仕事の終わりに5
眠りから目覚めるいや目覚めてしまう。会社勤めの性なのだ。長く寝ていると深層心理が不安を生産してしまう。
目覚めた理由は単純だった。ハメ殺しの窓にはカーテンなどなく、朝日が差し込んで来ているのだ。
疲れていても眠りから戻れるように私の体は光には過敏になっている。眠りから覚める為の要素を幾つも仕込んでしまった社畜の体なのだ。
目の前の景色はまだ慣れない部屋だ。覚めてここだという事は、どうやら今までの事は夢では無いらしい。
まあ、夢では無い実感は常にあった。ありとあらゆる物と出来事が論理的で現実感があった。シルバという老人の顔をしっかりと思い出せる。夢ならばそうはいかない。
「アダマス、水をちょうだい」
昨日設定した音声認識の便利システムを使ってみる。枕元にある拳大の球体装飾品の付いた首飾りは微動だにしないが、食事やらが出てくる備え付けの台から水の入った器が生えてくる。
水とだけ要求したのに大した物だ。絶妙なニュアンスから飲み水だと判断した訳だ。こんな万能AI見た事も無い。
アダマスを首から下げる。こんなに大きな装飾品が付いて機能も万全なのに、気持ち悪いくらい軽い。
服は昨日のままだ。というか今のところ仕事で着ていたシャツとパンツ後は下着と靴しか無い。
例のスライム洗浄したので臭くは無いが、服のシワはどうにもならない。
「アダマス、食事も出して」
水の入った器の隣りに果物が生えてくる。この世界はこの万能樹木で全てをまかなっているのだろうかと思う。
衣食住全てが樹から生えてくるのだ。相当のテクノロジーを持っているのは間違い無い。
異世界ってのは中世ヨーロッパ基準じゃないのかよと思ってしまう。こんな未来世界では、私に出来る事など何もないだろう。
だから元の世界に戻るのだ。そしてこの未来技術の一端でも持ち帰って、現実世界無双をするのだ。
たが、そんな妄想よりも今は生存する事が重要だ。生存を確実なものにしてから帰る手段を考えるのだ。
「シルバガ呼ンデイマス」
アダマスからメッセージが来た。この装置通信も出来るのか。万能過ぎだろう。
そしてまあ、普通に考えれば分かるが、私はこのアダマスを通じてシルバにモニターされているのだろう。最初に身に付けた時点で感情まで分かると言っていたのだ。別に隠すつもりも無いのだろう。
モニターされているのは気分のいいものでは無い。しかし私は今検疫対象の外来生物なのだ。仕方ないと言えばそうだ。
今はむしろ危険であるや、無益であると思われるのはマズい。この世界の倫理観は分からないが、簡単に処理される可能性すらあるのだ。
水を飲み、さっさと果物を食べた後、直ぐにシルバの元へと移動する。
屋上に出ると陽の光が暖かい。季節は春くらいなのだろうか。シルバの部屋は外観からすると屋上に付け足した歪んだ小屋だ。
このビルのような建物とは明らかに意匠が違う。完全な後付けであり美観も損なっているような気がする。
しかし、屋上全体はシルバのプライベートスペースなのだろう。ここだけ切り取れば、隠者の庵とその庭と言えなくもない。
シルバが下の施設を使わない理由は分からないが、何か込み入った理由がある気はしている。
「呼ばれたので来ました。入っていいですか?」
ノックしようと思ったが文化的NGも考慮して口頭で意思表示する事にした。
「早いな。入れ」
扉を開くとシルバが昨日と同じ位置に居た。ごちゃごちゃした物の配置が多少違うくらいで何も変わっていない。
「失礼します」
「まずはそこに座れ」
椅子というよりは切り株のような出っ張りを指定された。座ると思ったより柔らかくてびっくりする。一見すると木なので、この見た目で柔らかいのは慣れない。
「何かありましたか?」
どうとでも取れる質問をする。このシルバという人物は、放っておくと私の存在を無視して何か別の事に没頭する傾向にあるのだ。
「ふむ。生命樹の認識について聞きたい」
よく分からない単語が出て来た。私は今アダマスによって自動翻訳モードになっているのだ。そこで謎のワードが出たという事は、私が全く知らない何かという事になる。
「質問に質問で恐縮なのですが、生命樹とは何ですか?」
「生命樹を認識していないのか? いや、しかし生命樹の存在自体は感知している。全く生命樹に干渉せずにいる人種という事か」
考察モードに入ると長そうなので何かで興味を引いておく。
「生命樹は知りませんが、神話や宗教的な概念として生命の樹という物ならあります。生命の樹になる果実を食べた人類が知恵を得て今の文明を築いたという創世神話があります」
「ふむ。興味深いな。こちらの生命樹とは生命を生命たらしめる仕組みだ。生命樹を認識する物は生命であり、そうでなければ非生命と分類しておる。次世界人の生命樹認識がどうなっているのか。これは興味の尽きぬところだ」
生命樹とは魂みたいな物だろうか。まだ分からないが、とりあえず興味は引けた。
「私は生命樹とやらを認識していないと思います。それが私にもあり認識出来るなら方法を教えてもらえないですか?」
「生命樹の認識方法か……」
シルバは何か少し渋っているようだ。
「何か難しいんでしょうか?」
「難しくは無い。世界にある生命は必ず生命樹を認識している。故に認識のさせ方という物が存在しないのだ」
なんか生き物としての基本が出来ていない的な事をいわれたが、悪気がある訳では無いのだろう。この認識の違いが世界の違いなのだろうか。
「まるで方法は無いんですか?」
「生命樹の認識を得るという法では無いが、まるで手が出ない訳では無い。ただし、それには多少なりとも精神への干渉が必要となる。ユズはそれを許容出来るか?」
精神への干渉、如何にも怪しい法だ。マインドコントロールや催眠術の類いだろうか。リスクがあるのは分かるが、それ程恐れる物では無いと思っている。
仮に精神を他者が操作出来るとしても、そこに至るまでの意思決定は結局当人がしているのだ。結局は個人の意思力の問題であると思っている。
「許容するかしないかであればします。それで生命樹の問題に結論が出るなら有りだと思います」
今は私が有益な存在だと思ってもらうしかない。その為の交渉材料でこれならば安い物だ。
「そうか。ふむ。まあ我も危険な精神操作術を使う訳ではないからな。よいと言うのであればやるぞ?」
「どうぞ」
私のあっさりした態度にシルバは少し困惑気味だが、それでも精神操作術はやるそうだ。
「では少し入るぞ」
そう言うと頭の中で声がしたような気がした。静かだった部屋が雑音に満ちている気がする。視界が変だ。私の姿が見えたりする。
これは、そうか。シルバの精神が私に入り込んでいるのだ。気分が悪いとかでは無いが、この状態でシルバが精神内で暴れたらどうなってしまうのかという恐怖感はある。
精神の認識が自分の中に入るような感覚がする。頭の中の記憶にアクセスするようなボンヤリとした記憶世界の更に奥に、はっきりと認識出来る光の輪のような物がある。
緑と紫で半々に色が違う光の輪が暗い闇の中に浮かんでいる。
さっきまで混じっていたシルバが外に出ていくような感じがし、認識が元に戻る。
しかし、光の輪は消え無い。目に見えいるのでは無いのだ。これは確かに認識しているとしか言え無い。
「それが生命樹だ」
静かな部屋に声として出たシルバの台詞が自分の胸に刺さった気がした。