仕事の終わりに6
目を閉じて自分の奥を探ってもぼんやりとした記憶の像が浮かぶだけだった。
これまではだ。
今、自身の奥に何処かへと繋がるはっきりとした感覚がある。
これが生命樹。この世界と私の居た世界の最大の違いなのだろう。
目を開けても生命樹の感覚は消えない。目では老人とごちゃついた部屋を見ているのに、生命樹の色、形ははっきりしているのだ。
生命樹の認識は新たな感覚なのだろう。視覚と聴覚が同時に作用するように、生命樹も常に感じるのだ。
ここまではっきり分かるのだから、シルバが生命樹を知覚出来ないと事が理解出来ないと言った意味もよくわかる。
無かった感覚がある違和感が無い。あって当たり前に思えるし、何故に今まで無かったのかという気すらする。
「生命樹を知覚出来たようだな。では見えた生命樹の色と形を書いてくれ」
そう言ってシルバから紙と色の付いた筆のような物を渡された。
生命樹を描けと言われたので、筆の2色である緑と紫を使って円を描く。
「こんな感じでした」
「ふむ。これ以外に何かなかったか?」
そう言われても無いものは無いのだ。はっきりと今知覚している生命樹は紙に書いた通りであった。
「何か変だったりします?」
「通常の生命樹とは言いがたいが、理解の内にはある」
シルバは何か考え込んでいる様子だ。このまま無視されて時間を費やしたくはないし、何よりこの生命樹の情報は欲しい。
「私が次世界人だからでしょうか? 因みにこちらの人の生命樹はどんな感じなんですか?」
私の言葉でシルバは何やら積んである本を確認しだした。
何冊か軽く見て、そのうち一冊を私に見せてくれた。
「一般的な人の生命樹はこれだな」
書物には緑と紫で描かれた図案がある。
左右色違いで対称の円から枝のような物が幾つも伸びている。確かにこれを見ると生命樹の事を樹と呼ぶ理由がわかる。
私の生命樹には全く枝が無いのだが、それがどう言った意味なのかは、書物から読み解く事は出来ない。
「私の生命樹には枝が無いという事なんですね。これは何を意味するんですか?」
「ふむ。生命樹は生命であれば何であれ認識していると言ったのは覚えているな?」
「はい。そういう事みたいですね」
「では生命はいつ、どの時期より生命樹を認識するのか。これは個の認識である以上正確に知る事は出来ぬのだが、生まれたての赤子は既に生命樹を認識しているというのが定説だ。さて、認識された生命樹は生命の営みによって枝を伸ばして形を変える。それは新生児ですら行っている事なのだ。ユズの生命樹にはそれが無い。つまり、ある程度成熟した個体でありながら、生命樹には一切の成長が無いという、ある種特異な事例なのだ」
これはつまり私の生命樹は赤ちゃん以下という事なのだろうか。
「これって、こちらでは非常に不味い事だったりします?」
「食べ、休息し、生殖するだけであれば生命樹の枝は必要としない。だが人の生とはそれだけでは無いだろう? 人は協力するにしろ競うにしろ個の力を必要とする。そうした場合に生命樹の枝は大きな力となる。因みにこの法国には無いが、人の住む国には生命樹の枝を上手く扱えぬ者を下人と呼び差別する風習があるそうだ」
これは完全に不味い。全く育っていない生命樹は完全にマイナスでしかないようだ。
だが、育って無いのであれば育てればいい話だ。全く育っていないのであれば、最適解で育てられるという事だ。
この情報知れておいて良かった。何も知らずに外出したら、とんでもない目に遭うところだった。
「生命樹の枝が何を意味するかは分かったんですが、どうやったら育てる事が出来るんでしょうか?」
「人は生まれて意思疎通が出来るようになるまでに生命樹の枝振りがある程度形成されている。それを伸ばすのが一般的なやり方なのだが、ユズの場合は枝が無い状態なので困ったな」
特異な状況過ぎて何の実例も無いようだ。そうなのであれば安全に確実にやれるだけやるしか無い。
「生命樹の枝を育てるに当たり、生命に危険のある事例はあるのでしょうか?」
「そうだな。意思疎通の出来る知能と本能を持った個体であれば生命樹の枝を伸ばすのに危険が出る事はまずないだろう。ただ生まれる前の認識が曖昧な赤子が枝を無秩序に伸ばしてしまい。ある種の感覚異常を持って生まれる事が少数だがあると聞く。ただしそれは意図せずに虚術の領域に踏み込んだ者なので当然の結果だとも言える」
虚術なる言葉は初めて聞いた。恐らくはそこまでの専門用語では無いが、こちらの理屈では知っていて当たり前の事のようだ。
「その虚術とは何なんですか?」
「ふむ。虚術を説明するには術、即ち術理が何であるかを理解する必要がある。それを説明するだけの時間は無いのだ。今のところは自身の生命樹については一旦忘れよ。気になるのであれば生命樹の観察を細やかにする事を勧める。枝の片鱗を認識するのは術理の基本であるからな。今日のところ下で自由にするがよい」
何か忙しいようで時間は作ってもらえなかった。
しかし、シルバからの情報はかなり重要だ。ここでこちらの一般常識を叩き込んでおかないと、この先かなり危険だと直感がそう言っている。
―
下に降りたからと言ってやる事は無い。まだお昼にするにはも時間がある。
生命樹、知覚出来るようになったが、これで何が出来るのかは分からない。
シルバは術、術理と言った。つまりこれは私がこちらに来て超常の出来事と感じる部分を担当しているに違い無い。
この建物のある空に浮かぶ樹も、便利な生活機能も、アダマスのような人工知能も、全ては術なるもの仕業である可能性がある。これは術理を学ばない手は無い。
因みにアダマスは術理に関しても情報規制されているようで、何を聞いても答えられないの一点張りだ。
シルバは生命樹を観察せよと言ったが、このツートンカラーのまん丸に観察の余地などあるのだろうか。
そもそも何故に円なのだろうか。本にあった誰かさんの生命樹は枝振り豊だったが、円の内には枝が伸びていなかった。この中心には何があるのだろうか。
私の生命樹を見ても分からない。ただ、なんとなくだがこの緑と紫の光の部分が私が何かを知覚している量なのだ。目で言うならば視野や色情報などと同じなのだろう。
私の術理なるものへの認識力は恐らく世界最低に違い無い。今はど底辺ねど新人であるということ認識は持っておいた方がいいだろう。
生命樹には何の特徴も無い。メモ用に紙と色付き筆を借りてきたのだが、何も書く事が無い。
もっとこう見方を変えた方がいいのだろうか。
今の全認識がこの円なのであれば、もっと部分にフォーカスしてはどうだろうか。
例えば色の変わり目に何かないだろうか。左右対称なのだから色の変わり目は二つ。これにも意味があるのだろうか。
駄目だ。色の変わり目には特徴と思しきものは無い。
こうなると虫眼鏡で観察したくなる。もっと寄って見れないだろうか。
そうして認識を拡大して細かく見ようとすると一つの事実が見えた。
物凄く細かいが、円の外に向かう小さな小さな枝の集合体が円を形成している事に気が付いた。
やる事の無い私は喜び勇んだ。とりあえず何でもいいのでこの枝と思しきもののメモを一心不乱に取り始めたのだった。