11.王女付きの料理人
話は昨夜にさかのぼる。
「どうして、俺が……」
苦々しい顔をして例の黒いエプロンの腰紐を後ろで結びながら、ラードルフは思わずぼやいた。
「なんだ、団長殿。別にまだ眠くねえだろ? 子どもじゃあるめえし」
「眠いとか眠たくないとかいうことを問題にしているんじゃない」
わかりきったことを言うホラントを、ラードルフは呆れたようににらみ返す。
当のホラントはラードルフを背にして棚から調理道具を出しているところで、ラードルフの視線を見ることもない。
すっかり灯りの落ちた王城の回廊に、厨房の明るさが漏れていた。
「いったい俺が厨房に立つことのどこが名案なんだ」
「ちょっと考えればわかるだろう? テオどころかおれの皿ですら受け付けない王女殿下だが、お前さんの『貧乏な騎士』は食べられたんだ。このことから導き出される解決策はただひとつ、お前さんが厨房に立つことだ」
「それは……」
「王女殿下がこの二日間で無事に食べられたものは、王女殿下が修道院から持ち帰ったビスケットと、マルグレート様のハーブティー、それからお前さんの作った『貧乏な騎士』、この三つだけだ。ビスケットはもうすべて召し上がってしまったそうだし、毎日毎日ハーブティーだけでしのぐわけにはもちろんいかない……ハーブサラダにしろだのハーブサンドイッチにしろだの、そんな子どもじみた屁理屈はさすがに言わないだろうな? つまり、残る選択肢は、お前さんが何か作って差し上げること、それだけってことだ」
「それだけってこともないだろう……」
そう言ってみたところで他に案があるわけでもない。
ラードルフのもごもごとした反論を聞いているのかいないのか、ホラントは鼻歌まじりに調理器具を整え、材料を調理台に並べている。
その背中に向けてラードルフは言葉を続けた。
「ホラント、前に言っただろう。俺は王女殿下をお守りすることは務めとして立派に果たすつもりだ。だが、料理はまったくの専門外だってあんたも知ってるだろう? 俺のつくれる唯一の料理が『貧乏な騎士』なんだ」
その言葉が終わるのと同時に、ホラントは手元の作業を止め、深いため息まじりに言った。
「頼むぜ、団長殿。おれだって、王女殿下が食べられるような皿を作ってお出しできないのは心底悔しいんだ。料理人としてこんなに悔しいことはねえ。だが、これ以上王女殿下が傷つくのも困るし、おれの元で修行に励む若い奴らが、王女殿下のお身体に触るような皿を作っちまって意気消沈、なんてことになるのもまた困るんだ。第二、第三のテオなんて、お前さんだって見たくないだろ?」
「……そんなに落ち込んでいるのか、テオは」
「本当に村に帰るかもしれねえな。しばらくは様子を見るさ。……ま、そんなこんなの非常事態なんだ。とりあえず王女殿下のお身体が落ち着くように、お前さんの力を貸してくれ、このとおり、頼む」
「ホラント……」
いくら普段から気安く話す仲とはいえ、親子ほども年の離れたホラントがラードルフに頭を下げるというのはただことではない。
しかも、あのホラントが頭を下げているのだ。
普段から飄々と好きなように振る舞っている、この男が。
ラードルフはホラントの真剣な頼みに、これ以上愚痴を言うわけにはいかないような気になった。
自分にできることであればそのように努めるという気持ちに偽りはない。
突然のことで頭の中はあまり整理されていないが、それはともかく。
「もし俺のつくったものを王女殿下が召し上がれなかったらどうするんだ」
「うちの若手をひとりひとり実験台にするしかねえな……いや、この場合は王女殿下が実験台か。それでだめなら王国中にお触れを出すしかないだろ。『王女殿下のご病気を治すことのできる人間、来れ。褒美に王女殿下を娶らせてつかわす』……昔ならこうなっただろうな」
「……もし、召し上がれたら、どうなるんだ」
「そんときは……まあ、そんときだな」
……とりあえず明日の朝、なんとか王女殿下に朝食を召し上がって頂くこと。
それだけを考えよう。
「――俺は俺なりに力を尽くしてみる」
くくりきれない腹を期間限定で取り急ぎくくり、ラードルフは言った。
「ああ、おれもできる限り手を貸すから、心配するな」
そう言って、ホラントは真剣な顔をいつものにやりとした笑みに崩して続けた。
「お前さんの大事な王家のためだ……いや、お前さんの大事な王女殿下のため、と言った方がいいか?」
「どちらでも意味は変わらないだろう」
「そうか?」
「なぜ聞き返す?」
「さあな。さ、準備に取りかかろう。王女殿下はあまりたくさん物を召し上がっておられないから、明日の朝はスープにしよう」
意味深な問いかけを宙ぶらりんにしたまま、ホラントは手順を説明し始めた。
調理台の上に材料と調理器具が置かれている。
ここ何日かで溜まっていたかぼちゃの残りの切れ端を寄せ集め、そして余り物のミルクの瓶を持ってくる。
かぼちゃのポタージュスープにしようと言ったのはホラントだが、それならば新しくカボチャを切って作るのではなくて、余っている切れ端でつくりたいと言い出したのはラードルフだった。
いつも『貧乏な騎士』をつくっているのと同じように、余り物をかき集めて使い切る。
それがラードルフに少しの安心感をもたらす。
何より、料理初心者の自分が厨房に運ばれているまるまるの食材を使えと言われたら、畏れ多くて困ってしまうだろう。
かぼちゃの切れ端が肩を寄せ合うようにして鍋に入る。
少量の水で蒸すように火を入れて、そして潰すのだ。
その過程を、ホラントが手を出さずに指示をしている。
この肩を寄せ合ったかぼちゃを見たら、王女さまはなんと言うだろう?
昨晩の、去り際の王女の言葉を思い出す。
あれからまだ一日しか経っていないというのに、もうずいぶんと遠いことのような気がする。
王女との距離が、遠くなったり、近くなったり、忙しいからだろうか。
また、喜んでいる、と言うだろうか?
そう思うと、鍋の前に立つ自分が、思っているほど不自然でないような……なんとなく、そんな気がした。
***
朝食を食べてから、アデルがいつもの執務にとりかかる前の少しの時間。
リーザとラードルフは王の間で顔を合わせていた。
アデルは王の玉座に、リーザはマルグレートが座っている王妃の椅子の隣に新しくしつらえられた、幾分か小振りの王女の椅子に腰掛けていた。
ラードルフはいつものように騎士らしく左ひざを着いて挨拶をした。
「ラードルフ。昨夜はご苦労様でした。あまり寝ていないのではありませんか?」
「お気遣い、ありがとうございます」
身体を起こしきりりと背筋を伸ばして立ちながら、ラードルフは言った。
王の玉座の二つ隣に腰掛けるリーザの姿を、密かに視界におさめている。
俯きがちに視線を床へと落としているリーザは、身じろぎもしないでアデルとラードルフの会話に耳を傾けているようだった。
「あなたのおかげで、リーザもようやくまともな食事をすることができました。一昨日の夜からほとんど何も食べていないようなものでしたから、安心しましたよ」
「……」
アデルの笑みとは違って、リーザは堅い表情のままそっと頭を下げ、感謝の意を表している……ように、ラードルフには見えた。
「恐れ入ります、陛下」
「ラードルフ、ホラントが最初に言い出したときには、本当にうまくいくのか、正直半信半疑でした。リーザが昨夜あなたの作った『貧乏な騎士』を食べたと聞いていてもなお、信じられなかった。しかし、実際にリーザがあのスープを飲むことができている姿を見た以上、あなたにこれ以上の負担をお願いしなくてはいけません」
そこで言葉を切ると、アデルは立ち上がった。
表情はいつもの穏やかな笑みから君主としてのそれへと変わっている。
「第一騎士団、団長、ラードルフ・ルーベンシュタット。国王の名の下に、あなたに新たな任務を与えます」
ラードルフはその言葉を聞いてすぐに一歩下がり、左ひざをついた。
「今日より、第一王女リーザ付きの料理人の職を、第一騎士団団長と兼務するよう命じます」
期間限定でくくっていた腹を、もう一度くくりなおさなくてはならないようだ。
自分のつくった皿が王女殿下に害を与えなかった以上、取り急ぎこの役目を自分が引き受けることが、ひいては方々のためになるのだろう……それくらいの想像はついた。
時折菓子でも作ってやれ、と言われるのとはわけが違う。
この任務は、王女殿下の日常に寄り添うことそのものなのだ。
日々の食事がどれだけ人をつくるか……王家に仕え、王国を守り、いざとなれば武装して敵と戦うことも辞さない騎士という職に生きるラードルフには、その重さがよくわかっていた。
日常に密着することの難しさも、また。
「……謹んで、国王陛下のために力を尽くすことを誓います」
つまり、もう引き返せない。
まんまとホラントの策に引っかかったと言うべきか。
逃げ切れなかったと言うべきか。
それとも、引っかかったのは、ホラントの策ではなくて……。
「ありがとうございます、ラードルフ」
アデルの声に身体を起こして前を向くと、いつのまにか音もなく立ち上がっていたリーザと、目が合った。
静かで、穏やかで、しかし喜びよりはどこか物悲しげな表情で自分を見つめ返す王女殿下のうちに、ラードルフは疑問の答えを知らず知らずのうちに探していた。