第五章 ジョー博士の最終定理 3
リンダは良く働いた。家政婦アンドロイドに搭載された人工知能がこれほどハイスペックだとは正直思わなかった。
リンダの身のこなしや家事に従事する姿勢、ジョーに対する態度はどれも完璧なメイドそのものだった。
これが、ホスピタリティを備えた人工知能というものなのか。
初めのうち、リンダとの同居に戸惑うことも多かったジョーも、数日でリンダのいる生活にすっかり慣れた。
リンダの献身的な態度とジョーの症状の悪化が、リンダを不可欠なものにしていた。
「中庭に新しく何か植えようと思うんだが……」
ジョーは小さな声でリンダ向けて言葉を発した。
ジョーは中庭を望める廊下に出したリクライニングソファにもたれていた。
リンダの集音能力は高く、キッチンで野菜を刻んでいる手を止めて、ジョーの側にやってきた。
ジョーはリンダが傍らに来た気配を感じると、言葉の続きを繋いだ。
「何がいいかな?」
今日は天気がいい。小鳥が数羽、空から舞い込んできている。シマネトリコの枝でくつろいでいるのが見える。
庭木の手入れは中庭を美しく保つためには必要なことだった。伸びすぎたシマネトリコの剪定をそろそろ頼む時期だ。それに合わせて、新しい木を植えてもらうのがいいだろう。
病に伏してから、ほとんど外には出なくなってしまった。身体の自由が利かないのだから、仕方がない。こうしてリクライニングソファに寝そびれながら、中庭を眺めるのが、自然に触れる唯一のひとときだ。
「そうですね。南天の木はいかがでしょう」
傍らで、リンダが言った。
「南天?」ジョーは聞き返す。
「ええ。南天は、昔から難を福に転じると言って、とても縁起がいいんですよ」
「知らなかったな」とジョーが応じた。
「お赤飯に添えられている葉も、南天の葉です」
リンダは博識だ。たいていのことを知っているジョーすら知らないことを教えてくれる。もっとも、データベースから検索しているだけなのだが、それを感じさせない。
「そうか。災い転じて福となるということわざがあったな」
「ええ。赤い実をつけるところもかわいいですし。きっと小鳥たちも喜びますよ」
リンダは、優しく微笑んだ。
「そうだな。南天の木にしようか」
ジョーはそう言うと、目をつむった。
中庭では、南天の木が赤い実を実らせていた。小鳥たちは、実を目当てにして、以前より長くジョーの中庭に滞在するようになっていた。
「よかったですね」
リンダがジョーに声をかけた。リンダの澄んだ瞳は何でもお見通しなのだろう。ジョーも最近は、中庭を眺める時間が長くなっていた。
「ジョー博士は、もう研究をされないのですか?」
リンダがジョーに訊ねた。こんなことは滅多にない。アンドロイドのプログラムは、与えられたタスクを処理することが中心になっている。自律的思考は望めないはずだった。
もしや、とジョーは思った。
教え子だった二階堂アスカが訪ねてきたのは、三日前だった。アスカはジョーの研究室でポスドクとして研究を続けていた。彼女は、脳科学の知識と人工知能の研究を融合された新しい学問を作ろうとしていた。
そのころ、ジョーの研究の中心はミラーニューロンで占めていた。
ニューロンが神経伝達を行ない、脳の活動を支えているのは明白だったが、ミラーニューロンは、ミラーつまり、鏡の要領で、特殊な働きをする不思議な器官だった。
アスカのビジョンでは、ミラーニューロンの解析結果を人工知能に反映させれば、自律思考型の人工知能に辿り着けるというものだった。共著での論文もずいぶんと発表してきた。知的な女性で、ややもすると強引なところもあったが、研究者にしては控えめな性格のジョーには好ましく感じられた。
研究の拠点を大学から人工知能の研究所に移した後も、研究がらみのやり取りは続けていたが、病気になってからは連絡を取っていなかった。
そんな彼女が急に訪ねてきたのだ。彼女は、リンダを見ると、目を輝かせた。一晩、彼女を預からせてほしいという頼みをジョーは聞き入れた。
「私の研究は、きっとジョー博士のお役に立つはずです」
アスカは自身たっぷりに断言した。彼女らしいと思った。彼女は、そういう女性だ。
詳しい話は聞かされなかったが、アンドロイドの人工知能のバージョンアップだと彼女は説明した。
アスカの所属する汎用型人工知能研究所がリエゾンマインド社の工房を持っていることは知っていた。
リンダがリエゾンマインド社の製品であることも、アスカには好都合のようだった。
リンダのバージョンアップは上手くいったのだろう。特に変化を感じていなかったが、先ほどのリンダとの会話から、確かに自律思考の萌芽を感じた。
まるで、人間になったのではないか。そう錯覚させるほど、リンダは人間のようにふるまうようになっていた。
定期的にアスカがやってきて、リンダの性能を調査した。見た目に反して真面目なところも相変わらずで、リンダを借り出した後には、きまってジョーにレポートを提出した。
リンダが見つめているのに気が付くと、「研究は……」と言いよどんだ。研究を続けたい気持ちは強くある。自分の存在意義は研究にあると思って生きてきた。だが、今はどうだ。生きるためだけに、生きている。そんな命だ。このまま命が果てるまで、命が尽きるまで、この家の中に閉じこもって、暮らすのか。ジョーの心は闇に包まれた。
研究機器には埃が積もり始めている。
学会のレセプションの案内も届かなくなってしまった。
これが、自分が望んでいた生きる道なのか?
一度は諦めた研究への熱が心の奥底で再燃し始めるのを感じる。それは、わずかな火種のくすぶりかもしれないが、確かにジョーの中に熱をもって表出しようとしている思いだった。
ジョーは、自分の中に強烈な生への執着を感じた。
リンダがジョーの肩に手を置いた。自由にならならい身体をひねって、リンダの方を向いた。澄んだ瞳には、自分の哀れな姿が映り込んでいる。
「リンダ、君の身体が欲しい」