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フラグの疾患


    ♰


 父に痛み止めの注射をうってもらったおかげで、フラグは、全身の痛みが和らいだ。息遣いも整ったし、気分もだいぶ良くなったので、礼を言いながら、上体を起こす。


「おいおい、体が楽になったからって、急に、無理するなよ、フラグ」

「大丈夫、おかげで、だいぶ楽になったから。それよりも聞きたいことがあってさ」

「なんだ?」

「その……ボクがJSRAで受ける治療って、どんなやつ? JSRAは医療専門の機関じゃないよね?」


 フラグの父は、迷う様子を見せたが、一呼吸おいてから、口を開いた。

「お前のここに、チップセットを埋め込むんだ」

 父の指は、フラグの側頭部をつついていた。


「埋め込む? 脳にチップを? そ、それって、こないだ言ってた『ブレミア』のことか? ボクの病は、脳に関係があるってことか?」


「そうだよ。オマエが動揺するのもわからんでもないが、オマエの病を治すには、この方法しかないし、手術自体も、難しいものではない」


 人工脳『ブレミア』を使った施術の治験を開始するとは、聞いていたが、フラグは、まさか、自分が治験者になるとは思っていなかった。

 『ブレミア』を用いた人工脳手術は、脳細胞に障害を持った患者にとっての救世主であり、今のところ、脳機能を回復する唯一の手段とされている。


「喜べ、フラグ。オマエは、誰よりも先に、最先端の人工脳手術を受けられる権利を持っている」

 父が、眉を上げ、幼い子にプレゼントを与えた親がするような笑みをこぼした。


 痴呆症で苦しむ家族は、その苦しみから解き放たれ、脳の損傷で体の一部が麻痺した人は、それが再び動かせるようになるという最先端の医療――それだけに、治験希望者が、殺到しているとも聞いていた。


「そんな最先端医療なんだったら、ボクよりも急を要する患者がいるでしょ。そっちを先にしてあげてよ。ボクは、その後でもいいから」


 フラグは、手術を恐れているわけではなく、心の底から自然と出てきたものを言葉にした。

 崇高な人間でなくとも、困っている人を助けたいという意識は、備わっている。もっと言えば、同種の命を助けたいというのは、どんな哺乳類にも備わっている本能である。


「何だ、フラグ、ひよったのか?」

 父は、のどの奥で、笑っていた。

「別に、ひよっちゃいない。本当にそう思ったんだ。緊急を要する人が先だろ、ふつう」


「そんな患者より、私は、オマエを助けたいんだ!」


 目をつり上げて、急に、父がブチ切れた。


(そんな患者?)

 フラグは、耳を疑い、父を見返した。


「オマエを優先的に扱ってやると言ってるんだぞ。おいっ、わかってるのか、フラグ!?」

 父は、我を忘れたように、唾をまき散らしながら、まだ、喚いている。


(親父は、いったい、なんのために人工脳技術を開発したんだ? 当初の目的を忘れちゃったんじゃないのか?)

 そんな疑問が頭をもたげたが、今の父に言い返せそうには無かった。


「本当は、喜ばないといけないことなんだぞ! 一般人じゃ、ありえない待遇なんだぞ!」

 番犬のように、フラグに向かって吠えている父の目は、卑しさで溢れているのに、なぜか輝いているようにも見える。

 こんなシチュエーションは、過去にもあった。

 フラグが中学生の時、はじめて記憶を無くして暴れてしまった日――


 同級生にからかわれたところまでは覚えていた。しかし、それ以降の記憶が無かった。

 気付くと、教室の窓際の壁にもたれて、床に座っていた。

 目の前に赤い液体が広がり、教師が慌ただしく廊下を走り回っている。クラスメートは息をひそめて、遠巻きにこちらを見ている。

 泣いている女子生徒もいた。


 右手がブルブルと震え出して、何かを落とした。

 見ると、血の付いたバタフライナイフが転がっていた。今まで握りしめていたらしい。

 フラグが両手を広げると、手のひらは、真っ赤な血で染まっていた。


「おい、井出君、ちょっと、行こうか」

 見上げると、校長が立っていた。

 連れられるまま、廊下を進み、階段を下りる。その間も、他のクラスの生徒から、気宇の目を向けられた。

 サイレンの音が、聴こえてくる。その音は、どんどん近づいてきて、校舎の前で止まった。



 校長室で事情を訊かれているうち、父が現れた。後ろに何人か、黒スーツの役人を従えている。

 父は校長室に入ってくるなり、校長を廊下に連れ出した。

 廊下から、父らの話し声が聴こえてきたが、どんなやり取りをしているのかまでは、わからない。


 フラグは、不安になって、頭を掻きむしった。

 思い出そうとしても、やっぱり、何も思い出せない。何をしでかしたのか、相手にどんな怪我を負わせたのかもわからない。

 ただ、水たまりのようになっていた血の量から、易々と見逃してもらえるような事件ではないということだけは理解できた。


 しばらくすると、また父が、校長室に入ってきた。


「フラグ、帰るぞ」

 父はそう言って、フラグの腕をつかみ、廊下へと引っ張った。


「えっ? もういいの? まだ、話を聞かれている途中だったんだけど。ボク、状況を上手く説明できなくてさ……」

 父は、フラグのことは見ず、ただ、前を向いている。

 鼻息を荒くして、フラグの腕を引き、廊下を進む。

「なんか、記憶が飛んじゃったみたいなんだ。本当だよ。本当に、覚えてないんだ」

「わかった。いいんだよ、もう。気にするな」


 親心だと思った。それでも、ことの重大さから、そんなに簡単に済ませられることではないということは、フラグでもわかっている。


「いや、だって、ボク、友達を傷つけてしまったみたいで……」

「オマエは悪くない。あれは、オマエの友達なんかじゃない。あれの方が悪いんだ。だから、あれが入院しようが、死んでしまおうが自業自得なんだよ」


 学校の正面玄関に、黒いリムジンが停まっていた。

 後部座席のドアを開けて、運転手が待っている。


「ど、どういうこと? 友達はどうなったの? 死んじゃったの? う、う、嘘でしょ? ボ、ボ、ボ、ボクは、警察に捕まっちゃうの?」


「私の息子であるオマエが、警察なんかに、捕まるわけがないじゃないかっ! 何度も言わすな、フラグ! あれは、オマエの友達なんかじゃない!」


()()って、そんな言い方……」

「今日のところは、帰るんだ。もう、こんな学校にも来なくていい。転校だ。オマエは、特別なんだ」

 意見や反論を一切受け付けないような見幕で怒鳴る父を、この時、フラグは初めて見た。


 リムジンに乗りこみ、ドアが閉められると、父は、フラグの肩に腕を回してきた。

「いいか、フラグ。オマエは、私の息子だから、他の生徒とは違う特別待遇を受けられるんだ。それにどっぷりと甘えればいいんだ。今回のことは、なにも、気にするな」


 父のつり上がった目は、卑しいのに、なぜか輝いているようにも見えた――


 フラグを優先的に施術すると言う父は、あの時と、同じ目をしていた。


「親父が研究所長だから、ボクには、特権があるということか?」


 フラグが聞くと、父は呆れたような顔をして、口を開く。


「そうだ。患者を選ぶのは、私だ。誰を選ぼうとかまわない。私には決定権がある」


「なんだよ、それ。公私混同じゃないか。そんな特権、いらねえよ……」

 フラグは、父から目を逸らし、吐き捨てるように言った。

 エゴイストの権化のような父のことは、昔から好きでは無かった。


 だから、家を出て、一人暮らしを始めた。

 父のことが嫌い過ぎて、なぜ、エゴが生まれるのか、動物学的な観点から調べはじめた日のことが懐かしい。

 結論は出ている。

 人間より、日本人、日本人より家族……助けたいと思う気持ちは、血のつながりが濃いほど強くなる。

 だから、根本的にあるところは、ある意味、当然のことだった。

 ただ、父は、個性として、それが強すぎるだけなのだ。


「生意気な口をきくな。私を誰だと思っているんだ? JSRAの所長だぞ。私が、ここまで成果を出し続けて、JSRAを大きくしてきたんだ。私だから、国からの助成金もあれだけの額が出ているんだ。その私が、自分の患者を選んで、何が悪い」


 父の鼻息が荒くなった。目つきは、さらに険しくなっている。


 その時、事務所のドアを叩く音が鳴った。


「失礼しまーす! 所長、中におられますか?」

 父は、事務所の方に振り返って、「おう、江頭くん、こっちだ。こっちにいるよ」と、訪問者を手招きした。


 寝室に現れたのは、黒いスーツを着て、マッシュルームのような髪型をした男だった。足が悪いのか、杖をついている。

「こいつが、せがれのフラグだ。じゃあ、江頭くん、よろしく頼むよ」

「承知しました。あとは、我々に任せてください」


 江頭と言う男に続いて、若い男が二人、担架を持って入ってきた。どちらもJSRAの作業着を着ている。

「ちょ、ちょっと待ってくれ、親父!」

 フラグは、作業員たちと入れ替わりで出て行こうとする父を呼び止めた。


「なんだ、どうした? 手術が怖くなったのか? オマエらしくないな。オマエは、そういう恐怖とかの感情を持ち合わせていないのかと思っていたんだが」


「ちがう。聞きたいことがあるんだ」


 フラグは、担架に乗せようとする作業員の手を跳ねのけ、ベッドの淵に座る。

「おふくろは、今、どこに住んでるんだ?」


 フラグの中にずっとあった、モヤモヤとした疑問だった。


「ん? どういう意味だ?」

 父の顔が引きつった。警戒心が宿っているように見える。


「今でも、親父は、おふくろと一緒に住んでいるのか? こないだ、マンションに帰ったけど、誰もいなかったんだ」

 フラグの母は、パートを辞め、専業主婦になっている。だから、普段は家にいるはずだった。


「しかも、テーブルにほこりが被ってた。あれは、二、三日で積もるような量じゃない。何週間も、誰も住んでいなかったように思えた……」


 この時、父の目が泳ぐのを、フラグは見逃さなかった。

 やましいことが無ければ、そんなことにはならない。


「ああ……ブレミアの発表前で、忙しかったから、私が研究所に泊まり込んでたんだ。あいつにも、お願いして、研究所に来て、食事を作ってもらったりしてた。それが、どうかしたのか?」


「おふくろが、研究所に? 本当か? 今も、いるのか?」

 フラグは、母のことが心配になった。

 いくら研究が忙しくて、家に帰れないからといって、普通、奥さんを呼び寄せて身の回りの世話をさせたりするだろうか? しかも、一日や二日ではなく、数カ月以上も、そんなことを続けさせるだろうか?

 常識的に考えて、そんなことはありえない。

 だとしたら、母は、一体……。


 マッシュルームの前髪を揺らして、江頭が顔を近づけてきた。

「フラグさん、所長の言っていることは、本当だよ。私も所内で見たんだから、間違いない。さ、担架にのってください」

 江頭に口を挟まれているうちに、父の姿は見えなくなっていた。


 右ひじの関節が、再び痛みはじめた。

 フラグは、父に、何かを隠されているような気がした。



      ♰


 畳敷きの部屋には、よく日が差し込んできていた。窓が閉まっているので、外よりもかなり暑くなっていて、湿度も高い。

 そんな部屋の中、銃弾で焦げた畳の穴を眺めたまま、芽衣は固まっていた。額から噴き出る汗が止まらない。


「……い、井出フラグって……いま、そう言った?」

 思わず聞き返した言葉に、立花が頷く。


 芽衣は、秋葉原駅に向かっている時のフラグとのやり取りを思い出す。

 あの時、アリバイ屋を暴くという芽衣の冗談に、フラグは語気を強め、邪魔する者は排除すると言った。


 あのフラグが、この部屋で、立花の姉を撃ったというのか。

 その事実は、案外すっと入ってくるのだけど、一歩間違えば、自分が被害者になっていたかもしれないと、背筋に冷たいものが走る。


「ねえ、お願い。お姉ちゃんを助けてよ。発砲事件を暴露する記事を書いてくれないかな」

 見ると、立花は瞳に涙を浮かべていた。

「そ、そんな……だって……」


 あの時、芽衣に向けられたフラグの顔は、まるで凶悪犯のようだった。

 フラグの犯行を記事にすれば、フラグが警察に捕まる前に、芽衣は襲われるだろう。なぜなら、芽衣の個人情報は、フラグに知られてしまっているのだ。

 そして、逃げても、きっと居場所を突き止められる。フラグの情報網は、恐ろしいほど緻密で広い。

 やはり、立花の望みを叶えてあげることはできない。


「ゴメンなさい、立花さん……。やっぱり、無理だわ。私には、それはできないよ」

 可哀そうだけど、命を懸けてまで助けてあげる義理もない。


「そ、そう……そうなんだ……。やっぱり、ダメなのね……」

 立花は俯き、スマートフォンを触り始めた。頬に、一筋、涙が伝っている。

 憐れに思いながら立ち尽くしていると、ポケットに入れていた芽衣のスマートフォンが震えた。


「約束だったから……それが、数学者の写真よ……」

 立花は、そう言って顔を手で覆う。

 芽衣は、はたと閃くように、立花の言った意味を理解した。そして、スマートフォンをポケットから取り出してみると、案の定、立花からのメールが届いている。どうやら、立花はミス・ハナの写真を送ってくれたらしい。


 協力してあげられないから、もらえないものと諦めていたのに、立花は約束を守ってくれた。


 メールには、二つの画像が添付されていた。淡々と、一枚目の画像を開く。

 JSRAの食堂なのか、テーブルの上に、ビールの瓶や大皿が並び、清掃のスタッフがそれらを片付けている。

 周りに立っている男たちは、皆赤ら顔で、何か懇親会のようなものがお開きになった直後と思われる。

 その写真の中心に、こっちを向いている、ショートボブの女がいた。

 JSRAの研究者の中で、女性と思われるのはその女だけだったので、おそらくそれがミス・ハナなのだろうけど、画像が小さく、ピントも合ってない。

 二枚目を開く。

 こちらは、同じショートボブの女のアップだった。


「えっ!? な、なんだコレ!? ど、どういうことっ!?」


 芽衣は、思わず声を上げていた。

 そして、そのまま呼吸をするのを忘れて、息が詰まりそうになる。


 なにがどうなっているのか、思考が止まってしまって、全身が震え出す。それが抑えられず、ついには、握力まで奪われて、スマートフォンを落としてしまった。



 畳の上に落ちた芽衣のスマートフォンの画面に、()()()()()()が映っていた。


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