第2話 秋の趣・芸術と味覚
★市は小さな街だが、そんな小さな街に、小さな美術館がいくつか点在している。
シュウは、そう言う、人知れずひっそりとたたずむ美術館を訪れるのが好きだ。
今日は店の休日。
散歩の行程にその中の美術館のひとつ〈今は茶道具の展覧会が開かれている〉に行ってみようと思っていたのだが。
「え? シュウも行こうと思っていたの?」
朝の何気ない会話で、冬里も行こうと思っていたことが判明した。
「茶道具だから、シュウは興味ないのかと思ってた」
そんな失礼な言い方にも、シュウは気を悪くした様子もなく答える。
「そうなんだけど、あの美術館で開催されるからね」
「なるほどね」
大きな都市にある、名の通った美術館や博物館で開催される展覧会は、規模も違うし、貴重な展示品などが観られるのも魅力だが、得てしていつ行っても人が多く、なかなかゆっくりと鑑賞できないと言う難点もある。
その点、小さな美術館は人も少なく、心ゆくまで展示品のひとつひとつを吟味して回れるのが魅力だ。
「茶道は習っていないけど、ひとつひとつの道具の美しさは、観ていて気持ちの良いものだからね」
「うん、まあそうかな。完成された美しさ、とでも言うのかな。まあ、未完成の美しさって言うのもあるけどね」
そんな風に言う冬里に、心持ち苦笑気味の笑顔で答えようとしたシュウだったが。
「シュウさん、冬里、あの展覧会、行くんすか。俺も行きたいと思ってたんすよ、じつは」
2人の会話を聞いて、なんと夏樹まで、かの展覧会に行こうと思っていた事が判明する。
「だったら」
「はい! 決まりっす。今から行きましょうよ、3人で」
と言うわけで、本日の散歩が、思いがけず小さな美術館鑑賞になった。
その美術館は、静かなお屋敷が並ぶ中に、ひっそりと小さく間口を開いている。
立て看板がなければ、他のお屋敷のひとつと少しも変わらないたたずまいだ。
ただ、一歩中へ入ると、思ったより広い庭が広がり、美術館の建物とは別に、小さなカフェも併設されている。展覧会の余韻に浸りつつ、ゆったりとお茶を楽しめるのもまた、シュウが気に入っている点のひとつだ。
もうひとつ、決して強制ではないが、住所や名前を登録しておくと、次回の展覧会の内容や、時には慎ましやかな割引の特典がついた案内が送られてくる。そういう所も、我が町の、ご近所の、いつでも訪れられる気安い美術館という感じで、気に入っている。
紅葉が徐々に深まって、いつもの散歩道もとても華やかに感じられる。
「へえ、こんな道があったんすね」
「夏樹は思い立ったが一直線って感じだから、道草とか寄り道とか、あんまりしないからじゃない?」
「ええー、そんなことないっすよお」
2人のやり取りを微笑んで聞きながら歩くシュウ。
くそ真面目といつも冬里に言われる割に、シュウは夏樹よりよほど道草を食う方だ。
今日美術館へ向かう道も、チラと見えた木々の美しさに誘われて、細い通りを曲がった先につながっていたものだ。
「うーん、でも俺はやっぱ、早く目的地に着こうって気持ちの方が強いかもです」
「それが夏樹だよ。人それぞれでいいんじゃないかな」
「そうっすよね。でも、たまには違う道も面白いです。また教えて下さいね」
「ああ、もちろんだよ」
そんなこんな、なんでもない話しをしつつのんびり歩いて行くと、お目当ての美術館が見えてきた。
展示室は小さいけれど、ひとつひとつの見せ方が秀逸であるため、展示は十分満足のいくものであった。
「凄く良かったっす。わお……もうけっこう時間たってますね」
満足げな笑顔で展示室から出て来た夏樹が、時計を見てちょっと驚いている。
「良い物は時間を忘れさせてくれるってね」
「そうっすねー」
「じゃあ、少し休んでいこうか」
シュウがカフェの方を見ながら言うと、冬里も夏樹ももちろん頷く。
「はい! 1人で来るのも良いっすけど、こうして皆で来るのも楽しいっすね。展示物のこといっぱい話したいです」
「シュウはひとりでゆっくり余韻に浸りたいんじゃないの~」
「え? そうなんすか? だったら俺、我慢します」
夏樹は、少し引きつるように口を閉じる。
また冬里にからかわれる夏樹に、シュウが取りなすように言う。
「大丈夫だよ。私も自分とは違う感性を聞いてみたいしね。それはきっと楽しいと思うよ」
「そうっすか? そうっすよね。よーし」
「はいはい、じゃあ先に飲み物を選ぼうね」
「あ、はい」
ここも珈琲に凝っていて、なかなか味のある落とし方をしてくれる。
なのでシュウは珈琲と決めていたのだが、後の2人は何やらああだこうだとメニュー決めに忙しそうだ。
このカフェは、先に注文をして支払いまでするシステムになっている。
「先に座ってるよ」
と、注文を済ませたシュウは、窓際の、とりわけ庭の紅葉が美しく見える席に着いた。
「シュウさんは、スイーツ食べないんすね」
遅れてやってきた夏樹が、座りながら言う。
「何か頼んだの?」
「はい、モンブランを。フルーツケーキもミルフィーユも美味そうだったんすけど、この時期限定って言葉にあらがえませんでした」
「だよねー」
「え? 冬里もモンブランにしたんすか?」
「ううん」
ガクッ
夏樹は面白いほど忠実にずっこける。
そんな仕草に、つい笑いが出てしまうシュウだった。
運ばれてきたモンブランがものすごく美味しかったらしく、「食べてみて下さいよお」と夏樹に懇願されて一口頂いたそれは、確かに栗の味も口溶けも素晴らしかった。
冬里はマカロンを頼んでいたのだけれど、シュウと夏樹用もあるよ、と、これもお裾分けをされてしまう。これは何か思うところがあるのか。
「どう?」
「どう、とは?」
「うちでもデザートにマカロンなんて、どう? って言う意味」
なるほど、やはり一筋縄では行かないのが冬里だ。
「マカロンっすか、良いっすね!」
まんまと策略にはまる者がいるのもお見通し。
「前向きに検討させて頂きます」
「じゃあ決まりだね」
「まったく」
珈琲を口に運びつつ、どんな感じのマカロンにしようかと考えている自分も、まんまと策略にはめられたようだ。
芸術の秋と、味覚の秋を堪能した後は、スポーツの秋?
運動がてら、また違う道を歩いて帰ろうかと思っていたシュウだが、冬里が思いがけないことを言う。
「あ、僕、駅に行くから」
「え?」
「へ? なんでですか、冬里。これからお出かけするんすか?」
「うん、デートだよ」
「へえ、デート……、って、ええっ! デートおー!」
「夏樹、声が大きい」
思わず叫んでしまう夏樹に、冬里が自分の口元にひとさし指をあてる仕草で言う。
「わわっ、すんません。でも、冬里、デートって、……誰と?」
「知りたければ、駅まで来なよ」
「行きます!」
シュウも驚くには驚いたが、冬里もいい大人だ。デートだってすることもあるだろう。夏樹はお相手が知りたくて、一緒に行くようだが。
なので、それならここで冬里と夏樹とは別れて、と、思ったのだが……。
「?」
なぜか夏樹が、シュウの服の裾をつかんでいる。
「シュウさん、行きましょう」
「え?」
「冬里の一大事です! 駅まで行きましょう! 行ってどうなってるのか確かめましょう」
「……」
これが冬里のセリフなら、「紫水冬里」といさめて終わりだが、なんと今日は夏樹が、とんでもないことを言っている。
「だって、……フフ、シュウも夏樹相手じゃ、僕の時みたいには行かないよね」
これも冬里の策略?
シュウは、大きくため息をついて、
「冬里ももういい大人なんだから」
とか、
「私たちが行ってどうなるの?」
とか。
あれこれ説得してみたのだが、どうにも夏樹は納得できないらしい。
「それなら、夏樹が1人で行けば……、」
このセリフに、夏樹の目がウルウルし始める。
「そんな、そんな恐ろしいこと、俺1人では出来ません……、シュウさん、お願いします」
そう言って祈るように指を組む夏樹には、ああもう、仕方がないとしか言いようがない。
天を仰いで大きく息をついたシュウは、とうとう「わかったよ」のセリフを言う羽目になってしまった。
さっきとは打って変わって、冬里にまとわりつきながら、夏樹はなぜかとても嬉しそうだ。
「冬里、デートって何するんすか? 遊園地? 映画? カラオケ?」
まるで自分がデートするかのようだ。こんなに楽しそうなら、自分がついて来る事もなかったのでは、と、シュウはまたため息をつく。
やがて駅が見えてきたが、冬里はなぜか駅への道から外れた方へ行く。
「あれ?」
駅を指さす夏樹の耳に、よく知った声が聞こえてきた。
「なんだ? 今宵は冬里だけではないのか?」
そちらを見やると、燃えるような太陽を思わせる、黒を基調としたドレスをまとった美しい女性が、スポーツカーにもたれて立っていた。
「《あまてらす》さん?」
そう、それは《あまてらす》だった。
けれど彼女はいつもの出で立ちではなく、今日はデート用? のドレス姿である。
「え? デートって、《あまてらす》さんとだったんすか?」
「そうだよ」
「なあんだあ」
ヘロヘロと力の抜ける夏樹に、面白そうに言う《あまてらす》。
「デート? とな? 冬里、またそのような」
「えー、だってそうじゃない。これから隠れ家レストランで素敵なお食事なんだからさ」
「ええ?!」
冬里が言うのを聞いた夏樹の目がキラッと厳しく光る。
「レストランで食事って、ずるいっす!」
「そうなのか?」
怪訝そうに冬里に尋ねる《あまてらす》に、冬里は「知らないよ」とニッコリするだけだ。
「だったらさあ、夏樹も一緒に行く?」
その後にまたとんでもないことを言う冬里。これにはさすがに夏樹が遠慮した。
「ええ?! とんでもないっす。いくらなんでもおふたりのデートを邪魔するほど、俺は無粋じゃないっすよ」
「そうなのか?」
また聞く《あまてらす》に、冬里はこれまたニッコリするだけ。
さてここで、なぜこの2人がデートなるものをする事になったのか、そのいきさつを説明しよう。
始まりは、冬里の元秘書である九条が、日本に帰ってくるかもしれないという話からだった。
ご存じの通り九条は、冬里の生涯の伴侶を探すことに命をかけていると言っても過言ではない。
そんな九条が嬉々として、「私が日本に帰国した暁には、冬里さまには何が何でも生涯の伴侶を見つけて差し上げなくてはなりませんな」と、冬里にとってはありがた迷惑このうえない事を言い出したのだ。
何とかそれを回避するために、自分にはすでにお付き合いしている人がいる、と言って、九条に紹介しようと言う作戦を思いついた。
だが、そう簡単にそんな都合の良い「彼女」がいるはずもなく。
と、このときばかりはさすがの冬里も一巻の終わりか? と思ったその時、ピンとひらめくものがあった。
「そうだ、《あまてらす》に彼女のフリしてもらおうっと」
「ええ?! そんな理由で?」
「うん、だって僕と付き合える人間なんて、由利香くらいしかいないもん」
「うわ! それはだめっすよ! 由利香さんには椿がいます」
「だからさ、人間以外ならいくらでもいるんじゃない? って気づいてね。けど九条と張り合うんだから、相当な強者でなくちゃならないし。そこで《あまてらす》に白羽の矢を立ててみました~」
「失礼なヤツだ」
言葉とは裏腹に、《あまてらす》は上機嫌だ。
「でも、九条さんはまだ帰国してませんよね」
「うん、今日は、彼女役を引き受けてくれた《あまてらす》に、お礼の先払い」
「そういうことだったんすか」
「そういうことだったんすよ」
どうやら今の話でいきさつには納得した夏樹だったが、彼らのこの後の予定から思いが離れないようだ。
「で、今日はどんな料理を召し上がるんすか?」
ひ・み・つ、とか言われると思っていた夏樹だが、
「秋の味覚、松茸を取り入れたディナーを出す店を見つけてね。それ以外にも、世界有数のキノコを存分に味わって頂くんだって」
「松茸! 世界のキノコ!」
話を聞いて、彼の心拍数がぐんと上がった。
「そんなキラキラした瞳で言うんなら、本当においでよ。用意できるか聞いてあげる」
そう言って、少し離れたところで携帯電話を使い出す冬里。
「え、でもおふたりの……」
「ならば夏樹もデートにすれば良いことだ。誰か手の空いている者はおらんか?」
躊躇する夏樹に、《あまてらす》は事もなげに天を見上げながら言う。
「はーい、ここにおりますよお」
「ええ?!」
驚く夏樹が空を見上げる暇もなく、そこにいたのは。
「ニチリンさん!」
「おお、ニチリンか。ヤオヨロズは元気にしておるかの」
「はい、おかげさまで」
2人のやり取りを、口をパクパクさせながら聞いていた夏樹が、慌てて言う。
「ニチリンさん、でも、ヤオヨロズさんは大丈夫なんですか?」
「え? なにが? ああ、留守を頼んだこと? たまにはうるさいのがいない方が良くてよ、ねえ」
《あまてらす》に同意を求めるように首を傾げると、彼女もまた可笑しそうに笑う。
「ふむ、うるさい姉上がいなくて、弟たちもせいせいしているだろう」
「ですって」
「ですって、って、そんな……」
夏樹があたふたしていると、ちょうど冬里が帰ってきた。
「あと2組行けるかなあって思ったんだけど、残念ながらあと1組で最後だって。……あれ、ニチリンが来てくれたの?」
「ええそうよ」
「ふうん」
ここで、先ほどの冬里の言葉に引っかかりを感じたシュウが、念のため聞いてみる。
「あと2組と言っていたけど、もしかして私も連れて行かれるところだったのかな?」
「ん? もちろんじゃない。けど、残念ながら叶わなかったみたい。ごめんね」
と言いつつ、冬里は少しもすまなさそうではない。
シュウにとっても、残り1組で最後だったのは不幸中の幸い? だ。
「もともと私は参加する気はなかったからね。では、私はここで失礼するよ。《あまてらす》さん、ニチリンさん、どうか2人をよろしくお願いします。夏樹も、せっかくだからうんと楽しんでおいで」
鷹揚に頷く《あまてらす》と、可愛く手を振るニチリンと。
夏樹はいつものごとく元気に答える。
「はい! けどシュウさんも行ければよかったのに」
「いいのいいの、シュウはさ、1人寂しく過ごす方が良いんだから」
含むような微笑みでシュウを見つめた後、冬里が3人に言う。
「じゃ、行こうか」
そう言って振り向いたそこには、先ほどの2人乗りスポーツカーが消えて、かわりに重厚なセダン車が止まっていた。
「夏樹に運転してもらおうかな~」
「え? 良いっすけど、俺、場所知らないっすよ」
「と、思ったけど、夏樹が運転すると、あっという間に着いちゃうから、僕がゆっくり回り道しながら運転していくね~」
またはぐらかされた夏樹が、ガックリと肩を落とすと、皆が可笑しそうに笑う。
シュウが見送る中、車は静かにその場を離れていった。
やれやれ。
ホッと息をついたシュウの耳に、こちらもよく知る声が聞こえてきた。
「振られたな」
優しく微笑んで目をやる先には、タマさんが優雅に尻尾を振っていた。
「タマさんは、どちらかへお出かけですか」
「うん、置いて行かれた寂しいボッチとともに、夜を過ごしてやろうと思ってな」
どうやら今日も、タマさんが来てくれるらしい。けれどタマさんならいつでも大歓迎だ。
「ありがとうございます。今日でしたら、秋アジか、秋鮭がご用意できますよ」
「アジが良い」
「かしこまりました」
「戻り鰹はないのかー」
すると、後ろからガバッと大きな腕が肩に置かれ、またよく知る声が耳元で聞こえる。
「ヤオヨロズさん」
ため息をつきつつも、シュウはヤオヨロズに聞いてみる。
「ニチリンさんは」
「ああ、知ってるぜ。今日はうるさいのがいないから、羽を伸ばし放題だ」
「羽目を外し放題、と言うのだろ?」
タマさんがボソッと言うと、ヤオヨロズはガハハと笑い出す。
「まあ良いじゃねえか、たまには男同士で語り合おうぜ。……ところでクラマは行かなくて良かったのか? 松茸祭り」
その言い方にちょっと微笑んだシュウが答える。
「はい、夏樹がうんと勉強してきてくれると思いますので」
「そうかー、クラマもだんだん弟子離れできるようになってきたなあ。成長したなあ」
「夏樹は弟子では……」
「いいってことよ」
バン、と背中を叩かれて、苦笑するシュウだった。
「遅かったな」
「ずるいよ、ヤオもタマさんも」
「秋鯖は、ないのかなあ」
もうおわかりだろう。
彼らが店に戻り、2階リビングに入った途端、一斉にこたつの辺りから声がした。
そこには、《すさのお》、《おおくに》、《つくよみ》が勢揃いして、帰りを待ち受けていたのだ。
今宵の『はるぶすと』は、羽を伸ばした男どもの大宴会になりそうだ。
晩秋の空の下、あちらにもこちらにも、楽しそうな声が響いて夜が更けていく。
筆者の住む町にも、小さくて素敵な美術館がいくつかあります。
話題の展覧会も良いですが、たまにはお住まいの街で小さな楽しみを見つけてみるのも、
また面白いですよ。
お話はまだ続きます。