04.貧乏な騎士
はっと顔を上げると、そこに座り込んでいた男が、振り返ってこちらを見ていた。
月明かりと木々のざわめきの合間に、リーザも男の姿を見た。
男は深い青色の目を見張るでも細めるでもなく、静かな大きさでリーザを見つめた。
短く刈った金色の髪と深い青色の目のコントラストが、ちょうど今夜の月夜の色合いと似ていた。
……きれいな目。
見咎められるかもしれないという恐れも忘れて、自分を見つめる男の目を見つめ返しながら、リーザは思った。
まるく、青く……そう、あれに似ている。
ソーダ水に、浮かんでははぜる泡。
じっとこちらを見つめていた男が、ふいに口を開いた。
「ここで、何をしているんだ?」
低い声が、男のくちびるから漏れた。
責めるでも咎めるでもない口調だった。
「あ、あの……」
きれいな目に意識を取られていたリーザは、わけもわからないまま言葉を返した。
「噴水のお水を、頂けたらと思って……」
「……噴水の水が、なんだって?」
泡がぷかりとふくらんで浮くように、男は目を見開いた。
ああ、いけない。
きれいな目を曇らせてしまう。
リーザはきゅっと両手を握りしめて、懸命に言葉を探した。王城へ帰って来るときよりもずっと、身体が強張っていた。
「お腹が、空いて……だから、噴水のお水が、飲めたらいいのにな、って、考えていたところなん、です……」
「……」
「……」
しどろもどろに答えるうちに、身体のすみずみにまで熱が張り巡らされていくのを、リーザは感じていた。
男は見開いた目を元の大きさに戻して一呼吸置いたのち、眉間にしわを寄せると突然うつむいた。
「……くっ……っはは……ははは……」
――笑ってる?
気分を害したかと不安に思っていたリーザは、男の控えめな――けれど決して抑えられない――笑い声に、ますます戸惑った。
「いや、悪い……ははっ……あまりに予想外な答えだったからな。失礼した」
男はこみあげる笑いをなんとか抑えると、謝罪の言葉を口にした。
「あそこの噴水は地下水を汲み上げているんだ。飲もうと思えば飲めないこともないだろうが、真夏ならともかく、今みたいな季節の夜ともなると、手で受けるには冷たすぎる。……それにしても、腹が減っているなら、厨房に行けばいいだろう? 夜中でもちょっとしたものなら手に入るはずだが」
「そう思って出てきたのですけれど……迷ってしまったんです」
「そうか。見かけない顔だと思ったが、新入りの侍女なら仕方ないな」
どうやら男はリーザの格好を見て侍女だと思ったらしい。
自分が修道院で着慣れたつぎはぎナイトドレスに地味な藤色のカーディガン姿であることを思えば、男がそう判断したのはよく理解できる。質素倹約が信条の現王家とはいえ、さすがにこの格好では王族とは思わないだろう。
「それで迷い込んでいるうちに王家の庭に出た、というわけか。そこへ俺がやって来て、驚いて木の影に隠れた……そんなところか」
「ええ、そのとおりです。でも……匂いがしたから……」
「匂い?」
「……甘くて、あたたかい匂いが……だからつい、その、身を乗り出してしまって」
また自分は変なことを言っただろうか?
少しだけ不安に思いながら、リーザはそう言った。
男はややあってからくちびるをゆるめて答えた。
「もしかして、これのことか?」
男は立ち上がると、木の影に寄り添ったたままでいるリーザの目の前に右手をひょいと差し出した。
手に下げている小さな紙袋が、リーザの目の前で揺れる。揺れる隙間から、ふわりとした甘い匂いがする。
ああ、この匂い。
リーザは頰がゆるみそうになるのを押さえながら頷いて、言った。
「あの……これは?」
「『貧乏な騎士』」
「え?」
「今さっき、厨房で作ったんだ。まだあたたかい」
差し出す手がいっそう近づいて、リーザは両手で紙袋を受け取った。
がさごそと開けると、小ぶりなパンが二つ、黄色く染まったやわらかな肌をして入っていた。
「忙しくて食事を摂り損ねたときとか、小腹が空いたときはそれを作るんだ。今日は一日外へ出ていて、夕飯を食べ損ねてな」
「……一日、外へ?」
「ああ」
ということは、彼がさっきの夕食をつくったわけではないのか。
リーザはできる限り不自然でないように相づちをうった。心のどこかで、ほっとしている自分がいた。その料理人に会うには、まだ心の準備がすんでいない。
男はつづけた。
「王城に詰めている人間はそれなりに多いし、みんな忙しくして食べたり食べなかったりするから、パンやら卵がときどき余るんだ」
「だから、これを?」
「捨てるのはもったいないからな。『貧乏な騎士』なんて言うが、固くなったパンをうまいこと食べられるようにするんだから、大したものだと思わないか?」
その昔、いつでもあたたかいパンを食べられるわけではなかった騎士が、窮した挙句に思いついたのが『貧乏な騎士』だったと、本で読んだことがある。固くなったパンを、卵と牛乳と砂糖を解いたものに浸して焼くだけだが、固いままのパンよりもずっと食べやすい。
それにしても、余り物のパンと卵で『貧乏な騎士』をつくるとは……。
ホラントの下で働く料理人としての矜持なのか、王家の質素倹約ぶりが王城中に浸透しているのか……いずれにせよ、悪い話ではない。
リーザがそう考えていると、男が言った。
「これでよければ、食べるか?」
「えっ……」
リーザが驚いて男の顔を見ると、軽やかな物言いに、あの目がゆらゆらと笑っている。
またひとつ、新しい表情を見た。
ふいにそんなことを考える自分を押しとどめて、リーザは困惑して言った。
「あの……私、そんなつもりじゃ……。あなたも、ご夕食、召し上がっていないのでしょう?」
「食べていないのはその通りだが、別に構わない。厨房に戻ればまだパンが余っていたはずだ」
それでは作る手間がかかるのではないか、とリーザは思ったが、ぜひ食べろ俺は構わないと言いたげな口調と表情に押されて、ありがとうございます、と呟いた。
男が満足そうに笑うその笑みが、月明かりに映える。
「今日は城の人間は皆休みなく動いていたから、城の案内もしてもらえなかったのだろう? 夕飯を食べる暇がなかったのはわかる。それを食べて、ゆっくり休め」
休みなく動く原因になっているのが目の前の女であることを知らないまま、男はねぎらいの言葉を投げかけた。リーザは感謝の気持ちを込めて軽く頭を下げる。
今、食べたい。
リーザは不思議な気持ちにとらわれた。
どうしてだろう。
知らない人間が作ったものを食べるなんて恐ろしいことが、今はなぜか怖くない。
お腹が空きすぎているせいなのか?
「あの、ここで少し頂いても?」
「ああ。別にかまわない。ここは静かでいい――ほら、座れ。ああ、その前に……」
男は着ていた生成りのシャツをさっと脱いで、木の根元あたりに敷いた。
……丸襟のシャツ一枚になると、大きな身体がよりいっそうあらわになる。リーザはなんとなく気恥ずかしく、目を不自然でないように伏せて頭を下げた。
リーザが敷かれたシャツの上に座ると、二人分ほど離れて男が座り込んだ。
風が髪をさらさらと揺らすのを感じながら、リーザは両手をそっと組む。
食前の祈り。
目を閉じると、どこかで鳴いているフクロウの声が耳を撫でた。
すべての命よ、お許しください。
昨日を忘れ、今日を生きるこの私を。
すべての命よ、お許しください。
明日に怯え、今日を生きるこの私を。
すべての命よ、お導きください。
今日に怯え、やがて今日を忘れて生きるこの私を。
私に奪われたすべての命よ。
どうか、光あらんことを。
長い祈りの文句を小さく、ゆっくりと唱えた後、リーザは目を開けた。
「ずいぶんと、長く祈るんだな」
タイミングを見計らっていたように、男が言った。
「陛下でも食前の祈りはそこまで長くないし、文句も短い」
「自分で考えて祈っているものですから」
食前の祈りはいつだって丁寧に、慎重にする。
特に、見知らぬ男が自分でつくったと言う『貧乏な騎士』を目の前にしている今のようなときは、あらん限りの祈りを込める。
男は驚きとも感心ともつかない表情でリーザを見ていた。
何かを考えているようだったが、まっすぐな目にはあたたかな色が宿っているように見えた。
「今まで、誰かに自分のつくったものを食べてもらったことなどないが……」
ややあって、男は言った。
「そんなふうに祈って食べてもらえるというのは、作った人間としては、嬉しいものだな」
「嬉しい?」
「ああ。味を褒められるのももちろん嬉しいだろうが、そういう喜びとは少し違う……なんというか、何もかもを受け入れてもらえているような気がする。自分のしたこと、感じたこと……何ひとつ無駄にならずに受け入れてもらえるような」
自分でも不思議なことを言っていると思ったのか、男はそこで口ごもると、まあ食べてくれ、と言った。
リーザは紙袋からそっとパンを取り出した。
やわらかい肌を指で押すとふんわりと沈んで、そっとゆるめると指に吸いつくように広がる。
不思議だ。
なんの不安もない。
今日の夕食の席での重苦しさなど微塵も感じていない自分を、リーザは夜の静けさの中で感じていた。
祈りが誰かの喜びになる?
そんなこと、考えたこともなかった。
すべてを受け入れるどころか、自分に圧し掛かる重さを取り除きたいというこの上ないほどの自己中心的な考えで、ただ一心に祈っていただけだというのに。
リーザは取り出した『貧乏な騎士』にそっとかぶりついた。
ふわふわとしたそれを指で小さくちぎるのは難しかった。
いつぶりだろう。
小さな焼菓子以外は指でつまむことなど滅多になかった自分が、片手とちょうど同じくらいの大きさのパンをそのまま食べている。
鼻先をくすぐっていた甘い匂いが、口の中を満たした。
卵と砂糖とミルクがパンと手を結んだだけで、ここまでやわらかくなるのかと、驚きさえ感じた。
そして、身の内を巣食う不安も、痛みもない。
その代わり――。
「……とても、おいしいです」




