に戻る。
私の負担を軽くしようとしてくれたんだ。お腹が空いていたのも喉が乾いていたのも本当だったみたいだし、悪い人じゃないのかも。旅人ならあの湖が神様のだってこと知らなくて当然……ってことは、私、すごく悪いことしちゃった。
「あ、あの。さっきは色々とごめんなさい。」
「ん?」
「いきなり怒ってしまって……よく注意されるのに、私ったらあなたのこと決めつけてしまって……ごめんなさい」
バッと頭を下げる。何の反応もない。
あー、やっぱり怒ったのかな?
恐る恐る顔を上げれば、声を殺して笑っている男と目が合った。
なに? なんで人が謝ってるのに笑ってるの? 全然意味不明なんだけど!
前言撤回とばかりに頬がぷくっと膨れたが、瞬きの合間にキラッとしたものを視界が捉える。
ん……あれ、今のって……。
まだくくくと笑っている男に近づくと精一杯背伸びして男の顔を覗き込む。といってもあまりに背の高さが違うため、胸元あたりを掴むことになってしまったのだけれど。
キラッと見えた瞳は金色だった。
「わぁ、綺麗な色ね」
初めて見たわ、素敵な色。
自分が男の瞳を凝視しているため、見つめ合う形になっていることにキアラは気が付かない。男は見つめられるまま逸らすこともなく、己の目を覗き込む大きな赤い輝く宝石のような瞳をじっと見つめていた。
「もっと見えるようにすればいいのに」
「んー、ちょっとばかり目立ってしまうからな」
キアラの細い指先でかき分けられた前髪を、わしゃわしゃと元に戻しながら男はキアラの様子を探る。
「目立つ? え、獣に?」
「ぶはっ!!」
多少警戒していたこととは全く明後日の答えに思わず吹き出す。
なんでこの人はいちいち私の言うことに笑うのかしら、悪い人じゃないと思ったのに!
さっきしぼんだばかりのキアラの頬がまたぷくりと膨らんだ。
**
湖から歩き始めてそろそろ15分くらいは経っただろうか。チャポチャポと瓶の中で跳ねる水の音をお供に歩くことは時々あるが、こんなにも大きな男と歩くことは兄弟以外ではほとんどない。
背はルーファス兄様と同じくらいかな? 後ろから覆いかぶさるような大きな影を見ながら兄弟の中で一番背が高く、一番歳が近い――と言っても、5歳離れている――仲良しの次兄の顔を思い浮かべる。
「そう言えば、お名前は? 私はキアラよ」
「あっはっはっ、お前さー、本当に面白いな、今頃自己紹介か?」
ようやく男の笑いが収まったのを見計らって尋ねてみたのに、またも笑われる。
何なのよ、だって、お名前も分からない人を連れて行ったら、またじぃにお小言もらっちゃうもの。でも人に名前を尋ねる時はまず自分から名乗りなさいって言われてるからそうしたのに、何がおかしいのよ。
「言いたくないなら、いいわ。でも名前も知らない人は連れて行ったらきっと怒られるから、やっぱり一番近い村に行きましょう。お食事くらい食べられるわよ。私も一緒に頼んであげるから」
「いや、それは困るな。」
なんでよ、困ってるのは私なんだけど。
「レオンだ、キアラ。俺の名はレオン。ちゃんと名乗ったんだからもう大丈夫だろ?」
キラっと金色が探るように輝いた気がするけど、気の所為だったかもしれない。
「そう、レオンね。じゃあ改めてよろしく」
「ああ」
返事をしながらも、口元が歪み笑いを堪えている様子にキアラはやはり屋敷に連れていくのを辞めようかと一瞬考えた。
ここで屋敷に連れて行かなかったら今頃リール王国の王都で王立学園の生徒として普通に楽しく学園生活を過ごしていたのかもしれないのにと、後のキアラはこの時を思い出してはため息をつくのだった。