02.最初の食卓
ハーブティはそれはそれは良い匂いで、修道院のビスケットによく合った。
リーザは安心して華奢な持ち手のティーカップを両手で包みこむようにして楽しんだ。
アデル曰くの『積もる話』の山にはたくさんの花が咲いて、その花に夕映えの光が射す頃、ゲオルギーテは来たときと同じ馬車に乗って修道院へと帰って行った。
その後、改めて自室を案内され、明日には城の皆に正式に紹介することをアデルから伝えられた。
自室は城の東南の角、陽当たりの良い一室だった。
小さくて品のよい書きもの机と、お揃いの椅子。
部屋の真ん中には、紅茶を飲むのにちょうどいいくらいのテーブルと椅子があった。
ひとりで寝るには少し大きすぎるくらいのベッド。
それから、ぶどうと蔦が彫られた背の高いクローゼット……中にはマルグレートが縫い物をしてくれたというドレスが何着か入っていた。
趣味の合うマルグレート好みの、日常にふさわしいささやかなドレスは、手先の器用な彼女のすることだからとても繊細で、きれいだった。
近頃私も少し瘦せたから、自分のドレスを手直しするついでに作っただけなの、だからそんなに気にしなくていいのよ――
時間もかかっただろうと恐縮するリーザに、クローゼットを開けて見せながらマルグレートはそう言ったのだ。
もちろんすべてが嘘ではないとしても、義妹に気を使わせまいとするマルグレートの心が、リーザには何よりも嬉しかった。
バルコニーが南へと突き出していて、開け放った窓からは夕方の風がそよそよと流れてきた。
落ち着いた色合いの部屋に早くも愛着を抱きそうになっているリーザに、アデルは言った。
「荷解きをしているあいだに、夕食の時間になると思いますよ。また、呼びに来ますから」
そして、今に至る。
晩餐会を催せるほどの長いテーブルの片隅、暖炉に近い場所で、アデルが暖炉を背に座り、マルグレートとリーザが向かい合って座っている。アデルの向かいの位置にランプが光って、テーブルの上の皿を浮かび上がらせていた。
今夜のメインは魚料理だ。
白身魚をたっぷりのバターでソテーして、にんじんとじゃがいも、それからいんげんにほくほくと火を通したものを添えている。
小麦色に焼き目がきれいに映える楕円形のパンが二つ。
とろりとしたかぼちゃのポタージュスープ。
それに、ロメインレタスにクレソンとトマトを合わせたサラダ、十分にかけられたドレッシング。
「これでも、だいぶ減らしてもらったんですよ。本当は温菜と肉料理のメインをつけたいって言われていたんですから。修道院帰りのリーザには、いきなり肉料理は大変でしょうし、王女の帰りを祝いたい気持ちはありがたいですが、王家が贅沢をしていては、示しがつきませんからね」
食事の皿を前に食べる手が止まっているリーザを、驚いていると読み取ってか、アデルは苦笑して言った。
父王の時代に比べて、アデルが王位を継いでからというもの、国王夫妻は殊に慎ましく暮らしている。
兄は贅沢と言えば着飾ったりするよりも、研究や書物蒐集がもっぱら好みだったし、マルグレートは手先の器用さと生来のマメさで、身の回りのものをいくらでも趣味よく調えることができたのだった。そのことは、リーザもよく知っている。
「総料理長じゃ、ないんですね、今日の料理は……」
「おや、わかりますか? まあ、ホラントならもっと、シンプルな味付けになるでしょうね。今日は彼の弟子のうちの一人が食事を用意してくれているんですよ。どうしてもつくらせてほしいと、ずいぶん前からお願いされていたんだとか。ホラントはとても優秀な師匠のようですよ」
リーザの言葉に答えながら、アデルは白身魚をきれいに切り分けて、口へ運ぶ。
皿にはバターがてらてらと残っている。白身魚に対してバターが不相応に多いのだ。総料理長ならもっと的確に少ない量で王家の食卓を賄うだろう。その腕こそが贅沢だと彼は心得ていて、そしてそれを実行できるだけの腕を持っている。今夜の食卓を任された料理人は、そういう点でまだ伸びる余地がある――そう考えて、総料理長は王女帰還の最初の食卓を任せたのだろう。
アデルは食事の手を休め休め、そう見解を述べた。
「それに、最近ホラントは新しいことを始めたので、そちらにも手がかかって忙しくしているんですよ」
「新しいこと?」
「ふふ、きっとびっくりするわよ、リーザ」
言いたくて仕方がないといった様子でマルグレートが話に加わった。
「王家の庭の、薔薇園があるところを少し奥へ行ったところに、広い敷地があるの、わかるかしら?」
「薔薇園より、奥?」
「ええ。あのあたりで、畑を耕して野菜を栽培したり、鶏舎を造って鶏を育てたりしているのよ、彼は。最初に聞いたときは驚いたけれど、案内して頂いたときはもっと驚いたの。ホラントは知識も豊富だし、時々農家の方を招いて教えて頂いたりしているの」
「まだあるのですよ」
にこにこと話すマルグレートにつづいて、アデルが言った。
「ホラントが海辺の修道院へ料理指導に行っていたことは、リーザも知っていますね。それが修道女の皆さんから好評だとか」
「ええ。みなさん、ホラントが教えに来てくださるのを楽しみにしていました」
最低限の食材で最大限の味を引き出すことのできるホラントの料理は、神に仕える修道女たちの質素倹約の暮らしの中の彩りだった。
習ったレシピを日々の暮らしに活かせるということもさることながら、その日はホラントのお手本料理を食べられるということが何よりの楽しみだった。
普段は慎ましい修道女たちが、その日だけはどこかさわさわと浮き立った空気に満ちるのが、リーザは好きだった。
「それで、その料理を王都のみなさんにも楽しんで頂きたいと、ホラントが計画を立てているのです。王城の厨房は広いですが、さすがに皆さんを招いて料理教室を開くのは、警備上問題があります。かと言って、厨房の料理人たちが各家庭にお邪魔するというのも難しい。そこで、王城の厨房でつくった料理を買って頂けるお店を開けたら、と彼は言っていました」
「レストラン、みたいなものですか?」
リーザは話にだけ聞いたことのある名前を挙げた。
世の中にはおいしい料理を食べることのできるお店があって、人々は時折訪れて料理人のつくった食事を楽しむのだと。
「レストランとは少し違いますね。言うならば、デリカテッセン、でしょうか。おいしい料理をお皿に並べて、その中から好きなものを選んで、持ち帰れるようなお店です」
つまり、『おいしいもの屋さん』といったところだろうか。
リーザはホラントの新しい思いつきというそれを頭に描きながらそう思った。
「デリカテッセンの収益は治療院などの寄付にしようと考えています。まだまだ実現までの道のりは遠いですが、ホラントのつくる料理を我々だけで楽しむのはもったいないですからね。王家がこの国の皆さんのためにできることであれば、できる限りやりたい」
最後の方は兄というよりも国王という顔でアデルは言った。隣で相づちを打っているマルグレートも、凛とした王妃の顔だ。今まで知らなかった二人の為政者夫妻としての表情を、リーザはまぶしく見つめた。
「私にもお手伝いできることがあれば、なんでもします」
リーザの明るい声に、アデルもマルグレートも安堵したように顔を見合わせた。そんなに不安げな顔をしていただろうか、と、リーザは心の中で省みた。
それでも。
手を動かしている二人と違って、リーザの両手の動きは鈍い。
メニューの違い、味付けの違い、選ばれている素材の違い……アデルが言っていたそれらに気づいていないわけではない。
総料理長のホラントのことは、リーザもよく知っていた(王城に仕える人間の中でリーザが唯一知っている人とも言えるだろう)。彼の料理の信条もまた、知らないではない。
しかし、この料理をつくった人間が総料理長ではないことにリーザが気づいたのは、違う理由からだ。
――リーザは、もっと違うことから『それ』がわかる。
また、始まる。
リーザは思った。
喉が熱い。
そこからつながる身体の中がどろりと重い。
始まる。
いつもの発作が、いつものように始まって、いつも違う痛みを与えるのだ。
「……リーザ? どうしたのですか?」
アデルの声が痛みに反射する。
だめ、リーザ。
我慢しなければ。
ここに帰ると決まったときに、自分に誓ったではないの。
お兄さまとお姉さまにご迷惑はおかけしないって。
ぷかぷか、ぱちん。
馬車の中で見た夢が頭をもたげるのを押さえつけながら、リーザは言った。
「いいえ、いいえお兄さま、なんでもありません……」
「いけない、あなた、人を呼びましょう。リーザの顔が真っ白ですわ」
ランプの位置をずらしながらマルグレートがリーザの顔を覗き込む。
そのあいだにも、リーザの中では痛みがどんどんとふくらんでいる。
脳裏にぶら下がった白いテーブルクロスに、ランプの灯りが一斉に向けられる。
目はちゃんと開いていて、目の前のサラダの緑色と、それを覆う不思議な色のドレッシングを見ているが、同時にそれとは違う目が、頭の中のテーブルクロスに映し出される像を見ている。
そこに映し出される痛みが、身体にまとわりつく影のように映る。
いや、身体より痛いのは……
ぐらぐらと揺れ始めた視界の隅で、自分の名を呼ぶアデルとマルグレートの声がゆっくりと消え、リーザは上下の感覚を手放した。