12.とある朝の光景
ラードルフの朝は早い。
騎士団に入ってからは朝五時より遅く鍛錬場に現れたことは一日としてない。
前の晩がどんなに遅くなろうとも、必ずその時間には鍛錬場で槍を握っている。
第一騎士団を預かる団長という立場になってからは特に、他の騎士たちに比べて自身の鍛錬に割くことのできる時間が少ない。
自然と、毎朝が貴重な槍の鍛錬の時間になる。
そんな朝の早い生活は、今も変わらない。
ラードルフは今日も、支度を整えてあくびひとつ漏らすことなく自室を出る。
いつものように。
ただ、行き先が鍛錬場ではなくて、厨房なだけで。
「ったく、お前さんの寝起きの良さはあいつらにも見習わせてえよ。ぼうっとしてちゃあ指切るっつってんだけどな」
「あんたも無駄口きいてると指の二、三本くらいすぐだ」
「指をくれてやる前に、いいことを教えてやるよ、団長殿。とりあえずそのフライパンを火から離せ、焦げる」
「……わかった」
悠々と野菜を刻むホラントの横で、ラードルフは苦い顔を見せて指示に従った。
厨房の朝もまた早い。
さして多くはない人数で、王家を含む王城に詰める人間たちすべての食事をまかなっている。
食事の時間になれば侍女たちがワゴンを準備してやって来るが、それまでは男ばかりが広い厨房中をあちらこちら所狭しと駆け回る。
厨房もまた騎士団と同じく日々忙しいということは、ラードルフもよく知っていた。
かけずり回って仕事をしている様子を通りがかりに見たこともある。
しかし、鍛錬中や任務についているときの騎士団のそれとはまた違う慌ただしさに、ラードルフは新鮮な驚きを覚えていることもまた事実だった。
ラードルフが王女付きの料理人になって一週間。
正直、新鮮な驚きを上回る戸惑いの日々が続いている。
もちろん、その戸惑いは極力隠すようにしてはいるが。
きちんと割れた卵が、フライパンの上でじゅうじゅうと焼かれている。ふちどりに沿って焦げるような匂いがしている。ホラントの言うとおり火からフライパンを離してはいるが、槍を持つより軽いとはいえ、その姿勢は慣れるまでは違和感が続きそうだった。
周りで作業に取りかかっているホラントの弟子たちは、厨房の片隅で大きな身体を揺らして慣れないことに挑戦するラードルフをサポートするように、訊かれたことには答えるし、時折肩を叩いて笑顔で通り過ぎていく。
気のいい連中だ。
ラードルフは第一騎士団長としての人望があったし、総料理長のホラントとも親しかったためか、彼らは思ったよりも好意的に受け入れた。
王女付きの料理人を厨房の人間が務めていないなんて、という風当たりを覚悟していたが、むしろ無理難題を課せられた哀れな団長殿、というように見られているらしい。
「季節の変わり目で体調を崩す人間も多いんだ。そうなると別メニューを考えて作らなきゃならないし、厨房も人手が足りてないんでね。お前さんに助けてもらえるのは、正直ありがたい話なんだ」
ホラントはそう言った。
厨房がそのような細やかな気の回し方でこの王城の人間をまかなっていることも、ラードルフにとっては新しい発見だった。
「テオはどうしてるんだ?」
「坊やは畑のほうにいるよ。野菜番ってところか。鍋の前にいるより、しばらく外の空気を吸って、土でも触って、にわとりと追っかけっこしているほうが気もまぎれるだろうさ」
なんでもないようにそう言うホラントも、内心では心配してそのように対応しているのだろう。
ラードルフはそうか、とだけ言って、目玉焼きを白い皿へと移した。
二つ目玉がこちらをきょろりと向いている。
***
おはようございます、と部屋に入ると、リーザがテーブルの上をきれいに拭き清めていた。
その準備は私か侍女が致します、と申し上げてはみたものの、それくらいは私もお手伝いします、と頑なに辞退されてしまって以来、王女は自分で身の回りの準備を整えている。
「おはようございます、王女殿下。ご気分はいかがですか?」
「ええ、大丈夫よ、ホラント」
リーザはホラントに引かれた椅子に腰掛けながら言った。
今日の朝食はリーザひとりだ。
アデルとマルグレートは朝から来客があるために先に食事を済ませていた。
「それはよかった。今日のご朝食は、ラードルフ特製、目玉がかろうじてつぶれていない目玉焼きと、いびつな円形の焼け焦げパンケーキでございますよ」
「ホラント、聞こえているんだが」
王女殿下をなごませるための冗談にしては意地が悪すぎる。
ホラントをにらむが、相変わらず飄々とした顔つきで笑っている。
ワゴンから皿を移す。
ぱちくりとした目玉焼きと、それに添えた緑の葉物がきりりと白い皿に映えている。
その隣には、パンケーキの皿が置かれる。
健康的な濃い小麦色。
「ちゃんときれいな円形だし、焦げてだっていないじゃない。ホラントは意地悪ね」
そう笑ってリーザが言うと、ホラントは照れたように頭を掻いた。
「いやあ、王女殿下にそう言われると敵いません。それでは、失礼します、王女殿下。ラードルフ、あとはしっかりやれよ」
最後の一言は励ますというよりは押し付けるようなからかいの響きを伴ってラードルフの耳に届いた。
一礼してホラントが去ってしまうと、沈黙が降りる。
和やかなのはいつもここまでで、二人になると空気がどこか気まずく立ち止まる。
「どうぞ、召し上がってください」
「はい……」
ラードルフの合図で、リーザは動き始める。
あの長い祈りの言葉を、早口に呟く。
あの夜出会ったときのようにゆっくりとはしていない。
指を組んで祈り終わると、リーザはナイフとフォークを手に、パンケーキに手を付けた。
普通、アデルやマルグレートに食事の配膳をするときは、セッティングを終えた時点で一旦扉の外へ引いて待機するのだが、リーザの場合はそもそも食べられるかどうかまで見届ける必要があるため、ラードルフはいつも三歩後ろへ下がってリーザの様子を見つめている。
一口大に切り分けたパンケーキを一切れ食べて、リーザは言った。
「おいしいです」
ラードルフはほっと息をつく。
「ありがとうございます」
そのやり取りがあるまでは、ラードルフは気が抜けない。
何かあれば人を呼んでリーザを介抱しなければならないからだ。
ラードルフが王女付きの料理人になって以来、幸いにもそんなことはまだ一度も起きていない。
もちろん、『今のところ』という注釈付きで言えることでしかないが。
リーザも緊張しているのは同じだろう。
一口食べ終えたところで、ナイフとフォークを置いて一息ついて言った。
「ホラントはああ言っていたけれど、本当においしいですよ。焼け焦げてだっていませんし」
「彼は厳しい師匠ですから。騎士団でもああまで厳しくはありません」
「そうなのですか? でも確かに、火の強さとか、フライパンと火の距離は難しいと思います。私も、修道院ではゲオルギーテ先生にずいぶんと教わりましたから……すぐに焦げてしまうんですもの。目玉焼きのふちなんて特に」
気まずい空気を打ち払おうとしているのか、リーザが一生懸命話そうと、ぽつりぽつり言葉を探している。
それを聞きながら、ふと違和感を覚えてラードルフは言った。
「王女さま。私が目玉焼きを焼いているときに、ホラントからフライパンを火から離すように言われたこと、お話ししたでしょうか」
「……焼け焦げパンケーキってホラントが言っていましたし、それにほら、現に目の前の目玉焼きのふちどりが焦げているから……そう言われたのではないかと思ったのです。自分でも経験があるから、余計に」
そう類推したのならばそうなのだろう。
ラードルフはリーザの説明にそれ以上追求することなく引き下がった。
王女は時々不思議なことを言う。
まるで厨房をいつでも盗み見しているのではないかと思うようなことを。
……思えば、最初の出逢いからしてそうだった。
古びた砂糖のこと。
ラードルフが黙ったまま考えていると、その沈黙をどう受け取ったか、リーザが言った。
「ごめんなさい、ラードルフ」
「王女さま?」
「こんなことになってしまって、ごめんなさい。ホラントが言っていました。あなたは、未来の王立騎士団の総団長になる方だ、って。ただでさえお忙しいのに、慣れない厨房のお仕事まで……。私があなたの料理を食べられるって言ってしまったばっかりに」
「だから、謝っていらっしゃるのですか」
ラードルフの言葉に、リーザは頷いた。
感謝と後悔がせめぎあって、今少し、後悔が感謝を覆い始めているのだ。
「私の『貧乏な騎士』を食べたことを、後悔されているのですか」
「あなたに迷惑をかけるくらいならば」
ではいったい、あの出逢いは王女さまにとってどういうものだったのですか。
そうとは訊けないラードルフの内側が波立ち始める。
ラードルフは、任務を果たすときは自分の感情をすべて排除し、完全にコントロールすることに常々心を砕いてきた。
自分を数に入れないで任務を果たすこと。
それなのに、王女の言葉に自分の苛立ちが刺激される。
それが表に出そうになる。
なぜだ。
どうしてそうなるのだ。
「ごめんなさい」
また、謝罪の言葉。
それが、ラードルフをかすかに苛立たせる。
さわさわと胸のふちどりを撫でて、苛立ちがつのっていく。
目玉焼きと同じだ。
ふちどりを焦がす火が、どこかに点いている。
どこにその火が点いているのかはわからない。
苛立ちが向かう先も、その理由も、同じようにわからない。
謝って欲しいわけでもない。
もちろん、謝らせたいわけでもないのに。
「団長――ラードルフ団長ッ」
息せき切った兵士の大声が、突然部屋へと飛び込んで来た。
苛立ちの火を必死に消して、ラードルフは言葉を返した。
「王女殿下の御前だ。騒がしいぞ」
「えっ、あ、あの、すみません、団長……王女殿下がおられるとは思わず……」
「どうした」
「その……」
リーザの姿をちらりと横目で見て、兵士はしどろもどろに口ごもる。
勢い込んで入って来たのはいいが、王女殿下がいては話しづらいことを持って来たらしかった。
「急ぎなのだろう? 早く言え」
「は、はい。あの……裏門に、カリーン村の民を名乗る青年が数人、城内に押し入ろうとしてもめています」
「カリーン村?」
その言葉に反応したのはリーザだった。
ますます言いたくないような顔をして、兵士は渋る口を開いた。
「はい……その、リーザ王女殿下に会わせろと……」
カリーン村、リーザ王女殿下。
ラードルフの頭の中でふたつの言葉が映像を結んだ。
これは……まずいことになった。
「王女さま、騒ぎ立てて申し訳ございません。お食事が済みましたらどうぞ、部屋へお戻りください。ご予定通り、歴史学を勉強されますように。昼食はいつもの時間に準備致します――王女殿下をよろしく頼む。食事が済まれたら、部屋までお連れしてくれ」
「は、はい、了解致しました」
張りつめた口調で一気に言い立てて、兵士にリーザの護衛を頼む。
何か言いたげにラードルフを見つめていたリーザは立ち上がると、その勢いに呑まれるようにそっとくちびるを閉じ、ただ頭を下げた。
リーザを視界の片隅におさめながら、しかしそのうつむいた影を振り切るようにラードルフは駆け出した。




