銃撃
インスタントコーヒーの粉を入れ、ポットのお湯を注いでいると、マグカップが激しく揺れた。荒れた海のように波立つうち、熱湯が跳ねて、マグカップを持っている手に当たる。
「熱っ!」
フラグは、咄嗟にマグカップを置いたが、右手の震えは止まらなかった。むしろ、ひどくなっている。
左手で掴んで右腕を体に押し当て、無理矢理、震えを抑え込む。右ひじの関節に激痛が走った。
「先生、私はコーヒーは結構ですから、そろそろ始めませんか?」
ソファに座っている朝一番の客から声をかけられた。
勤務中の風俗通いを止められない中年男である。相変わらずくたびれたスーツを着た男の名は時田と言い、今回も、アリバイ工作の依頼だった。
激痛で顔がゆがみそうになるのを堪えつつ、フラグは、時田の向かいに座る。そして、時田が記入した依頼書を手に取った。
「な、なるほど、この日のアリバイですね……」
右ひじをさすりながら、目を通す。
くだらない仕事サボリの偽証をするのが、やりたく無くなった。
いつもは、この手の依頼内容にも何も感じないのに、嫌悪感で満たされていく。
「おいくらくらいになりそうですかね? ちょっと、最近、持ち合わせが少なくて……」
「そうですね……。55万円でどうでしょうか?」
「ごっ、55万っ!? い、いつもより、高くなってるじゃないですかっ!?」
「当然ですよ。代金は、アリバイを作る時間の長さに比例します。この日は、ずいぶんと長いじゃないですか? 昼から夕方までって。一体、何をされてたんですか? 昼間から、風俗店のはしごですか?」
「でへっ。いくら私でも、そんなケダモノみたいな精力はないですよ」
「いや、ありそうに見えますけどね。フフフ」
フラグは、時田が野生のボノボのように見えて、自然と笑みがこぼれた。
昼間から交尾活動を繰り返す愛すべきチンパンジーのDNAが、時田の性染色体の中に紛れ込んでしまったのではないだろうかと、あり得ない想像をしてしまった。
「またまたあ。私も、もう40過ぎですよ。無理です、無理無理。昼過ぎにヌキ系に行ったあとは、キャバクラのオネエちゃんと会ってたんです。呼び出されちゃってね」
「ほう、そうですか。モテモテなんですね。いいじゃないですか、幸せそうで」
「違いますよ。金の無心です。搾り取られちゃって、大変なんです。私が、情にほだされやすくて、すぐに財布を開いちゃうのがバレちゃってるんですよね。ハハハ」
フラグは、依頼書をローテーブルに戻し、身を乗り出す。
「で、どうされますか? アリバイ工作、やりますか?」
「い、い、いや。55万円は、ちょっと、高すぎるんじゃないですか? もう少し、安くなりませんかね? 先生?」
「無理です。払えないなら、諦めて帰ってください」
フラグは立ち上がって、作りかけのコーヒーを手に取り、ポットのお湯を注ぎ足す。
「ちょ、ちょっと、そりゃないよ、先生。これまで、さんざんお金払ってきたのにさ」
「ボクの方から頼んだことは一度も無い。全て、お互いが納得した上での取引なのに、それを恩着せがましく言わないでくれ」
フラグは、コーヒーを掻き混ぜながら、時田を見下ろした。もはや、時田はチンパンジーにしか見えない。ただ、どんな愛くるしい顔をされようとも、そもそも、依頼を受ける気を無くしてしまっている。
「じゃ、じゃあ、いつもと同じ額でどうだい? 30万。それでも、ちょっと、月賦にしてもらいたいんだけど……。さっきも言ったけど、今、持ち合わが無くてさ……ハハハ」
「55万円、前払いだ。1円たりとも、まけられない。飲めないなら、諦めて帰れ」
「なんだよ、その言い方っ! こっちは、客だぞっ!」
テーブルを叩いて、時田が立ち上がった。さっきまでとは打って変わって、怒りに満ちた表情をしている。
「若造のくせに、生意気な。モノの言い方も知らんのか、コラッ!」
吠える時田を尻目に、フラグは、デスクの一番下の引き出しを開き、名刺を貼ってカモフラージュした箱を取り出した。
「おいっ! なんとか言え! ただでとは、言ってないだろ? 少しは、交渉させろよ、コラッ!」
時田が、フラグの方に向かってきた。
「ふざけやがって、ふざけやがって……」
ブツブツ言いながら、近づいてくる。
「おいっ!」
フラグは、背後から肩をつかまれ、引き倒されそうなほど、強く引っ張られた。
よろけながらも、くるりと体を反転させ、右腕を突き出す。
「何度も言わすな、オッサン」
フラグは、振り向きざまに、時田の眉間にUSP拳銃の銃口を突きつけていた。
「な、なっ!?」
フラグは、時田のことも情報屋に調べさせていた。
工務店の営業マンとして働いているが、売上伝票を細工して、ここ二年間で数百万円を着服している。
その金を酒とギャンブルと風俗通いにつぎ込み、貯金はほとんどない。
工務店は、時田にさぼり癖があることを掴んでいて、営業に出た際は、必ず報告書を提出させていた。だが、売上金を横領されていることまでは、まだ把握できていないらしい。
風俗通いで営業をサボっていることがバレるのも、横領がバレるのも時間の問題だろうというのが、情報屋の見解だった。
「オマエは、会社に叱られた方がいい。今すぐ、ここから出ていけ」
時田のアリバイ工作がバレれば、フラグの仕事にも支障が出てしまう。
フラグの中では、もうこれ以上、付き合うべき客ではないとの結論を出していた。
「うっ……嘘だろっ? な、なんだよ、コレ? こ、これ、なんだよ、本物か?」
時田の額にしわが寄り、眉間に突き付けられているものの方に黒目が寄る。怯えるような目で、本物の拳銃かどうか見定めようとしているようだった。
「本物に決まってるだろ。死にたくなきゃ、出て行けって」
フラグは、USP拳銃の撃鉄を引いた。
「ひっ、ひやぁぁぁぁああああああ!」
時田は、尻もちをつき、ずるずると後ろに下がっていく。
「な、なんだよ、ひどいじゃないか!? ひどすぎるじゃないか!? 客を見捨てるのか? それでも、アリバイ屋か? 今まで、さんざん、高い金払ってきたのに、こ、こんな仕打ちをするのか?」
フラグは、照準を時田に合わせたまま、一歩踏み出す。
「や、や、やめろ! 撃たないでくれ? こ、こんなことをして、どうなるかわかってるのか? き、貴様のことを、警察に言うぞ。見てろよ。依頼を断ったことを、後悔させてやるからな」
拳銃を両手で包むように構え、引き金に掛けた人差し指に、力を込める。
「い、いやぁあぁぁああっ!」
乾いた音が響くと同時に、ドアを開けて、時田が逃げ出して行った。
ドアの横の壁に、銃弾の穴があいていた。
次の日は、朝から手の震えが止まらなかった。予約も入っていなかったので、アリバイ屋は休業することにする。
手が震える振動によって、断続的に肘や肩の関節に痛みが走る。
布団に埋もれ、痛みに耐えていると、スマートフォンに着信があった。父の雄二からだった。
「お、おはよう、なに? 何か用?」
「ちょっ……話がしたい……出て来れないか?」
「今日は無理。ちょっと、体調が良くないんだ」
フラグは、すぐにでも切りたかった。話す体勢を維持するのもつらい。
「じゃ……事務所に……ぶか?」
「なに? なんだって?」
スマートフォンを握る手も震えて、父の声を聞きとれない。遠くの方で、なにかしゃべっているようだが、もはや、その内容は全くわからなくなった。
「もう、いいよ。切るよ」
父の用件はよくわからなかったが、通話を続けるのも困難で、フラグは、一方的に電話を切った。
昼過ぎに、事務所のドアが開き、フラグの寝るベッドルームに向かってくる足音が聴こえてきた。
「どうした、フラグ? 大丈夫か?」
父の雄二である。合鍵を使って、入ってきたらしい。
フラグは、体を起こそうとするが、関節が痛くて、力が入らない。
「無理するな、そのままでいい。いつから、こんなことになったんだ?」
「て……手が震えるのは、ずっと、前からあった……。ひどくなったのは、つい最近……。どんどん、ひどくなっている気がする……」
「そうか……かわいそうに……」
父は、痛みのある関節をやさしくマッサージしてくれた。「すまない、すまなかった」と詫びているが、なんのことなのか、フラグにはわからない。
「なあ、フラグ……。この病気を治すには、手は一つしか無いんだ……。その治療は、JSRAでやることができるんだが……」
痛みに耐えるために抱きしめていた布団を投げ出した。荒々しく呼吸を繰り返し、流れる額の汗を、シャツの袖で拭う。
なぜ、父がフラグの病気やその治療法を知っているのかはわからないが、この痛みから、すぐにでも解放してほしかった。
「た、助けてくれよ……親父……」
♰
雨上がりの朝、スマートフォンが震えたので、芽衣が確認すると、立花佐知からの着信だった。
最初に取材してから、連絡を取っていないから、ひと月ぶりだろうか。JSRAに関して、何か重大なことを思い出したのかもと期待して出たけど、違った。
特ダネを買ってくれないかと、持ち掛けてきたのである。
立花は電話の向こうで声を潜め、まだ、明るみになっていない発砲事件があると言った。
「立花さん、残念だけど、そういう事件は、犯人か被害者が有名人じゃないと、世間の興味をひけないから、お金は払えないわ」
「なんで? でも、未解決事件なんだよ? あなた、そういうのに、興味があるんじゃないの?」
「ただの発砲事件ですよね? 暴力団や反社集団なんかの事件だったら、そっちの裏付け取材をすることの方が厄介で、記事にしてまとめるのが大変なんです。しかも、たとえ記事に出来たって、話題にもならないだろうし」
しかも、芽衣が所属するサイエンス班の範疇でもない。
「そ、そんな、ものなの? 難しいね。マスコミって、何に興味があるのか、私には、ぜんっぜん、わかんないわ……」
「ごめんなさいね、他に何もなければ、切りますけど?」
「ちょっ、ちょっと待って。切らないで。他にも、ネタがあるから……」
慌てた様子の立花だったけど、芽衣は、期待もしないで、スマートフォンを持ち変える。
「世間で話題の、あの謎の天才数学者の写真を持ってるんだけど、いらない?」
「えっ? なになになに?」
芽衣は、聞き間違えてはいまいかと、スマートフォンを耳に押し付ける。
「だ・か・ら、JSRAにいる、謎の数学者の写真よ」
「う、うそっ!? そ、それって、ミス・ハナのこと? あなた、彼女の写真を持ってるの?」
芽衣の班が追っているわけではないけど、それが貴重な情報だというのは知っていた。
手に入れば、スクープになる。日南は、きっと喜ぶだろう。
疑惑が晴れた日南は、芽衣の中で、元の憧れの先輩に戻っていた。
「そうだよ。欲しい? あげてもいいけど、お金じゃ売らないよ。条件があるんだけど」
芽衣は、電車を乗り継いで、立花に指定されたアパートに向かっていた。
ミス・ハナの写真と引き換えに、未解決の発砲事件について、話を聞いてほしいと言われたからである。
築何十年も経っていそうなオンボロの二階建てアパートの前に、立花がいた。スエットの上下を着て、化粧っ気もない。
「お久しぶり」
「ごめんねー、呼び出しちゃって。でも、来てくれて、ホント、うれしいよ」
立花は、笑っていたけど、少し、顔がひきつっているようにも見えた。
外階段を上り、二階の一番奥の部屋の前に着くと、立花はズボンのポケットから鍵を取り出して、鍵を開けた。
「ここは、私のお姉ちゃんの部屋なんだ。どうぞ、入って」
玄関のすぐ横がキッチンだった。設備は古いが、小綺麗にしてあるので、清潔感はある。
小さなキッチンの奥に、たたみの部屋があった。万年床のような布団は、ついさっきまで、誰かが寝ていたかのように、抜け殻の形をしている。
「ここ、ここ。ここを見て」
立花は、窓際の床を指さした。たたみに穴があいて、穴の周囲が焦げている。
「これが、発砲事件の証拠。お姉ちゃんが撃たれたの」
「えっ? あ、あなたのお姉さんが撃たれたの!? は、発砲事件って、そういうことだったの?」
「そうよ。びっくりした? ふふふ。でも、お姉ちゃんは有名人じゃないんだよね、残念ながら」
立花が、悲しそうに笑う。
芽衣は、事情も知らずに冷血な宣告をしてしまったことを後悔したけど、かといって、やはり自分の仕事の範疇でも無いし、話を聞いてあげることぐらいしか、できそうもない。
「そ、それで、お姉さんは? 大丈夫? どこにいらっしゃるの?」
「知らない。ここには、もういないよ。昨日の夜中に、連れて行かれちゃったんだ……」
「う、撃たれて、拉致されたってこと? しかも、発砲事件って、つい、数時間前にあったってこと?」
「ううん。撃たれたのは一週間も前」
芽衣は、混乱した。一週間前に撃たれて、昨日の夜中に連れ出されたというのは、どういうことなのか、想像もつかない。
「その間ずっとここで、銃撃犯に監禁されてたってこと?」
「ううん、違う。傷が浅かったから、お姉ちゃんは、この部屋で、静養してたの」
「撃たれて静養って……。病院には行かなかったの?」
「行ってないよ。私達姉妹は、貧乏だから、健康保険に加入してないの。いつも、自力で治すしかないんだよね」
立花は、さらりと言ったけど、芽衣は、日本の底辺に、そんな生活をする人がいるとは、信じられなかった。立花を見る目が、同情の色に変わっていく。
「そ、それで、静養中に、犯人が再び現れて、連れ去られたのね……」
言いながら、発砲事件のあとの警察の捜査がどうなっていたのか気になった。捜査の順位付けに、被害者の生活レベルが考慮されていたとしたなら、大問題である。
「違うよ」
「えっ?」
「お姉ちゃんを撃った人と、連れ出した人は、別の人よ。連れ出したのは、お姉ちゃんの、元お客さんみたい。前に、キャバクラで働いていたから」
一週間のうちに、たまたま、関連の無い二つの事件が、立花の姉の身に起こったということらしい。ついていないとしか言いようがなく、哀れむように立花を見やると、立花が話を続けた。
「なぜか、その人、精神がおかしくなったみたいに、取り乱してたらしくて、駆け落ちするって言って、眠っているところを連れ出されたみたいなの。だから、私、お姉ちゃんを助けたくて、取り戻したくて、あなたに連絡したのよ。あなたくらいしか、頼れそうな人、知らないからさ」
芽衣は、自分よりも、頼りになる機関のことが気になった。
「警察は? 警察の捜査はどうなってるの?」
「そんなの、言っても信じてもらえないだろうし、家出とかで処理されるだけだから、意味無いじゃん」
「違うわよ。撃たれた方のこと。警察には届けたんでしょ?」
「ううん、そっちも、届けて無いけど」
「な、なんでっ!? 拳銃で撃たれたんでしょ? そんなの、すぐに届けないと」
「私もそう思って、お姉ちゃんに言ったんだけど、仕返しが怖いから、嫌だって。撃ったのは、裏社会の人間らしくて、通報したら、妹の私にまで、被害が及ぶからって、黙ってたみたい」
やはり、発砲事件は、裏社会の人間が起こしていた。
「だから、マスコミが勝手に嗅ぎつけたことにして、暴露してほしいの」
「そ、そんな……私に頼られても……」
「マスコミが動けば、警察も動くでしょ。銃撃されていたって方が、センセーショナルだし、連れ出した男も、恐れをなして、お姉ちゃんを解放してくれるんじゃないかなって、思ってさ」
芽衣は、立花に同情しつつも、面倒なことに巻き込まれたとため息をつく。
どう考えてもサイエンス班のネタではないし、裏社会の取材は、危険なわりに、その記事がバズることも少なくて割に合わない。
ミス・ハナの写真は手に入れたいけど、立花の期待に応えられる気がしなくなった。
「で、その発砲した犯人の方は、裏社会の人間っていう以外に、なにか、情報はあるの?」
聞きながら、きっと、情報は持っていないだろうと踏んでいた。それを理由に、「取材のしようがない」と言って、依頼を断るつもりである。
「ああ、本名かどうかは知らないけど、お姉ちゃんが呼んでた名前ならわかる」
芽衣が顔を上げると、立花と目が合った。
「井出フラグっていうらしいわ」