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01.王女の「ただいま」〜プロローグ

 ソーダ水の夢を見た。


 蒼いソーダ水の海の中、息もしないで漂っている。


 ソーダ水が蒼いのか、それとも、どことも知れぬこの場所が蒼いのか。もしくは、靄のかかったこの目が蒼いのか。


 蒼い水底に、蒼い自分の影が映り、蒼い水面には似たような蒼色の光が揺れている。


 ぷかぷかと炭酸の泡が浮いては、ぱちんとはぜる。

 また浮いては、浮いては、ぱちんとはぜる。

 ぱちん、ぱちん。

 繰り返すうち、自分の身体がゆっくりとソーダ水の一部になっていく。ぼんやりとした頭で、それを感じている。


 浮いて、ぱちんと、浮いて、はぜる、ぱちん。


 息をしなければ。


 唐突に思い出すころには、全身が苦しくなっている。


 はぜて、浮いて、浮いて、ぱちん、ぱちん。


 味わいたくもないソーダ水に、すべてをやられている。

 胃を、肺を、内臓を、細胞を。


 はぜる。ぱちん、ぱちん。はぜる。


 いつのまにか、自分ごとはぜようと、はぜようとして――






 ゴトン。


 恐れていたソーダ水のはぜる音ではない衝撃に、リーザははっと目を覚ました。

 夢から断ち切られた頭は、しかしすぐには働かない。

 身体が上下に揺れるのと同じリズムで、馬が地面を蹴る音がする。


「目が覚めましたか? リーザ」


 まろやかな声に身体を向けると、ゲオルギーテがこちらを向いて笑っているのが目に入った。


「もうすぐ、蒼の森を抜けますよ。そろそろ起きた方がよいでしょう。あらあら、髪が乱れてしまって……さ、梳かしましょう、リーザ。みっともない格好をしていては、国王陛下に申し訳ありませんからね」


「……はい、ゲオルギーテ先生」


 そう言って、リーザは大人しく背中を向けた。

 かばんから櫛を取り出したらしいゲオルギーテの手が、背中までのびた髪に触れる。一応整備されているとはいえ、蒼の森を通る街道はあまり道が良くない。馬車がはねるたびに、ゲオルギーテが髪を梳く手も同時にはねた。


 そうだ……私、家に帰るところなんだ……。


 止まっていた頭が動き始める。


 リーザが『家に帰る』のは、彼女の十七年の人生においてこれが三度目だ。そして、彼女が生まれた時はその数には入らない。大陸の西の果てにあるグラール国の王都レーベンは、彼女の正式な家である王城のある場所だが、生まれ故郷ではない。リーザが生まれたのは蒼の森を抜けた先、海辺にある王家ゆかりの修道院だ。


 リーザが最初に家に帰ったのは、母エミーリエ王妃の葬儀のときだった。帰ったと言ってもリーザはまだ二歳で、何も覚えてはいない。二度目は今から三年前の父アントン王の葬儀のとき――リーザは十四歳になる三日前だった。


 父王が亡くなり、ただひとりの兄であるアデルが、かねてからの契りどおり幼馴染のマルグレートと結婚し、王位を継いで三年。

 今となっては王位継承権第一位のグラール国第一王女リーザ・エミーリエ・フォン・レーベンシアが、生まれて十七年、ついに家に帰ることになったいきさつは、こうだ。


 ――家族なんだから一緒に住みましょう。それがいいと思いませんか? マルグレート。


 ――ええ、そのとおりですわ、あなた。


 実年齢よりもはるかに落ち着いた振る舞いと鋭さを見せる青年王と、賢く美しい王妃と国中もっぱら評判の夫妻の一言で決まった、穏やかな『おかえりなさい』だった。


「本当に、陛下夫妻は相変わらず仲がよろしくていらっしゃいますね」


 髪を梳かれながら兄からの手紙を読み返しているリーザに、ゲオルギーテは笑いながら言った。リーザは振り返って答える。


「いいのかしら、私が帰っても」

「もちろんです。なぜそう思うのですか?」


 そう答えるゲオルギーテの目尻の皺がいつのまにか増えていることに気づいて、自分がいかに長く彼女と暮らしてきたか、その月日の長さをふと感じてしまう。


「こういうの、お邪魔虫って言うんじゃないかと思って」

「まあ、そのような知った口を聞いて。誰に教わったのですか? あとでしっかり叱らなければ」


 おどけてみせるゲオルギーテに、リーザもつい笑みをこぼした。

 再び背を向けると、再び髪が梳かれ始める。手にしているアデルからの手紙に、リーザの波打つ栗色の髪先がさらさらと触れる。


 リーザはそのまま、アデルからの手紙に落としていた視線を革の手鞄へと向けた。手紙を取り出したときに開いたままにしていたのだ。


 ――リーザ様へ。どうか王城へ帰られても、お元気で。ときどきは私たちのことを、思い出してくださいね。


 修道院の修道女たちが書いてくれたメッセージカードにリボンが重なって、愛らしいピンク色の包み紙でくるまれたビスケットが、その鞄には入っていた。


 修道女たちは皆リーザより年上で、まるで姉が妹にするように可愛がってくれた。

 そして、彼女たちと日々育てた小麦やオーツ麦、蒼の森などで拾い集めた木の実を酒に漬け込んだものを織り交ぜて焼き上げたビスケットを、旅立つリーザへと贈ってくれたのだ。

 香ばしいと言えば聞こえは良いが、食べ慣れない人間には少し硬く、素朴な木の実の甘みはよほど注意深く味合わなければわからないほどささやかだったが、リーザはことのほかそのビスケットを好んだ。そして何より、王城へ戻る自分を心配して贈り物をしてくれたことが嬉しかった。


 大きな揺れが二度続いたかと思うと、馬車の窓から見える景色がさっと広がった。騎士団の甲冑に身を包んだ騎士たちの先導で、リーザの乗った馬車は蒼の森を抜けたのだ。


 しばらく街道を走ったまではふつうの旅人と変わりない道行きだが、城下の街並みに入る手前で馬車は迂回路を辿る。

 多少道が悪いため、ふつうの旅人や行商人は通らない道だが、国王陛下の妹君がいよいよ王城へ戻られる、という話でもちきりの王都のど真ん中を通るよりは混乱が少ないと判断したためだ。


 王都を囲む背の高い堅牢な城壁から、石造りの塔がのぞいている。王城のいちばん高い塔だ。その屋根の先端に、王家の紋章が描かれた旗がひらひらと風に揺られている。


 見慣れない光景のはずなのにどこか懐かしいような気がするのは、やはりここが自分が住むべき場所だからなのだろうか。


 これからは、王女としての生活が始まる。


 初秋の陽射しを浴びて黄金色に輝く旗をめがけて、馬車は走り続けた。



 ***



 馬車が王城の裏の門から入って裏正面の扉の前に停まったときには、すでに騎士や侍女たちと共にアデルとマルグレートが出迎えに立っていた。


「リーザ!」


 兄のアデルの声が石造りのアーチにろんろんと響いた。

 馬車から降り立ったリーザに駆け寄ったアデルは、リーザの両手を自分の両手で強く握りしめた。


「ご無沙汰しています、お兄さま。無事、帰って参りました」


「堅苦しい挨拶はいいのですよ、リーザ。本当に、よく帰って来てくれました」


「ありがとうございます。……少し、お瘦せになりました?」


「あはは、わかりますか?」


「わかりますよ、あなた。……おかえりなさい、リーザ。リーザからも陛下に一言申し上げてください。この人、相も変わらず書物を集めては読みふけってばかりなのですよ」


「やっぱり。それでお瘦せになったのね。お兄さまったら相変わらずですのね、お姉さま」


「おや、女性二人がかりで。これはこれは、先が思いやられますね。私の分が悪すぎます」


 三人のあいだにさざ波のような笑いが広がり、最初の挨拶はなごやかに過ぎた。やわらかなマルグレートの笑みと、兄の両手のあたたかさに、リーザはそっと頬をゆるめた。


 アデルはリーザの後ろでにこにこと笑みを浮かべて控えるゲオルギーテに向かって言った。


「ゲオルギーテ先生、ご無沙汰しています。それに、遠いところを妹のために、本当にありがとうございます。さあ、積もる話もありますし、どうぞ中へ。お茶にちょうど良い時間ですから」


 生まれたころからよく知っているとはいえ、今となっては国王陛下であるアデルのお茶の誘いに、ゲオルギーテは慎ましく頭を下げた。馬車からは騎士や侍女がリーザの荷物を下ろしにかかっているが、その数は大して多くはない。


「さあ、行きましょう? リーザ」


 マルグレートの言葉に、リーザは少しためらいがちに頷いた。


「私が庭で育てたハーブを使ったハーブティを淹れようかと思うのだけれど……いかが?」


 ためらいの理由を察したマルグレートが、リーザを安心させるように言った。


 お姉さまが育てたハーブならば大丈夫だ、きっと。


 リーザはそっと言った。


「……ええ、ぜひ。それから、修道院で焼いたビスケットも、ご一緒させて頂いてよろしいですか?」

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