仕事の終わりに1
誰もいない会社で仕事をする事に何の違和感も感じ無い。
今は深夜に近い時間なのだから仕事をしている方がおかしいのかもしれない。しかし、世の中のコンピュータシステムは止まる事無く動いているのだから、誰かが仕事をしていなくてはならない。
社会人になる前は、コンピュータシステムとは機械が勝手に仕事をしている精密な物だと思っていた。しかし、現実は違う。システムとは人が管理しなければ立ち行かない物なのだ。
だから私は今仕事をしている。
一人でいるとビル空調は寒すぎるが、これを停止する事は出来ない。機械の機嫌を優先するなら当然の事だ。
もう誰もいないのでストッキングを脱いでしまいたいが、まだ家に帰る工程が残っているので、思い止まっている。
浮腫んだ足が体の疲れを物語っている。もういい加減帰るつもりなのだ。
携帯端末に定期的に通知が来る。後輩が先週に参加したコスプレイベントの写真を送ってきているのだ。私もイベントに誘われたが行かなかった。
同期も善因辞めた今となっては、この後輩が戦友と呼べる数少ない仲間の一人だ。
仕事は厳しいのだろう。しかし、私はそれ程苦に思ってはいないのだ。コンピュータの機嫌取りが性に合っているのもあるが、当社はブラックな分給料はいい。
私は金が手に入り趣味に注ぎ込めればそれでいいのだ。世に言うオタク活動の資金が生活苦にならなくとも手に入る状態にあればよい。
私はインプットさえしてしまえば、後は脳内で楽しめるタイプなので、物理的な物はあまり必要としない。その分、量は欲しいのでお金はいくらあってもいいのだ。
後輩も似た傾向にあるが、奴は体験重視派なので更に費用は必要だろう。たまに私の家に転がり込んでは食費をうかしていたりする。
激務の仕事をこなす秘訣は、強大な趣味力を持つ事なのだと思う。
もう帰ろうと思い携帯端末を手に取ると、また一つ通知が来た。端末を起動すると後輩のコスプレ姿が画面に表示され る。そういえば少し前に飲んだときノリで変えたままになっていた。
カバンを取ろうと頭を下げた瞬間に膝に力が入らない事に気が付いた。そのままクニャっと上半身が折れて頬に床の感触が伝わった。
―
激しく倒れた記憶は無い。ただ、床に顔が付いてから寝落ちしたようなタイムラグを感じる。
体勢は先程のままだ。しかし床の感触が違う。匂いも違う何か樹木のようなそんな香りがしているのだ。
周囲は明るい。さっきまで自分付近以外の電気を消した夜のオフィスにいたのだが、やはり寝てしまったのだろうか。
いや違う。やはり建物自体が違うのだ。そもそもここは狭い部屋の中だ。ごちゃごちゃと物があり誰かが居る。
私の顔は床に張り付いているので、何者かの足の指が見える。裸足の何者かがすぐ近くにいるのだ。
体は動く。特に拘束された感じは無い。
上体を起こすと、白い服が見えた。着物のように肩から足まで繋がった長い服を鮮やかだが古く汚れてしまった帯が緩く締まっている。
私はまだ床に座っている状態だが、前にいる人物の顔は見え無い。そう私の前にはかなり長身の人物が居る。
見上げると、白く長い髭を生やした老人の青い瞳と視線が合った。まるでファンタジーに出てくる魔法使いのような様相の老人がこちらを見ているのだ。
「は、ハロー」
咄嗟に出た間抜けな単語に自分でびっくりしてしまった。
「アシラベラシオラシ」
意味不明な単語が返ってきた。しかし、聞き取り易い声でそうはっきりと聞こえた。
とりあえず言葉が通じ無い事は分かったが、ここからどうしていいか分からない。困ってしまう。
若干の間をおいて老人は背を向けると壁に高く積まれた荷物を漁り始めた。
割と短時間でこちらに向き直ると、手にはネックレスのような物を持っていた。
老人はソレを床に置くと、ジェスチャーで何が伝えてくる。恐らくはそのネックレスを首から掛けろという事のようだ。
分からない。この行為が何を意味するのか皆目見当が付かない。しかし、やらねば事が進まない、そんな雰囲気を感じる。
狭い部屋の中に二人、出入り口と思われ扉は老人の後ろ、老人は見上げる程にデカいし、よく見ると腕の筋肉も太い。
これは物理的にどうにもならない。ならば今は相手の指示に従うしかないだろう。
ネックレスを掛けると何か空気の変化を感じた。列車に乗っていきらなりトンネルに入る感じる気圧の変化の弱い感じというのが一番近い。空気の膜の中にいるそんな感じだ。
「言っている事が分かるか?」
老人がいきなり分かる言葉を話し始めた。
「分かります」
「よいぞ。まずは成功だな」
そう言って老人は再び背中を向けて、何か作業を始めてしまった。
何の説明も無い。分かる事は恐らくこのネックレスが翻訳装置であるという事だ。後、私は今放置されている。
部屋の中を改めて見回すと、妙な構造になっている。壁などは木製なのだろうが、木の板張りでは無く木そのものなのだ。
まるで、巨大な樹木の中にある部屋という感じだが、それにしては床、壁、天井が真っ直ぐ過ぎる。
私が色々と見回していても老人は我関せずのままだ。待っていても状況は変わらないと感じる。
「あのー」
今の状況を確認する為にも、私は質問をする事にした。
「なんだ?何か用か?」
この感じから今の私の身柄はどうでもよさそうな印象を受ける。私の存在に緊急性は無い。加えて、老人は私の存在がここにある事を当然に思っている。
「ここは何処なんでしょうか?」
老人にとって私がここにある事は当たり前だが、私はその限りではない。
「我の住処だ」
そうでしょうね。そうでしょうとも。ではその我さんの家に何がどうなって、どんな権利があって私がいるのか、それを説明する必要があるのでは、という私の不満を飲み込んだ。
「それはなんとなく分かります。なので、この場所がどう言った国家のどんな都市にあるのかという事が聞きたいのですが」
可能性として何らかのドッキリに巻き込まれているのではとは思っている。しかし、ここまで個人の権利を侵害した行為を一般メディアがやるだろうか。そうなれば後は、権利を知らない個人による犯行だろう。ただ、相手が話の通用しない犯罪者の可能性もあるので、今は相手を刺激したくない。
「国か。そうだな確かに次世界人では分からんか。そうだなここは法国。都市には所属していない我の個人所有の浮き島よ」
何か訳の分からない事を言っている。やはり、あまり話は通じないタイプの人のようだ。それか、何らかの撮影の為の設定なのだろうか。
「事情はちょっと分かりませんが、私を元の場所に帰して頂く事は可能でしょうか?」
今のところ、要望を言ってみるくらいしか出来ない。
「それは無理だな。外を見てみろ」
老人がそう言うと、壁の一部に四角い穴が開いた。窓と呼べるそれからは外の景色が見える。
窓の外は直ぐに崖になっているのか外の景色が一望出来た。
地平線の果てまで白い地面が続いている。地面には何の構造物も無いが、空には巨大な樹木がクラゲのように幾つも浮かんでいた。
空飛ぶ樹木の根は巨大な水塊を掴んでおり、現実味の無い風景に恐怖した。
私が恐怖した理由、それはその景色が映像でも作り物でも無い、現実に存在していると感じられたからだった。