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03.黒いエプロンの男

 寂シイ

 カゾク

 帰リタイ

 ヨロコブ

 イタイ

 ミタイ

 痛イ サビシイ サビシイ カエリタイ イタイ ……



 たくさんの言葉が木霊のように響く世界から覚めて、リーザはふっと瞼を開けた。

 どちらが上で、どちらが下か、よく知らない部屋で感覚を取り戻すには少し時間がかかった。


「あっ……リーザ様、気づかれましたか? 陛下、リーザ様が……」


 傍に居たらしい侍女の声からややあって、アデルがリーザの視界にそっと入って来た。


「リーザ、具合はいかがですか?」


「お兄さま……私……」


「ああ、いいのです。そのまま、横になっていなさい」


 起き上がろうとするリーザの両肩を制し、横たわらせると、アデルはベッド脇の小さな椅子に腰をかけた。

 リーザはもぞもぞと毛布の中で身体を動かし、アデルの方を向いた。

 いつのまにか、修道院から持ってきたナイトドレスに着替えさせられている。あちらこちらほつれるのを丁寧に直しているため見た目は少し古びているが、着心地と安心感はどんな寝間着にも敵わない。

 リーザは着慣れたナイトドレスの感触に心を落ち着かせながら言った。


「私、倒れたんですね……」


「ええ。熱はないようですし、湿疹ができている様子もありませんから、おそらく大丈夫でしょう。……すみませんでした、リーザ。こんなことなら、始めからホラントにすべてお任せするべきだったのかもしれない」


「いいえ……私、食事をつくってくださった方に謝ります」


「もう少し、元気になったら、ですよ。今は無理です。あなたも、そして彼も」


「……はい」


 アデルは口にこそ出さないが、今夜の調理担当の料理人も、相当落ち込んでいるようだ。

 当たり前だろう。自分の作った食事を口にした王女が、食べている途中に倒れてしまったのだから。毒を盛ったなどと口さがない噂がたってもおかしくないような出来事だ。

 ただ、リーザのことだから、おそらく『こうなることもありうる』という話は事前にしてあるはずで、こうなったことで彼が罪に問われるわけではない。彼も承知済みのことではあっただろう。

 しかし、何かが傷つくような出来事であるには違いない。心や、プライドや、そういうものが……。


 そこまで考えて、リーザはふうと溜め息をついた。


「さ、もう少しおやすみなさい。今日はこのまま横になっていた方がいいでしょう」


「ありがとうございます、お兄さま。朝になれば、元気になっていますわ」


 リーザの言葉にアデルは微笑むと、おやすみ、と言って部屋を出て行った。



 ***




 しかしいくらなんでも、リーザとておなかはすくわけで。


 おやすみなさいの挨拶から、どれほど時間が経っただろう。

 アデルが退室してランプの灯りが消されたときにはもうあたりはとっくに暗かったが、自室にくっきりと入りこむ月の明かりがそっと広がっていく様子で、それなりに夜が深くなったことがわかる。


 ベッドから起き出して念のため毛布の乱れを丁寧に直し、クローゼットから藤色のカーディガンを取り出して羽織ると、リーザは自室の部屋のドアをそっと押し開けた。

 灯りが低く抑えられた廊下の空気が、ひいやりと足首に触れた。


 おなかが、すいた。


 食べられないのは自分のせいなのだ。今夜の料理を作ってくれたという彼が悪いわけではない。

 わかっている。

 わがままを言っているととらえられても仕方がない。

 でも、どんなに食事が食べられなくても、おなかが空かないことはない。


 リーザは物心ついたときから自分を苛む嫌悪感と、今日もまた向かい始めた。


 こんなことは、生まれてからしょっちゅうだ。うんざりするほど慣れている。

 ただ、慣れたのは身体の痛みだけで、気持ちの方は、どうにもならない。


 奇妙で不思議な病か。

 世にも恐ろしい魔女の呪いか。

 それとも、稀代のわがままな美食家か――。


 自分について巷間ではそのようにささやかれていることを、リーザはよく知っていた。


 いつから自分はこんなふうなのだろう。


 回廊の影をしずしずと進みながら思い返す。


 いちばん古い記憶の中の自分は、父の前で食事がのどを通らずにいる。

 咎める父王を、まだ今よりは若いゲオルギーテがとりなしてくれている姿……。

 いずれにせよ、良い思い出ではない。

 そのときの父王が言うことには、お前は母親の母乳すら飲もうとしなかった――ということらしい。


 母乳の味なんて、覚えていない。


 それが普通のことなのか、やはり自分が母乳を拒んだゆえのことなのか、リーザには判別がつかない。


 でも、父とテーブルを囲んでいる過去を思い返すときに自分の中に芽生える寂しさのような欠片は、そういえば、さっき倒れた時に感じた痛みや寂しさに似ている気もする。


 サビシイ カエリタイ サビシイ イタイ イタイ……。


 回廊をふらりふらりと歩いているうちに、いつのまにか王家の庭へ通じる扉の前に来ていた。厨房へ行って、水を飲もうと思っていたのに。


 簡素な木の扉を開けると、夜風が入りこんで、ナイトドレスのすそをふわりとあおられる。

 あおられるすそを右手で、舞い上がる髪を左手で押さえながら歩き出す。


 王家の庭には誰もいなかった。


 王家の庭と呼ばれてはいるが、王城に詰める騎士たちや侍女たちの憩いの場でもある。

 昼間ともなれば、マルグレートが薔薇の手入れをする横で、休憩時間の侍女が編み物をしている。それに、剣を振り回すことは特例がない限り認められてはいないものの、騎士たちが日向で剣を磨いていたりする場所だ。


 リーザは薔薇園の脇にある大きな木の下にそっと座り込んで、背を幹に預け、膝を抱きかかえた。


 よく晴れた夜だ。

 最初の夜をこんなところで過ごすとは思わなかった。

 透き通った月が、周りの木々とリーザの影を綯い交ぜにして融かしている。ささくれだっていた気持ちを撫でつける夜風を感じながら、リーザはそっと目を閉じる。中央にある噴水が夜でも静かな水しぶきを上げている音が、耳に心地よい。


 ああ、それにしても……おなかがすいた。


 美しく穏やかな夜にふさわしくない現実だが、仕方がない。ささくれだっていた気持ちは少し治まれど、それと一緒に空腹がおさまってくれればいいのに、うまくはいかない。


 近くを見回しても木の実が落ちている気配などないし、ホラントが育てている畑が近くにあるとしても、まさか野菜を引っこ抜いて食べるわけにもいかない。

 薔薇園の薔薇を拝借してお腹を満たすのは、ロマンティックだけれどマルグレートに申し訳がないし、そもそも食べられるものなのかよくわからない(もちろん、兄夫妻が丹精している庭に咲いた薔薇なのだから、間違いなくおいしく飲みこめるはずではあるけれど)。


 そうだ、噴水の水は飲めるのだろうか?

 どちらにせよ、厨房では水を一杯頂こうと思っていたのだし……


 カツン……


 考えをめぐらせる頭の隙間に、湿った音が微かに響いたのを、リーザは耳聡くとらえた。


 何の音……?


 ゆるみかけていた身体に緊張が戻る。


 そうしてその湿った音が、あの裏庭へつなぐ木の扉が開け閉めされる音だったと気づくころ、長い影を連れて、誰かが姿を現すのが目に入った。


 こんな時間のこんな場所に人がいては怪しまれる……それが王女だと知れたら、なおさら。


 リーザはそっと立ち上がり、もたれていた木の後ろへと姿を隠した。揺れる枝葉の下で、近づいてくる影を見つめながら、ここを行き過ぎてくれればいいと、そう強く願いながら。


 リーザの願いもむなしく、その影はその木へと一直線にやって来た。


 男だ。


 リーザは影にまぎれて息を殺しながら男の姿を観察した。


 綿でできているらしい生成りのシャツがくしゃりとその大きな身体を覆い、中には濃い緑色の丸襟のシャツを着ている。砂漠色のズボンを履き、足元はしっかりした革のブーツだ。そして右手には何かを提げているようだった。


 中でもリーザの目を引いたのは、生成りのシャツと砂漠色のズボンのあいだに見える黒い布地……。


 エプロン。


 そう気づいて、リーザは身体から熱が失われていくような気がした。


 黒い布地のエプロンに、リーザは見覚えがあった。

 海辺の修道院にいた頃、総料理長のホラントが料理指導に来たときにつけていたエプロンだ。


 普段は白い料理人用の服に着替えてしまうんですが、こういうときは簡単なエプロンで済ましているんですーー


 と言って大きく笑うホラントの姿を、リーザは記憶の片隅からひっぱり出すようにして思い出した。

 だから、この黒いエプロンは、この王城の厨房で働く料理人である証だ。


 背筋にすっと寒気が走った。


 私が傷つけたのは、この人なのだろうか?


 夕食のテーブルを思い出す。

 頭の中に何度も響いた言葉も。


 男は、エプロンをつけたまま木の下にどっかりと座り込んだ。

 足を組むと、砂漠色のズボンと皮のブーツが黒いエプロンに隠れる。

 リーザはそっと背を向けて、木にしっかりと隠れた。血の気の引いた身体を木の幹に預ける。ここまで近づいてしまったら、離れることもできない。


 そうして、息を詰めて動きを止めていると、男の方からがさがさという音が聞こえた。

 紙がこすれるような音だ。


 ……そういえば、手に何かを提げているようだった。その音だろうか?


 そう考えていたとき、木々を渡っていく風の音に混じって、ふわりとリーザをくすぐる匂いがした。


 甘い匂い。


 リーザは止めていた息を思わずふうっと吐き出した。

 固まっていた身体がゆるむ。錆びついてしまった鍵穴を誰かが見つけてくれたような、そんなやわらかい気持ち。


 知らず、リーザは背を向けていた身体をひるがえしていた。

 木の影に隠れたまま、甘い匂いの秘密を、座り込んでいる男の背中を、そっとうかがおうと――


 パキリ。


 右足がふいに小枝を踏んだ。

 足をつたうほんのかすかな音に驚いて足元に気を取られているうちに、低い声が聞こえた。


「誰だ」

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