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最後の悪夢

作者: 鈴木智一

この作品はフィクションです。

実在するいかなる人物とも関係のない、作り物に過ぎません。

グロ表現、気持ち悪い感じが苦手なかたはご注意ください。

 友達がいないわけではない。


 いじめられてもいないし、話す相手だっている。ただ、自分から率先して関わる、ということがないだけで。


 そんな、普段はおとなしく内気な性格のぼくは、当然のようにスクールカーストの下層へと追いやられ、流されるままの日常の中で、存在感だけが薄れていくような気がしていた。


 放課後は、部活がなければそのまま帰る。中学一年生のぼくにとって、部活動は嫌なものでしかなかった。


 昇降口を出ると、浜村(はまむら)古田(ふるた)、そして木藤(きとう)の三人がなぜか樋目野(ひめの)真奈美(まなみ)ちゃんと一緒にいた。


 浜村と古田は中学になってから、よく話すようになった友達だけど、木藤は小学校からの仲良しで、親友に近い存在だ。そんな木藤がなにも言わず、その二人と下校する姿に、そしてなにより真奈美ちゃんと楽しげに会話している様子に、ぼくの心はざわついた。


 学校一の美少女、というわけじゃないけれど、それでも上位にいるのは間違いない、社交的な性格の真奈美ちゃん。

 そんな子がいつの間に、底辺の男子と仲良くなったのか。それも、ぼくじゃなく、浜村たちと━━楽しそうに笑っていた真奈美ちゃんが、不意に古田の背中に抱きついて、さらに笑顔をみせる。


 狭い世界で、その光景だけに支配された視界の中、ぼくはいよいよ我慢ができなくなる。真奈美ちゃんが古田から、からだを離したタイミングで声をかけていた。


「ふ、古田━━今日は、なにかするの?」


 すると、古田はめんどくさそうな顔になり、フンと鼻をならす。あからさまな態度に、ぼくは萎縮してしまう。


「別に……うちで遊ぶだけだけど」暗く、低い声は排他的で、敵意に満ちている。


 それでもぼくは、言葉をつづけた。


「木藤も行くの?」木藤にではなく、これも古田に尋ねる。


 数秒の間があってから、古田は「そうだけど」と、低いままの声で答えた。なぜかわからないが、とても迷惑がっているのは、もう間違いなかった。


 ぼくが諦めそうになったその時、とつぜん真奈美ちゃんから「鈴木くんも、来たら?」という誘いを受けたので、ぼくは「うん」と頷き、古田に向かって「行ってもいい?」と言っていた。


 一瞬、沈黙した古田であったが「……鈴木も、くる?」と言ってくれる。ぼくはもやもやした気持ちのままだったけれど、もちろん「行く」と返事をした。古田は迷惑そうだったけれど、今日、のけ者にされるわけにはいかない。そんな強い危機感が、ぼくの胸中には重く沈殿していた。


 ただし、浜村と木藤だけが古田の家に遊びに行くということよりも、どうして真奈美ちゃんが行くのかという、ただ、そのことだけが気になっていた。


 *


 古田の家は築数十年の、年季が入った一軒家で、両親と妹と弟の5人家族だ。

 ぼくたちは居間に通されると、ソファやカーペットの上に各々座った。

 二階から、古田の妹と弟の声がする。姿は見えないが、母親もいるはずだ。


 錆びた鉄とカビ臭さをないまぜにしたような、独特のニオイが鼻をつく。まさかそれ(他人の家のにおい)について言及するわけにもいかないので、意識しないよう心がけた。


 古田がテレビ台に収納しているゲーム機を引き出すと、電源を入れる。

 最新のゲーム機の、しかも発売したばかりの格闘ゲームのタイトルがテレビに映し出された。


「すごい! わたし先にやってもいい?」

 真奈美ちゃんが真っ先にコントローラーを手にすると、古田に尋ねた。

 古田が仏頂面で頷くと、真奈美ちゃんは嬉しそうに操作をはじめる。どうやら、これが目当てだったらしい。真奈美ちゃんのゲーム好きは知っていたけれど━━そうか、そうだよな……こういう理由でもなければ、真奈美ちゃんが古田の家にくるなんてこと、あり得ないよな。


 そう思うと、やっと、納得ができた。


 対戦格闘のゲームで、真奈美ちゃんと対戦した古田と浜村は接待プレイがうまく、手加減して負けているのは明らかだった。木藤だけが本気で倒しに行ったけど、真奈美ちゃんのほうが上手で、こちらは純粋に、実力で敗北を喫していた。


 ぼくにも順番が回ってきたけれど、もちろん真奈美ちゃんに勝とうという気にはならなかったので、ゲーム自体は、あまりおもしろいとは感じなかった。それよりもすごく眠くて、みんなの声が遠ざかるのを自覚していた。


 *


 トントントントン……ぐちゃっ……ぐちゃっ……そんな音が耳に届いたことで、ぼくの意識が戻ってきた。


 いつの間に寝ていたのか、カーペットの上に身を起こしたぼくは、一瞬、ここがどこなのかわからなくなっている。


 テレビ画面は真っ暗で、部屋の様子を反射している。出しっぱなしのゲーム機はそのままで、古田も真奈美ちゃんも、部屋の中にはいなくなっていた。


 夕暮れを過ぎた頃合いの、灰暗い部屋の中━━ぼくは、古田の家のリビングで、いつの間にか寝てしまっていたのだ。


 トントントントントン……ぐちゃっ……ぐちゃっ……ずっとつづくその音は、台所から聞こえている。

 古田の母親が、夕食の準備をしているらしい。おいしそうなにおいは、しない。


 生臭いにおいが流れてきた。

 いったい、なんの料理を作っているんだろう。

 そう思いながら立ち上がると、誰もいないと思っていた薄暗い部屋の中に、浜村だけが残っていることに気がつく。

 庭に面したガラス戸の前に立ち尽くして、じぃーっと外を見ていた。


「浜村」と声をかけてみても、返事をしない。まるで人形のように、身動きをしない。呼吸すら止まっているかのごとく、じっとしている。


 不思議に思ったぼくは、浜村がなにを見ているのかが気になって、彼の近くに行ってみた。


 すると、窓の外━━古田の家の庭に、夜の入り口に同化したような、黒いなにかが並んでいる。


 ━━カラスだ。


 無数のカラスが、庭にいる。

 塀の上に並んだり、電柱や電線、あらゆるところにカラスがいて、そのどれもがこちらに視線を向けていた。


 気味が悪いな……そう思ったぼくの考えに呼応したかのように、一羽のカラスがカァァァッと鳴いた。


 大きく(くちばし)を開いて、こちらを威嚇(いかく)するように、大きく、大きく開いて、開いて、どこまでも開いて━━裏返しになりそうなところで、カラスの顔が、からだが紫色の煙となって、霧散する。


 連鎖反応的に、他のカラスも同じように嘴を開き、裏返り、煙となって消えていった。


 わずかな時間の間に、結局、すべてのカラスが消えてしまった。

 いったい、今のはなんだったのか。浜村のほうへ顔を向けるが、彼はそれでも庭を見たままの姿勢で、少しも動こうとはしない。


 ぼくは身動きしない人形のような浜村に「古田たちは、どこ?」と尋ねてみる。


 すると、ようやく振り返った浜村が、震えながら台所を指差した。なぜか斜視になっている眼球が小刻みに振動している。どこか悪いのかもしれない。なにかの発作だろうか。


「台所? ご飯食べているの?」浜村の様子がおかしいとは思いながらも、ぼくはつづけてそう尋ねた。しかし、浜村はそれ以上はなにも言わずに、すっと手を下ろす。眼球は震えたまま、からだも、震えたままだ。


 ぼくは台所を見る。しかし、台所の照明がついていないことは、すでにわかっている。この部屋と一緒で薄暗く、人の気配もまったくしない。トントンという音だけが、断続的に聞こえてくる。


 騒がしかった二階の足音も今はもう聞こえず、まるで家の中から人がいなくなってしまったように感じた。妹と弟は眠ったのだろうか。ずいぶんと早い気はするが。


 ぼくは浜村の指差した、台所の中を覗いてみようと思った。

 時刻はもう夜になる頃なのだろう、どこにも時計がなくてわからなかったけれど、部屋の暗さが教えている。


 なんとなく、特に理由もなく、ぼくはそっと覗き込むようにして、盗み見るようにして台所を覗いた。


 すると、一瞬、水で満たされたように感じた床に違和感を覚えたけれど、暗くてよくは見えない。そうしている間にも、辺りがどんどん暗くなっていき、闇が濃くなっているように感じた。

 意識を取り戻した時の仄暗さは、今はもう、完全な夜の闇へと変貌を遂げている。


 包丁の音が聞こえなくなっていた━━けど、調理台の前に人が立っているのはわかる。きっと、古田の母親に違いない。料理が済んだのだろうか。


 しかし、どうやら古田たちは台所にはいないようだった。テーブルにも、誰もついていない。料理の皿も、ひとつも置かれていなかった。


 そんな中で、調理台の前にいる母親だけが、じっといつまでも、立ち尽くしている。

 窓から入るわずかばかりの明るさで、調理台の様子が、うっすらと見えた。


 誰かが、寝ているようにも見える━━まさか、とは思ったが、どうも、人間にしか見えない。


 ━━調理台の上に、人間が横になっていた。

 母親の左手側に、頭がある。


 髪型から判断して、あれは古田じゃないのかと、ぼくは思った。


 すると━━その顔がぐらりと傾き、こっちを向いた。


 黒い、真っ暗なふたつの穴になった両目から液体を垂れ流し、鼻腔から、口からも流れ出ている…………その口元が━━笑った。


 ぞくりと背筋が粟立(あわだ)つのを感じる。

 同時にその瞬間、ぼくの嗅覚は台所に充満する強烈な鉄臭さをも感じていた。


 調理台に置かれた古田の前に立つ母親が、ゆっくり、ゆっくりとこちらを振り向こうとする。

 暗くてよくは見えないけれど、台所には血が、血が、血血血が、そこいら中に……。


 ぎぎぎいい━━と、音が鳴りそうな速度で、ゆっくりとこちらを振り向く……その頭の形が、どこかおかしい…………。


 輪郭が歪んでいる……潰れて、(ヘコ)んだような横顔が見えた。


「ごべがあああ……ごぼぼっ…………ごぼっ……げええええ」


 ごぽっ、ごぽっと口から液体を漏らしながら、不明瞭な声でなにかを喋る母親。嘔吐物は赤黒く、粘度の高そうな塊に見える。


「おぼえええっ……おごっごぼぼぼっ……びいいい……のぼおおおォォォ」


 歪んで、真ん中に穴の空いた顔が、こっちを向いた。


 ガタタタンッ!


 とつぜん後方で鳴った音に、ぼくのからだがビクリと反応する。

 騒がしい足音と、勢いよく開けられた、玄関の戸の音━━浜村が逃げ出したことを察した瞬間、ぼくもまた、その場から逃げ出していた。


 一歩を踏み出したとき、視界の端っこで床に倒れた足を捉える。

 なんとなく真奈美ちゃんの足に思えたけれど、もちろん、確かめている余裕などはなかった。


 *


 ずっと遠くに、浜村の背中が見えた。

 が、路地を折れて、すぐに見えなくなってしまう。


 靴を履いている余裕などなかったので、ぼくは靴下だけで走っていたが、それは浜村も同じはずだった。

 足の痛みなど感じないくらいに、ぼくは必死になって走っていた。


 古田の家の玄関には、ぼくたち全員の靴が、そのまま残っていたはずだ。一瞬のことだったが、映像をはっきりと記憶している。その中には、真奈美ちゃんの靴も確かにあった……ということは、つまり……さっきの足はやっぱり…………。


 いずれにしても、はっきりと確認したわけじゃない。真奈美ちゃんかもしれないし、真奈美ちゃんではないかもしれない。


 それよりも今は、逃げなくてはならなかった。

 振り返って見ると、すーっと、古田の家の玄関先に現れた影が見えた気がした━━はっきり姿を視認したわけじゃないけれど、きっと、絶対、追ってくる。恐ろしい化け物となった、古田の母親が。ぼくたちを━━ぼくを追いかけ、やってくる。


 そう思ったぼくは全速力で、浜村が消えたほうの道を選んで、追いかけた。それでもぜんぜん追いつかなくて、焦りだけが生まれる。


 走っていると、弱々しい光が明滅する街灯が並んだ先に交番が見えたので、ぼくはそこに駆け込んだ。


 すると、交番の中のデスクの下で、浜村が小さくなって震えていた。

 ━━なんだ、ここに逃げ込んでいたのか。と、追いついたことに安堵するのと同時に、それを上回る不安を感じた。


 デスクの横には存在感のない、無表情な警察官が立っている。ぼくのほうを見ようともしないで、棒立ちのまま窓を見ている。


「あ、あ、あっ、あの、あのぅ……」


 呂律がまわらなくて、うまく喋ることができない。それでもなんとか「おっおっお、お化けがぁ、お化けがくるぅ……きます!」と、それだけはがんばって伝えた。


「どちらから?」


 無表情なその警察官は、窓の外に目をやったまま、こちらも見ずに質問する。


「あっちですぅ、あっちからぁ、きますぅ!」


 警察官が見ていないのだから意味はないはずなのに、ぼくは今きた方向を指で示した。


「そうですか。善処します」抑揚のない声で、警察官はそう答えた。あまり相手にされていないことは明白だったし、それに、腰のホルスターには拳銃がなかったので、なんとなく、ぼくはダメかなと思っていた。


 だから、そっと裏口から出ると、交番からは距離を置く。

 なにかあった時のために、いつでも逃げられるようにと身構えて待った。


 そのなにかは、すぐに現実のものとなる。


 ヒタッ、ヒタッっと、聞こえるはずのない足音が、なぜか聞こえた気がした。

 それが、交番の中に……中に、入ると……しばしの静寂、そして━━「うぎゃあああああえあああああー」と、夜の闇をつんざく断末魔の、おそらく浜村の上げた悲鳴がぼくの鼓膜を震わせた。


 あまりにも恐ろしい出来事に驚愕し、ガチガチと音を立てる歯を意識し、次いで、足の震えを自覚する。生温い股間は意識にのぼらなかった。足が、膝が笑ってしまって、力が入らない。

 そんな状態なので、逃げるべきなのだが、すぐには動けずにいた。


 揺れる視線だけが、交番の裏口に固定される。


 なにか、恐ろしいものがくる。

 そこから、今にも、ほら、あの醜く歪んだ顔を覗かせて……。


 ━━裏口から、さきほどの警官が、ゆっくりと、ゆっくりと、ぎこちない歩き方でその半身を現すと……ガクッガクッガクガクガクッと立ったまま激しく痙攣(けいれん)して━━顎から上が消失した頭部が前後に揺れて鮮血の噴水がほとばしり、そのまま前のめりに倒れると……倒れたまま痙攣をつづけている。


 どぷっどぷっと、大量の血液が止まらない。


 ぼくはそこまで確認すると、ようやく動きだした足で、ひたすら交番から離れるように走り出す。


 なにかが追いかけてきている。


 追ってくるのは、古田の母親なのか?


 わからない。古田の母親に追われる理由もわからないし、古田の母親が化け物になった理由すらわからない。とにかく、死にたくない。そにためには、逃げるしかなかった。


 怯懦(きょうだ)な性質のぼくにとって、それに立ち向かうという選択肢はなかったし、そのための武器もない。とにかく追いつかれないように、足だけは動かしつづける。


 *


 コンクリの壁の奇妙なポスターを横目に見ながら、ひたすら走りつづける。


 橋の向こうに赤いワンピースの女が立っている絵で『タスケテ』と文字の入ったポスター。


 それと同じようなものが、コンクリの壁に、一定の間隔をあけて並んでいた。


 橋の真ん中に赤いワンピースの女が立つポスター『タスケロ』。


 橋の入り口に立った、髪の毛で顔が隠れた……やはり赤いワンピースの女のポスター。書かれている文字は『ヤメテ』。


 髪で隠れた、口元しか見えない女の顔だけがアップで描かれたポスター『ヤメロ』。


 大きく開かれた口の中がああああ━━『シネ』。


 コンクリの壁が途切れて、ぼくはそのまま道路を走った。歩道も車道もなく、真っ黒いコールタールみたいな道だけが伸びている。


 人の姿も見えなければ、車も見当たらない。動物も見ない。なんの気配もない、静かな世界をひた走る。自分の足音と息づかいだけが、闇の世界に響いている。


 振り向けどなにものもなく、しかし、ひたひたと、足音だけが追ってくる。


 ベチャッ、グチャッと、水気を含んだ音すらも耳に届くが、それがなにかはわからない。考えることもできない。


 前方に、道路を塞ぐ横並びの車列が現れた。普通の車ではなく、装甲車のようなものだ。それが何台かで、道路を完全に封鎖している。そこだけ、わずかばかりの照明もあって、幾分かは闇が薄れていた。もしかしたらあの化け物に対処するための部隊ではないのかと、漠然と考えるが、確証はない。期待もできない。


 奥にはなぜか戦車まであって、他にも得体のしれない兵器のようなものが、無数に設置されていた。

 そして、それらの間に武装した兵士が立っている。銃を携えて、全員がこちらを向いていた。


 ぼくを撃つつもりがないのは、すぐにわかった。誰も銃を構えなかったからだ。


 装甲車の前に立つ無表情な兵士に、うしろから追いかけてくる化け物がいることを伝える。


 無表情な兵士は頷くと「善処します」と言った。さっきの警察官とまったく変わらない対応だったが、こちらは武器を持っている。さらに言えば、人数もたくさんいるので、さきほどのような事態にはならないだろう。


 そう楽観しながらも、やはり不安だったぼくは兵士の腰のホルスターから拳銃をそっと抜き取ると、そのままそれを持ち去った。不思議とまったく気づかれることもなく、戦車や兵器をすり抜けて、そのまま封鎖線を越えてしまう。


 海が近いようで、潮のかおりが鼻に届く。前方には灯台があって、道路はそこまでつづいていた。なぜか左右が工場のような壁となっているので、前に進むか、さもなくば今きた道を戻るしかない。


 と、封鎖線の前方から悲鳴が上がり、ついでに盛大な血飛沫(ちしぶき)も上がっているのが見えた。薄闇の中に、それよりも濃い液体が吹き上がる様子が、はっきり見える。

 ギャアアアという声のあとに、黒い噴水が━━ギャアアアア、ブシャアアアア……ギャアアアアア。


 前方から、中頃へ、そして後方へと、それが移っていく。

 その間、銃の発砲音は一切聞こえなかった。

 戦車もまったく動かず、兵器も作動することはない。まるでなんの役にも立たない、意味のない封鎖線がまたたく間に壊滅していく。


 意味のわからない殺戮現場を凝視したまま、じっと立ち止まっていたことに気づいたぼくは、慌てて、再び逃げ出した。


 姿の見えないなにかは、確実に、すぐ目の前にまで迫ってきている。


 行く先には灯台しかないが、左右が壁で塞がれているので、一方通行だった。進むしか選択肢はない。


 道路に敷き詰められた白くてブヨブヨしたものをブチュッ、ブチュッ、と踏み潰しながらも、ひたすらに走る。走る。走る。


 そうしてやっと、真っ暗な灯台の、その根元へとたどり着いた。


 *


 工場の壁が途切れたのはいいが、代わりに今は断崖絶壁となっている。完全なる行き止まり。逃げ場がもう、どこにもなかった。


 どれくらいの高さかは計れないが、はるか下方で黒く輝く水面のようなものは、なんとなくだが認識できる。落ちたらきっと、助からないだろう。なぜか、ビルの屋上ほどの高さがあるのではないかと、そう思った。いずれにしても、ぼくは泳げないから、海に入ることはできないのだが。


 灯台は岬の先端に建っていて、端っこも端っこに、しかも幅が崖と同じだけあったので、うしろに回り込むこともできなかった。それに、正面には入口のようなものもない。


 そんな、ただの飾りのようだった灯台から、突然、光が照射される。なんの前触れもなく、音もなく、いきなり強烈な光線が発生した。


 闇を切り裂き、夜空に真っ直ぐ伸びたその光は、まるで映写機のように、なにもない空にスクリーンをかたち作る。


 いや、まるで━━ではない。


 まさに映写機そのものの役割を、灯台は担っていたのだ。


 夜空いっぱいに広がった(まばゆ)いばかりのスクリーンには、白いベッドと、その上で眠る男の映像が映し出されている。無声映画のようなその映像は、距離感が掴めず、しかしはっきりと確認することができた。


 映像の中の、まばらに無精髭を生やした男の顔は、三十代か四十代に見える。左の頬にある黒子(ほくろ)がかなり特徴的な━━特徴的、な…………あれは…………。


 そうだ。そうだ。そうだった━━今になって思い出した。


 ぼくは中学生なんかじゃない。中学生だったのは数十年も前の話で、今はもういい歳をした大人だ。中年だ。


 スクリーンに映し出されている眠った男。

 まばらに生やした無精髭と成長するにつれてかたちを変えていった面は、子供のころの面影をほとんど残してはいない。ただの薄汚れた中年男性に過ぎない。


 だが、だけれど、それは他の誰でもなく、間違いなく、紛れもない、ぼく自身の姿だった━━。


 その男━━ぼくの枕元の、その上方に、影がさす。


 そして現れた影の正体は━━赤いワンピースのスカートと、そこから伸びる汚れた両足。ポスターの絵の女と、酷似している。


 病的なまでに白い肌が、土で汚されていた。


 その膝が曲がると━━眠っているぼくの顔(・・・・)に長い髪がかかり、一瞬だけ、その顔を捉える。


 原型がわからないほど、ぼこぼこになった顔面は、土やなにやらと、乾いた血液とが付着していた。


 女の顔が、頭が、ぼくのからだに近づいてきて、ついには密着したかと思ったその瞬間━━ずぶりっ……と、ぼくの顔面に女の頭がめり込んでいく。


 ずぶっ、ずぶっとそのまま沈んでいき……首から、手から、肩までもがぼくの頭に入っていって…………終いには全身が、ぼくの内部に入ってしまった。


 そこで、灯台の灯りが消えると同時に、闇夜のスクリーンも消滅した。最悪な映画の上映終了とともに、ぼくの意識は本来のそれを取り戻していた。つまり、大人としての、本当の自分を。


 そして、上映が終了したはずの夜空に、それと入れ替わるようにして━━夜空の真ん中に、巨大な満月ほどもある二つの目玉がギョロリと浮かび、その下方に、赤い唇と、白い歯が覗いた。


 空一面を覆う、あまりにも大きな顔の輪郭に、しかしぼくは見覚えがあった。ついさっき見たばかりの女だ。

 もうすでに、その顔と名前ははっきりしていた。完璧に、思いだしていた。


 そう━━あいつは……あの女はぁ、ぼぉく、がぁ、顔面を、ぐっちゃぐちゃにぶっ潰してぇぇ、人目のつかない山の中に埋葬したぁ、あの女で間違いはなかったぁ。ふふっ……。


 そもそもぉ、殺すつもりで付き合いはじめて数ヶ月ぅ、わけのわからない理屈でぇ、喧嘩になったのを機に殺害してぇ、そのままぁ、山に持っていったのだぁ。ねっねっ念願叶った殺人は意外にもなんの感動も与えてはくれずぅ、ただただぁ……からだぁ、がぁ……疲労ぉしたぁぁ……だけだったぁ、のだぁおぅ……。


 ━━でもぉ、なんでだぁ?


 なんで生きてるんだぁ?


 あの女は確かにぶぅっ殺してぇぇ……山の中にぃ、しっかりとぉぉ、埋めてきたはずなのにぃぃぃ……どうしてぇぇぇ?


 ねぇ、どぉしてぇぇぇ?


 とても不思議に思ったぼくの両腕を、両足を、からだ全体をなにかががんじがらめにする。兵士から奪った拳銃が落下して、ポスンと湿った音を立てた。


「う、うわああああああっ!」


 崖下の、真っ暗な海中から伸びた無数の白い腕が、ぼくのからだに絡み付いていた。何十、何百という数の腕が、細い腕がからだ中に巻きつついていてて、くっ、苦しっ、苦しいぃぃぃ……。


 振りほどこうにも振りほどけずに、少しも身動きがとれない。叫び散らしてみても、ぜんぜんまったくどうにもできなくて、ぎりぎりと締め上げられるだけだった。


 ヒタッ……ヒタッ……びちゃっ……びちゃっ……。


 前方の闇の中から、古田の母親が、否、古田の母親ではない化け物が、ゆっくりと、こちらに向かって歩いてくる。


 記憶の底に沈んでいた、エプロン姿の古田の母親。しかしその両足は汚れていて、顔もぐちゃぐちゃで、その歪んだ面の中央に、ぽっかりと穴があいている。古田の母親に似せた、似て非なるなにか。


 その穴から、あの女の顔が生えてきた。


「ユルサナイーユルサナイーユルサナイー、ゼッタイニユルサナイ」ごぽっ、ごぼぼっ、と、血と泥を吐き出しながら━━ぎちぎちと肉の繊維が増殖するようにして、古田の母親の顔から、あの女の顔が誕生した。


 しかし不完全な肉塊は脆く不安定で、片方の眼球が自らの重さに耐えきれずに落下する。視神経がちぎれて、ぼとりと土の上に転がった。


 ぼくは動けない。


 喚いても暴れても、逃れることができず、顔も固定されているために、視線を逸らすことさえゆるされない。目も閉じれない。白い指で強く押さえつけられていて、眼球が飛びださんばかりに圧迫されている。


 恐ろしい顔が、近づいてくる。


「うっうっうわあああああくるなくるなくるなくるなあっちいけあっちいけあっちけあっちけああああああああああっ!」


 見たくない。でも、見なくちゃいけない。ぼくは見なくちゃいけない?

 いやだ、いやだ、見たくない。見たくない。怖い怖い怖い、怖い怖い怖い━━。


「タスケテタスケテッタスケロタスケロッヤメテヤメテッヤメロヤメロッユルサナイユルサナイユルサナイユルサナイ……シネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネ━━」ぐぱああっっっと、女の顔面が花びらのように開くと、その中には無数の針山のような牙がびっしりと隙間なく生えていて、それがぼくの頭の上からすっぽりと覆イ被サッテェェェ…………。


 ごりっ……と、頭蓋に響く嫌な音。


「いだっ、いだだだだ!」


 ごりっ、ごりりっ……。


 顔中に響く頭蓋骨が響いて音が━━。


「いでっ、いでででああああああああああああっ!」


 ごりごり……べきっ、べききっ…………。


「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」


 ばきっ、ばきっ、ぐちゃっ、ごりごりっ、ごきいぃぃっ、べきっ、べききっ…………。


「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」


 ごりっごりごりっごり…………ぐちゃっ、ぐっちゃっ…………べきっ、ぼきっ、べききっ……くっちゃっ、くっちゃっ、ぐちゃ……………………………………………………………………………………。

こうしてぼくは、悪夢の中で殺されました……。

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