第1話「寝坊した朝と暴走エレカ」
空はずっと遠く、猫耳は音に揺れる。ケモノのヒト達が暮らす遥か宇宙のどこか、あるいは隣の世界。小さな、しかし大きすぎた事件の幕開け。
ーー少し毛並みが乱れている。
鏡に映るもう一人の私は、風を受けて胸を張った帆のような両耳の間、天辺にできた山脈を手で押さえる。離したら復活した。
寝癖だ。
それもとびっきり酷い奴。
「スターニャ、遅れますよ! トランクに荷物詰めておきますから、早く毛並みを整えてください」
パタパタと廊下を走り抜けた女の子の声に、チラリと短い、丸い尻尾を見た。同居人のラビが、長い自慢の耳を振り回しながら、出発の用意に奔走しているのだろう。
ともあれ寝癖が問題だ。
掌を濡らして、頭を濡らす。寝癖を整えて、タオルで水気を吸わせれば、うん、なんとかなった。
一張羅のリバーシブルスーツに似合う、ネクタイを締め上げる。少し、息が苦しい。だが、緩めていてはサマにならない。カッコよくいかないと。
「スターニャ! 服は直しましたか! エレカで待ってますよ!」
声を荒げ始めた幼馴染に私は「もうできたよ」と答えた。ラビはせっかちでいけない。
普段掛けのメガネをケースにしまい、新品のメガネを掛けた。ちょっと、耳に違和感があるから調整が甘かったかな。だけど、傷まみれじゃないから上等だ。レンズもピカピカ!
「ラビ、随分と慌てているじゃないか」
「当たり前ですよ! スターニャ、早くエレカに乗ってください! 寝坊なんて信じられない!」
「昨晩は君が頑張っていたからーー」
「ーー白昼何言ってるの!? トランクに荷物乗せ終わってるから、その口を閉じて、飛ばします!」
私がエレカの助手席に座るやいなや、ドアを締め切る前にエレカのボールタイヤが高速で回り始め、白煙とタイヤ跡を刻みながら加速した。
エレカの電動エンジンは、昨今の厳しい騒音基準をクリアしているだけあって静かだけど、ラビの荒い運転のせいで物静かな印象はない。
ラビは運転が好きだーーというより走ることが好きなのだ。全自動で済ませれば簡単なのにーーしかも専用の高速レーンも使えて速いーーラビは、「自分の腕で支配したいんですよ。私の能力を感じる為に」なのだそうだ。
「もう少しゆっくり運転してもいいよ。時間に余裕はあまりないけど、ないわけじゃないから」
「スターニャはのんびりしすぎです。万が一の不測に備えてください」
「ラビは厳しいね。でも不測は考えているよ。今日会うのは、ドーベル将軍だ。彼は、私が一時間や三時間遅れても、やぁ! 退屈だったからティーパーティを準備させて貰ったよ、時間をくれてありがとう、て言うはずだからね」
「嫌味ですよ! それは!!」
「この場合重要なことは、遅刻しても問題は小さいということだよ」
「……本当に図太い神経ですね」
「カッカッせっつかれても、生まれるのは苦し紛れだけだ。私はより健全に物事を回したいし、それを実践しているんだよ」
バックミラー越しの、美人なラビが溜息を吐く。
「マイペース過ぎるのも毒です」
「私は、ラビが引っ張ってくれるからノンビリしてるんだ。信用してる。だから愛してるんだ」
「……馬鹿」
「世の男は感情を隠そうとするから、意中の相手との関係が破綻する傾向にある。私はきっちり言葉にしていこうと決めているよ」
「話を戻せば、スターニャは誰かがいないと駄目人ですね」
「そうでもない。一人なら一人で、暮らせはする。この耳だって、君がいなくても毎日輝いているだろう?」
ピカピカで自慢の耳だ。喧嘩で裂けたときは、後になって心からちょっと惜しんだが、治ったので問題ない。
「ドーベル将軍も急用をくれるよ。MID絡みかな」
「間違いないかと。最近のMIDはおかしいですから」
「MIDに意思があるんだから、どんなおかしいことも、それは行動原則にのっとった行動だと思うんだけどね。どんな馬鹿な人が馬鹿をやっても、それには馬鹿の理論が必ずあるものさ」
「スターニャは、MIDは何かに従っている、と?」
「たぶんね」
「それは何でしょうか?」
「調べる為に、いろんな人が頑張ってるんだよ。答えを急ぐと、答えは逃げちゃうよ、ラビ」
「新設された対MID調査部でしたか」
「バベルと言ったかな。失われた、古代共通言語と同じ名前だ」
「……自分で言っちゃってなんですが、あれ、正規の部署かと言われると……」
「趣味人の集まりではあるよね」
車窓からベットタウンの日常に目を落とすと、尻尾や耳が揺れていて、モコモコが走りまわり、蛇の下半身のお母さんが車道に出ようとした子供を尻尾で防いで、寒いと言っていそうな四足で、毛のない人の上半身の人は家まで車と同じ速さに走る。
奇妙な世界だよね
人種、形態が丸で異なる存在が、生殖活動をおこなえて混血児も産まれる。そして何より、同じ種から分岐した同胞とはいえ異種が、同じ社会で対等に暮らせている。
奇妙な世界だ。
そう思うのはーー『この世界とは違う世界からの考えの影響』かな?
「あっ、MID」
私は、意識せずに言葉を漏らしていた。運転席のラビには聞こえなかったらしい。
重力遮断された球体が、愛嬌のあるモノアイを点滅させたり、表情を作ったり、姿勢制御翼をパタパタと振りながら、子供とコミュニケーションをとっている。
いつもの光景だ。
MID……人工知性体が『ヒト』として社会に組み込まれたのは、最近の話じゃない。体が異なる人が多くいるからこそ、MIDという異形を受け入れるのも普通のことなのだろう、と私は考えている。
彼女らは、ヒトが始めて作った種族だ。
ラビの荒く、速すぎる運転のエレカから見えた日常は、あっという間に過ぎ去っていき、牧歌的なベッドタウンから飛び出し、左右を荒地に挟まれた無機質な道路が続く。
「MID達の打ち上げですね」
「うん、また行ったらしい」
乾いた大地の空を、炎と白煙が果てを目指して昇っていく。それは、MIDの奇行が作ったロケットだった。
ドーベル将軍、犬の警察で軍人でもある彼は決して軍帽を脱がない。




