ミス・ハナの偶像
野崎芽衣が事務所に戻ると、田宮の姿も、日南の姿も無かった。二人とも、まだ、取材に出かけていることになっているらしい。
今日もどこかで逢引きしているのではないかと、芽衣は訝しんだ。
事務所に居て、いやが上にも存在感を示しているのが、ぽっちゃりとした、編集長の置田だった。ITベンチャー企業からヘッドハンティングされたみたいだけど、今のところ、能ある鷹が持っているという爪は披露されていない。
芽衣は、そんな置田のデスクの前に立った。
「編集長、今、少し、お時間をいただいてもよろしいですか? JSRAの取材について、お話ししたいことがございまして」
全身がまんじゅうのように丸みを帯びた編集長の置田は、芽衣の方に顔を向けることも無く、軽くあしらう。
「今? もうすぐ会議があるから、無理だよ。会議の後にしてくれる?」
置田は、ノートとパソコンを重ねて脇に抱え、そそくさと棒立ちの芽衣の横を通りすぎる。不自然にも聴こえるバタついた足音は、忙しいことをアピールしているのだろう。
芽衣は、クローン人間を生成して研究しているかもしれないという、センセーショナルな内容も報告したかったけど、それ以上に、確かめたいことは別にあった。
あの不法侵入の事件以来、ずっとモヤモヤしている。
ひょっとしたら、置田は、それを察知して逃げたのかもしれない。
席に戻る間、芽衣は、舌打ちしたくなる衝動を抑えていたけど、憎々しく思う気持ちを顔に出してしまったらしい。
「野崎さん、怒り心頭ですね。顔に出てますよ。大丈夫ですか?」
UMA班の新人記者である飯島から、からかうように言われた。飯島は話し好きなので、気分転換をするには、丁度いい。
芽衣は、飯島の隣のあいた席に腰かける。
「変なこと言わないでよ、飯島君。あなたこそ、なんか、疲れてそうだけど、大丈夫?」
軽い気持ちで言ってみたら、意外にも、飯島の表情がどんよりと暗くなった。
「仕事の量が多すぎて、大変なんすよ」
よく見ると、飯島は頬がこけ、やつれている。さらに、うっすらと無精ひげも生え、何日も着替えてないようなほど、着ている服はヨレヨレだった。
「彼女とかいるでしょ? 炊事とか、洗濯とかしてもらえばいいのに」
「えーっ!? そんなこと、本気で言ってます? そんなのいるわけないじゃないっすか。いたら、当然、その辺りの協力、お願いしてますよ。取材活動が、ピークですし」
意外だった。仕事もそこそこできるし、顔もそこそこいい飯島には、当然、彼女がいると思っていた。
「そっか、それは、精神的にも、つらい状況ね。ふふふ」
「芽衣さん、いい女性いたら、紹介してくださいよ。ほんと、至急、欲しいっす。彼女」
「そ、そうねえ……」
芽衣は、悩むふりをしつつ、少しイラっとする。
(私だって、彼氏募集中なのに……。っていうか、飯島君、私のことは、まるで眼中にないのね!)
そんなことを考えていると、ふと、不倫する日南の顔が頭に浮かんだ。
芽衣は、日南に不倫をやめさせたかった。不倫現場を目撃してから、芽衣の日南を見る目が変わってしまっている。できるなら、昔の、憧れの先輩に、また、戻ってほしい。
「そうだ。あなたの上司なんかは、どうなの? 日南さん。フリーのはずだけど」
飯島がきっかけをつくれば、日南の目が覚めるかもしれないと期待した。
「いや、無理無理無理無理」
「いや、だって、日南さんは美人だし、しっかりしてるし、飯島君とのカップルなら、お似合いな気がするんだけど」
「無理ですよ、そんな。あんな気のきつい人、僕には、無理に決まってるじゃないですか。どんどんやせちゃいますよ。ストレスたまっちゃって、逆に、もっと大変な目にあいます」
飯島の否定の仕方は、尋常じゃなかった。飯島にとって、仕事のストレスは、上司の日南にしごかれることからきているのだろう。
(憎しみが、愛情に変わることは無いのかしら)
そんなことを考えつつも、結局、芽衣は、日南を推すことを諦めた。
「あら、それは飯島くんが、やさしすぎるからかな。例えば、田宮さんくらいなら、日南さんとお似合いかな。田宮さん、妻子持ちだけど」
芽衣は、方針転換して、田宮と日南の関係を崩すヒントを探ることにした。
「田宮さんでも無理でしょ。僕より、やさしいですもん、あの方」
「そう? でも、恋愛のこととなると、ヒトが変わるかもよ、田宮さん」
「ああいうタイプの人は、そんなふうにはなりませんよ。DVっぽいことやってるやつ、まわりでも何人か知ってますけど、あんな根っからの明るい人はいません。絶対、違いますよ」
「そうかなあ」
「そりゃ、そうですよ。DVやるヤツの特徴、知ってます? ヤツら、元々、暴力的な性格を内面に持ってて、普段は、それを抑え込んでるんです。だから、普段は極端に優しそうに見えるヤツもいますけど、表情や目を見れば、わかります。DVするようなヤツは、いつも冷たい目をしてますから」
「田宮さんには、あてはまらないってこと?」
「田宮さん、めっちゃ、やさしいけど、あれは、心の底からにじみ出てますよ。笑ってる時の目を見て、冷たいな、とか、思ったことありませんよね? だから、絶対、ありえないですよ」
飯島の見解に矛盾するところは無かった。むしろ、納得させられた。
となると、田宮がタカアシガニのように日南を拘束するような不倫関係は、そもそもあり得ないような気もしてくる。
謎は、謎のまま。けれど、現場を見たのも事実で、芽衣の中にある二人への不信感は、そのまま残った。
「飯島君は、今、何を追っているの? 取材がピークだって、言ってたけど?」
「なぞの数学者です」
芽衣が話題を変えると、飯島からは思いもよらない答えが返ってきた。
「え? 飯島君って、UMA班の記者だよね? UMAって、ネッシーとかビッグフットとかの、未確認生物のことじゃないの?」
「そうですよ、確かに。でも、ある意味、その数学者も未確認生物なんです」
飯島が言うには、追っている数学者は、『ミス・ハナ』とだけ名乗り、顔も名前も公表していない謎の日本人女性だという。そのミス・ハナが、学会誌に投稿した論文が、九十年前に提示されたコラッツ予想という未解決問題を証明できているかもしれないということで、今、話題になっているらしい。
なんでも、その未解決問題には、一億円以上の懸賞金が駆けられているそうだから、当然だろう。
現在は、世界中の天才数学者たちが、彼女の証明論文を検証していて、本当に、解けているかどうかは、立証されるまで、あと数カ月はかかるみたいである。
「ふーん……ミス・ハナね……。確かに、謎めいた人物だけど、かなり、UMAを拡大解釈したわね」
「そ、そうですね。ただ、それは、置田編集長も了承の上なので……。っていうか、むしろ、編集長の方から、提案してきた案件ですからね」
芽衣のことを軽くあしらった置田の顔が浮かぶ。
普段から、芽衣らサイエンス班には、特に興味が無さそうなのに、UMA班には積極的に関わっているようである。
「ふーん、あの編集長が……。そうなのね……」
「それで、取材がピークって言ったのは、ついに、先日、独自インタビューに成功したんですよ。ミス・ハナに会うことが出来たんです」
「うそ? 本当に? 世界初なわけでしょ? よかったじゃん」
「はい。情報屋を介して、段取りしてもらったんですけど、はっきり言って、異様でしたね。あんな取材、初めてでした」
「へえ、どんなふうに?」
「指定された場所が、ラブホテル街の中の常夜灯だけの暗い部屋で、電気を点けることすらNGと言われたんです。もちろん、写真を撮ることもNGです」
ミス・ハナからすれば、顔も公表していないから、はっきりと見られたくなかったのだろう。
その意図するところは、想像に難くない。
「日南さんと二人で取材したんですけど、ミス・ハナは、発表した論文に関する質問にはスラスラ答えてくれたんですけど、本人自身のことは一切教えてくれないんです。かなりの切れ者で、天才だということは、話す内容や素振りで、すぐにわかったんですけど、人間のように血が通っているようには思えなかったですね。偏見もあったかもしれないですけど」
「偏見? そんなのが、あったの?」
「そうなんです。実は、彼女のインタビューをアテンドしてくれた情報屋が、事前に教えてくれたんです。彼女は、人間じゃなくて、AIロボットじゃないかっていう噂があるって。SF映画みたいですよね、ハハハ」
「ほぅ。なかなか、興味深い話ね。なんか、根拠でもあったのかな?」
「情報屋いわく、彼女が働いているのが、JSRAらしくて、それに尾ひれはひれがついたみたいです。住み込みの研究員みたいなんですけど、実は、JSRAが開発したAIロボットじゃないかって噂が広まったんです」
(JSRA!?)
芽衣は、予想だにせず、不意に出てきたワードに、体がピクリと反応してしまった。
飯島は、それを見逃さなかったようで、眉をひそめて、口元だけ笑う。
「そういえば、JSRAといえば、芽衣さん、不法侵入して、警察に追われているんですよね?」
「だ、だ、だ、誰から、それを?」
「田宮さん」
(あのやろー)
その時、入口の扉が開いて、見慣れない集団が入ってきた。
ただ、先頭の男だけは、顔に見覚えがある。
(あの時の、私服警官だ!)
芽衣は、思わず、顔を隠したが、私服警官たちは芽衣には目もくれず、ぞろぞろと、奥の会議室に入っていく。
「どうされたんですか? 芽衣さん、あの人たち知っているんですか?」
芽衣は、会議室の入口を見つめたまま、体が硬直していた。
しばらくすると、私服警官たちは、編集長の置田を連れて出てきた。置田は、そのまま、会社の外に連れて行かれた。
「あれ、私服警官だったのよ……。編集長、連れて行かれちゃったね……」
「えっ? そうだったんですか? 編集長、な、なにか犯罪でもおかしたんですかね?」
芽衣には、心当たりがあった。
「やっぱり、あれは、編集長だったんだ……」
「えっ? ど、どういうことですか?」
以前、芽衣が、JSRAに侵入してしまったのは、丸い影が中に忍び込むのを見たからであった。芽衣は、それが編集長の置田のように見えて、思わず後を追ってしまった。
「私よりも先に、編集長がJSRAに不法侵入してたのよ。私は、それを見つけて追いかけちゃったの」
敷地内に足を踏み入れた時、突然、警告灯が真っ赤に光って回り出し、けたたましい警報音が鳴った。驚いた芽衣は、不法侵入してしまったことに気付き、踵を返して逃げ出した。
後日、私服警官から聴取を受けて以来、いつかは、こうなる気はしていた。
だから、その前に、なぜ、置田がそんなことをしたのか、確かめたかったのだけど……。
「編集長、なんのために、不法侵入なんかしたんだろうね……」
「そういうことですか……。それなら、僕にも、ちょっと心当たりがあります」
飯島の鼻息が、荒くなった。
「ご存知の通り、UMA班は、日南さんがリーダーなんですけど、定例の会議には、たびたび編集長が出席していたんです。なんでか、わかりますか?」
「う、うーん……。い、いや……ちょっと言いにくいんだけど……。UMA班の成果が出てないからかな?」
飯島は、ぷっと笑った。
「まあまあ。ある意味、正解ですね。というのも、編集長は、自分が作ったUMA班で成果が出ないことに責任を感じていそうでしたよ。会議のたびに、『何か、手伝えることがあれば』って、言ってましたもん。日南さんは、冷たくあしらってましたけどね」
「なるほど。私にも、理解できたわ。編集長は、UMA班に協力しようと、ミス・ハナに突撃取材を試みたのね」
「そうそう。きっと、そうだと思います」
「責任感が強い人だったんだ……。ご自分で、なんとか突破口を開こうとして……」
「だとしても、無茶ですよね。ジャーナリストだからって、法を犯していいわけが無いんですから。コンプライアンスを重視する世の中だってこと、わかってるんですかね? 時代錯誤ですね。だから、昭和の人間は、厄介なんですよ」
置田のやったことに関して、飯島の論調は、厳しかった。
芽衣は、何も言わず、ただ愛想笑いをしながら席を立ち、自分のデスクに戻る。
飯島はそう言ったけど、芽衣は、まん丸とした置田が切なく思えてきていた。
♰
不夜城とも呼ばれる一帯は、まだ、開店前で、ひっそりとしていた。
電飾が灯っていない看板の横から、細い路地に入ると、そのビルの裏に、地下に下りる階段があった。
フラグは、ユウカから受け取った紙袋を持って、その階段を下りる。地下には、腕にタトゥーを入れた厳つい男が、丸椅子に座っていた。
「なんの用だ? 名前は?」
「井出フラグ。五時半に約束している」
男は、ドアのある方にアゴをクイッと上げた。入れということだろう。
中に入ると、チープなテーブルが一つあり、その向こうに、ねずみ顔の男が座っていた。
「あぁ、フラグさん。こりゃ、どうもどうも。お待ちしておりましたよ。ささ、座って、座って」
ここは、情報屋のアジトだった。
フラグは、日南のことが気になってしまって、情報屋に日南の彼氏のことを調べさせていた。
どれほどのDVをしているのか、同じような遍歴がないのか、今日、調査結果を貰えることになっている。
「早速ですけど、これが、報告書ですわ」
ねずみ顔の男は、メモの書かれた用紙を、テーブルに置いた。
フラグは、その紙を取り上げて、読む。
「結果は、白でっせ。真っ白ですわ」
報告書には、結論の欄に『彼氏なし』と書かれていた。
「どういうことですか? 日南さんには、彼女を拘束する彼氏がいるはずなんですが」
「そんなん、おりまへんで。間違いおまへん。本人が、そう言ってるのなら、そりゃ、狂言のたぐいか、妄想か、どっちかですわ」
頭の中が、真っ白になった。
フラグは、日南から、二度もアリバイ作りの依頼を受けたし、決して安くない代金ももらっている。
なのに、彼氏がいなかったという調査結果が出たのはなぜなのか。
報告書には、日南に関する情報の記載もあった。
『職業:WEBメディアの記者。UMA班のリーダー。現在は、謎の天才数学者を追っている』
「記者? 日南さんは、記者だったんですか? 彼氏の件が嘘だとすると、ボクのことをさぐりに来ていたということ? な、何が目的で、ボクのところに来たんですか?」
「それも調べたんですけどね……。ちょっと、これだなっていう確実な理由はわかりませんでしたわ。残念やけど……。ただ……」
「ただ?」
「フラグさんのお父さん、JSRAで働いてはりますよね?」
「は、はい。それが、何か?」
「彼女がフラグさんに興味を持つとしたら、一点だけ……そこぐらいしか」
「えっ? そ、それは、どういうことですか?」
「彼女が追っている天才数学者が働いているのが、JSRAみたいなんです。どんな繋がりかは、知りまへんけど、フラグさんのお父さんの情報を聞き出したくて、フラグさんに近づいたんとちゃいますか?」
情報屋のアジトを後にしたフラグは、思い立って、実家のマンションに立ち寄る。
一年以上、帰っていないので、少し緊張していたが、JSRAで働いているという、天才数学者のことをどうしても聞いてみたくなっていた。
しかし、鍵を開けて中に入ると、誰もいなかった。
ダイニングテーブルには、ほこりが被っている。その量は、1日2日のものではない。
両親二人で、長期旅行にでも出かけたのだろうか。
仕方なく、フラグは、実家を後にした。
事務所に戻ると、ケーキの空き箱の入った紙袋をソファに置き、ヒップホルスターから、オートマチック拳銃USPを引き抜く。
情報屋の調査結果次第では、その足で日南の彼氏を脅しに行こうと思って、持って行ったものだが、出番は無かった。
名刺でカムフラージュされた箱に戻す前、念のために確認しておこうと拳銃から弾倉を外す。
「えっ」
フラグは息を飲んだ。
弾倉に装填されたパラベラム弾が、一発無くなっていた。
フラグには、疾患があった。
それは、きっかけも無く突然手が震え出すことと、頭に血が上ると、記憶が無くなってしまうということ。
フラグは、USP拳銃の弾倉を見つめながら、今日の記憶を辿った。
ユウカから紙袋を受け取ったところまでは、覚えている。
しかし、その後、情報屋のアジトに着くまでの記憶が飛んでいた。
記憶が無くなっている間に、どこかで拳銃を使ったのだろうか?
誰か、人を撃ってしまったのだろうか?
思い出せないまま、フラグは、ソファに崩れ落ちた。