05.第一騎士団団長とフライパン
胸元に宿ったあたたかさに顔をほころばせるリーザを、男は何も言わずに見つめた。
最初に目を合わせたときの、静かな大きさの目だが、何かに戸惑っているかのように見えた。
「あの……」
「……あ、ああ。いや、すまない。誰かに自分の作ったものを食べてもらうのは初めてで、つい……いや、さっきも言ったか、これは……」
男は言葉を探すようにリーザから視線を外し、言った。
「とにかく……よかった。食べられたならそれでいい」
おそらくは味のことを言ったのだろうが、リーザは一瞬、身体を固くした。
「……そろそろ部屋に戻った方がいい。そのほうが落ち着いて食べられるだろう? 夜風は冷たい。風邪をひくぞ」
確かにその通りだ。男と話をしているあいだにも、夜の空気は冷え冷えとしてきた。
立ち上がると、男も同じように立ち上がり、生成りのシャツを手に取った。並んで立つと、男の背の高さが際立ってよくわかる。
「部屋はわかるか?」
「ええ。大丈夫だと思います。ご親切に、どうもありがとうございます」
「いや、気にするな。それじゃあ、気をつけて戻れ」
男の言葉に一礼をして歩き始めたリーザは、ふっと伝え忘れていたことを思い出して立ち止まった。
いつの頃からか、他人には言わないでおこうと思うようになった小さな呟きを、この人には伝えておきたい。
思い切って振り向くと、男がどうしたのかという顔をする。
「あの……」
「どうした?」
「喜んでいると思います。パンと、余り物のミルクと卵と、それから湿気って固くなったお砂糖。捨てられなくてよかった、って。……それじゃあ、おやすみなさい」
胸を満たしているあたたかさを感じながら一気に言うと、リーザは軽やかにその場を去った。
そのあたたかさが、抱えている紙袋越しに伝わる『貧乏な騎士』の温度から来るものではないことを、リーザが誰よりもよくわかっていた。
……それにしても、名前を訊くのをすっかり忘れていた。
そのことに気づいたときには、自室のベッドの上で、穏やかな眠りが既に彼女を襲っていたけれど。
***
名前を訊くのをすっかり忘れていたもう一人、ラードルフ・ルーベンシュタットは、馴染みのない少女との会話を反芻しながら城内へと戻っていた。
もっとも、足が向いたのは彼女とは違って自室ではなく、厨房だった。
厨房の灯りは消えていなかった。
中をのぞくと、見知った男が椅子に腰掛けて悠々と茶を飲んでいた。
「ホラント、まだ起きていたのか」
「なんだ、ラードルフか。それはこっちのセリフだ。お前さんこそ、今日は出っ放しだったらしいじゃないか。まあ、そこに座れ」
ホラントが勧めた椅子を断り、ラードルフは勝手知ったるといった調子で必要なものを棚から出した。
すっかり固くなったパン。
余り物の卵と、湿気て古くなっている砂糖。
それに、ミルク。
今日、二度目の準備。
「なんだ、またエプロンなんかつけてんのか、団長殿」
「夕飯を食べ損ねてるんだ。戻って来るのが遅くなった」
「大変だったな、お疲れさん。……それにしても、泣く子も黙る第一騎士団団長ともあろうお前さんが、未だに夜な夜な余り物を駆使して『貧乏な騎士』を手ずから作って夜食にしていると思うと、畏れ多いと言うか、泣けると言うか」
「質素倹約の食卓が信条の総料理長にだけは言われたくないな、それは」
ホラントは何も答えずに、ただにやりと笑った。
今回のリーザ王女の旅路の手はずを整える役目を仰せつかったのは、レーベン王国に属する王立騎士団の第一騎士団である。
第五まである騎士団の中でも、第一騎士団は王国の有事には真っ先に命令が与えられ、王家を危険から遠ざけるために尽力する任務を多く請け負っている。王女の帰還に関する任務を命じられたのもそのためだ。
安全な帰城ルートを設定し、数人の騎士を馬車とともに迎えに行かせる。途中、数ヶ所に見張りの騎士を置き、早馬で進み具合を知らせるように指示を出し、残りの騎士は王女付きの侍女になることを命じられた者たちとともに、王城で出迎えの準備をする。王都の大通りを抜けるのは危険が伴うおそれがあるため、迂回路を辿って王城の裏手へまわること……。
これらの人員の配置と計画を組んだのが、第一騎士団団長であるラードルフだった。
「まあ、冗談はさておき、本当、お疲れさん、ラードルフ。そんなに遅く戻って来たってことは、だいぶ遠くまで足を伸ばしていたんだろ?」
ホラントのねぎらいの言葉に、ラードルフはありがとうと添えてから応えた。
「ああ、だいぶあちこち廻っていて……そうだ、ついでに、カリーン村にも顔を出した」
「収穫祭のことか」
「そろそろ準備にとりかからないといけない時期だからな。オットーがあんたによろしくと言っていた。『家出息子が、リーザさまの最初の食事をつくるなんて十年早い……』って怒っていたよ」
オットーはカリーン村で代々続いている農家の生まれで、長年王城に供する野菜を作り続けている。
そんな彼と、農家を継がずに料理人になると言って家を飛び出した息子のテオのあいだにある確執や距離感のことは、ラードルフもホラントもよく知っていた。
もちろん、怒る顔の裏にある、息子を誇らしく思う気持ちや、強い寂しさのことも。
ホラントに背を向けたまま手早く調理に取り掛かっていたラードルフは、オットーの怒った表情とテオのシェフ姿を思い出し重ねているうちに、ふと会話が途切れていることに気づいて振り向いた。
「どうした、ホラント」
「いや……そのことなんだがな」
すっかり冷めているらしい茶を継ぎ足しながら、ホラントは今日の夕食の席でのことをぽつりぽつりとこぼした。
テオがぜひにと作った食事を前に、王女が倒れてしまったこと。
国王夫妻が直々に詫びに来たこと。
当然ながらそのことを強く気に病んでいるテオの様子――。
「それで、王女さまは、無事でいらっしゃるのか?」
「ああ。熱もなく、倒れた以上の異変は特にないらしい……意識も戻って、今はもうおやすみだろう」
ふうと溜め息を吐くホラントの言外の沈みをくみとって、ラードルフはいたわるように言った。
「別に、あんたが監督していなかったからこんなことになったってわけじゃないんだろう? あんたまで過剰に気に病むことはない。明日から、王女さまが元気になるような食事をつくればいいだけだ。あんたなら簡単だろう?」
「はは。お前さんも、言ってくれるな。ついこのあいだまでそのへんを走り回ってたガキだったっていうのに」
「昔話が出来るぐらい元気なら、疲れた溜め息を吐くな」
呆れた素振りでそう言うと、ラードルフはまたホラントに背を向けて『貧乏な騎士』を焼きにかかった。
火の匂いと小麦の焼ける匂いがいっせいに立ち上る。
「しかし、お前さんが言うほど、事は簡単じゃない。大変なのはこれからだ」
「それはそうだろうな」
「他人事のように言うが、ラードルフ、お前さんがいちばん大変なんだ。わかってるだろ?」
それには答えないまま、ラードルフはフライパンの『貧乏な騎士』に目を落として、昨日のことを思い返していた。