第七章『見習いハンターフェレス』
一切が赤く燃えていた。空も、大地も、海も、何もかもが赤々と燃えていた。窪んだ大きな溝の中に黒々と燻る折れ曲がった細い棒きれのような物が無数に絡み合っていた。その内の一つが天高く伸びている。先端が扇状に広がり、細かく分かれている。ああ、祈るように、救いを求めるように……
自分は、自分は……『俺』は――立ちすくみ腕を振るわせ声の限り――絶叫する――
「ユースケッ!!」
彼は目覚めた。目の前には赤銅色の肌の少女が張り詰めた表情で彼を見つめている。周りは見慣れた機器が並ぶ雑多な空間。そう、彼女の家の整備室だった。勇助はいつの間にか立方体に戻っている。どうやら二人は無事に生還したらしい。
「ユースケか?ユースケだな? ボクが分かるなら返事をしてくれ…!」
「フルミノ……無事だったか……怪我は、ねえか……?」
フルミノは顔を緩ませた。唇を震わせながら緊張を解いた顔は、ほんの一瞬泣き出しそうにも見えた。
「本当にオマエは…毎回必ず、ボクのことを聞くんだな…」
「…? どうした……」
「何でも無い、心配するな。今度こそ…!」
彼女はきゅっと口を真一文字に結び、脇のコンソールに向かいながら彼の診察を進める。勇助は立方体の中でぼうっと彼女の作業を眺めていた。
「ユースケ、自己紹介して見ろ。名前、年齢、出身地。内容は何でもいいから」
「あ?ああ。あー…鈴木勇助。十七歳。地球の日本生まれ。家族は………か、家族は?……おい、おい止めろよ。何の冗談だよフルミノ…何だ、何で」
勇助は声を震わせる。作業台モニターに表示された彼の脳波が大きく乱れた。「ユースケ、落ち着けッ」
「何だよこれッ! 何で、何で『顔も名前も思い出せない』んだよッ!!! おい、おい……ッ……俺は……俺は……どうしちまったってんだよォッ!!!」
割れんばかりの音声で彼は絶叫した。
彼は断片的に記憶を失っていたのである。
フルミノはコンソールに鋭く指を滑らせた。勇助の頭脳に微弱な電流が流れ、セロトニンが分泌させられる。勇助は半強制的に沈静状態に陥った。まだ繰り返しぶつぶつと呟いていたが、少なくとも恐慌状態からは脱却している。
フルミノは勇助の箱を両手で掴み、レンズに顔を近づけた。
「ユースケ、よく聞け。オマエは戦闘の影響で一時的に記憶が混乱しているだけだ。必ずボクが元通りに直してやる。絶対に大丈夫だから、心配するな」
「フルミノ……俺は……直るのか……?」
「このボクを誰だと思ってる。銀河帝国一のサイバネティクスの天才、フルミノ・ウィクトーだぞ!オマエにはまだまだ、ボクの剣闘士として戦ってもらわないといけないんだからな。ボクの夢のためにも、オマエの体と地球行きのチケットのためにも、当分引退なんかさせやしないぞ。覚悟しろ!」
フルミノは不敵な笑みで力強く断言する。勇助はその笑顔と言葉、そしてセロトニンの効果も手伝って漸く幾分心持ちが穏やかになった。だが、彼がもし普段通りであれば気付いたかも知れない。彼女の膝は机の下で微かに震えていた。記憶障害の明確な原因は彼女にも分からない。だが彼女には予感めいた確信があった。彼の脳内のデータボックス、そしてサイボーグコンバットの多用に起因している、と。
フルミノは勇助に重々しい口調で告げた。
「ボクは必ずオマエを直す。だがそれとは別にしても今後一切『アレ』は使用禁止だ。もう何度も繰り返し言った気がするけど、訓練でボクが指導した技術以外は絶対に使うな」
勇助は小さく「オーライ、ボス」と答えたきりだった。
その後もフルミノの献身的な治療と調整は続いた。しかしユースケの失われた記憶は遅々として戻らなかった。
だが更に一週間後にはユースケのたっての希望で剣闘士としての訓練が再開された。フルミノは良い顔をしなかったが、勇助の気が紛れるのなら、と渋々許可を出した。彼女の心配をよそに勇助は猛然と訓練をこなし、復帰戦でも華々しい勝利を収めた。そしてそれからも勇助は危なげなく勝ち星を重ていったのである。二人にとっての何よりの僥倖はカンデラ婦人による横槍が無かったことだった。数少ない誘いはどれも非公式の地下試合だが、子供達を相手にしたときのような胸の悪くなる試合では無かった。対戦相手は皆、裏試合での流儀を心得た一流のヒール達だった。
勇助は順調にクレジットを稼ぎながら試合ごとに与えられる休暇の全てを子供達の見舞いとフェレスの捜索に当てていた。フルミノとトパズスも必ずそれに付き合った。だが決してヴァリ生化学は尻尾を出さなかった。トパズスは別れ際に必ず「お前のせいじゃねえよ、兄弟」そう口にして勇助の肩を叩いた。日ごとに焦燥が募る中、彼の戦績だけは順調そのものだった。勇助はとうとうチャンピオンマッチの挑戦権を手にしたのである。
勇助はフルミノの自室で共に小さなモニターを眺めていた。流れているのは試合のハイライト集だ。画面の中では勇助が流れるような動きで屈強な男達を叩きのめしている。
整備を終えた後は二人で放送される試合映像を元に反省会をするのが日課になっていた。
「今日の試合はちょい地味だったか」
「オマエの暴れっぷりが良かったからお客の反応は悪くないよ。ただ、相手が殆どごろつき集団だったからね。オマエに相応しいカードではなかったかな」
彼女はコップに満たされた淡い桃色の液体を煽った。栄養ドリンクを水で割った物だ。
「そろそろチャンピオンと試合を組めそうなんだろ?」
「うん、後はタイミング次第だ。ただ、近々チャンピオンが大きな試合をするらしくって、少し待つことになるかも……でも」
「どうした」
フルミノは俯き、躊躇うように手元とユースケの間で視線を揺らしていた。やがて呟くように言葉を漏らす。
「オマエは平気なのか? オマエの記憶は……あれから殆ど戻ってない」
「体を動かした方が気が休まる。それに金を稼がなきゃ困るのは俺もお前も同じだろ」
そこで試合映像が終わった。番組の司会の挨拶を区切りにCMに入る。フルミノは映像を切ろうとコンソールに指を伸ばし、そのままぴたりと止まった。
画面では爆発や閃光のケバケバしいエフェクトと共に次の試合の宣伝が映し出される。青い肌の美丈夫、この惑星の闘技場のチャンピオンである『嵐のグロウライ』の勇ましいバストアップが映り、続いて向かい合うようにして巨大な怪物の姿が映し出された。真っ赤な岩石のような様なごつごつとした皮膚、鎧甲のような尖った顔立ちと大きな青い目、山のような体躯を支える太い四つ足と拗くれた爪、羽こそ無いが童話の挿絵に登場するドラゴンのようなモンスターだった。対比に並んで映し出される闘技場を見る限り全長三十メートルはありそうだ。
『遂にこの時がやってきた!!相手は溶岩の海を泳ぐ通称『星喰い』マントルドレイク!果たしてチャンピオンは現代に語られる竜殺しの英雄となるか!それともこの偉大なる叙事詩に凄烈なる終止符を打つのか!舞台は我らがルブルムの衛星サンギィッス特別闘技場!新たな英雄が生まれ、新たな伝説が刻まれる!その瞬間を刮目せよ!乞うご期待!』
「うわぁい何てこった、言った側から……そりゃ、ボクの営業トークも突っぱねられるはずだよ……」
フルミノは呆然と呟いていた。だがこれはまだ二人にとって前座に過ぎなかった。
映像は続く。『別会場にて特別エキシビジョンマッチ!』と大きく煽りが入り、向かい合うような男女の集団が現れた。左右に並ぶ集団の内、右手の男達は明らかに堅気でない荒くれ達だ。そして左手が顔立ちの整った異星人女性達であり――その中にフェレスの顔があったのだ。
硬直する二人の前で映像はCMは終わり、苦しみもがくナメクジのようなロゴが現れる。
『帝国臣民の健康を守るヴァリ生化学の提供でお送り致します』
それを聞いてフルミノと勇助の脳は瞬時に再起動した。
「ゴミ虫野郎のバイオ屋どもめッ!くたばりやがれッ!!」
「フルミノッ!今すぐこの試合を止めさせろ!!」
「バカかオマエは!そうだ、バカだったな!!番宣までされた試合が軽々に取りやめられるわけ無いだろッ!第一オマエはチャンピオンマッチを控えた身だぞ!」
「うるせえッ知ったことかッ 止めさせなきゃ直接殴り込むぞ!」
「馬鹿!間抜け!野蛮人! ちょっと待ってろ!!」
フルミノは端末を取り出して何処かへ連絡を取る。時折大声でマイク越しの相手を怒鳴りつけながら交渉を始めた。勇助はその様子をじっと見守る。彼とて金を稼ぎ、地球へ帰るという目的を忘れたわけでは無い。だが、目の前の友人を手も尽くさぬうちに見捨てることは出来なかった。十分ほどの交渉を終えた後、フルミノと勇助は作戦会議を始めた。
二人はいつもの試合場所、コロッセオ・タイト・ペリ・カエデの整備場へ向かっていた。勇助は静かに、だが力強く通路を進む。並んで歩くフルミノが九九を諳んじるような迷い無い口調で告げた。
「繰り返すぞ。本来は二チームの集団戦。当然、まともな勝負じゃない。元々は明らかに『陵辱ショー』だ。だがこれにオマエが三つ目の勢力として出場したことで事情が変わった。必然、オマエは全員にとって敵だ。しかもオマエ以外は特例として全員重火器で武装している。オマエは地下闘技場でやったように全員を…フェレスさんを含めて、戦闘不能にしなければならない。注意事項は何だ?」
「観客を楽しませる。サイボーグコンバットは使わない。それから一切傷を負わない」
「そう、一つ目は当然だな。二つ目も絶対だ。前回のように何らかの薬物が使用されている可能性はあるが、オマエの装甲に放電機能の細工を施してある。何度も隠せる物じゃ無いが、いざという時にサイボーグコンバットを使うよりマシだ。そして三つ目。方々に無茶を言ってこの試合を組んだが、オマエはチャンピオンに挑む資格と相応しい戦績が既にあるんだ。こんなところでキャリアに傷を付けるなよ」
勇助は歩きながら深く頷く。無理を押し通してくれたフルミノに不満など無かった。できる限りの対策もしてきたはずだ。だが彼は何故か、言いしれぬ不安をぬぐい去ることが出来なかった。整備室ではいつものようにトパズスが彼等を迎え入れた。勇助は彼から簡単な検査を受ける。
「なあ兄弟、頼むぜ。難しいかも知れねえが、フェレスを生かしたまま舞台を下りさせてやってくれ。どうせ兄弟もそのつもりだろ?」
「ああ。試合後はフルミノが何とかしてくれる手筈だ。傍目よりずっとあいつは優しいからな。なあ?」
フルミノはフンと鼻を鳴らし、仏頂面でそっぽを向いた。心なしか頬が赤い。トパズスはガハハと笑った後、フルミノに聞こえないようにそっと彼に耳打ちした。
「アンタのボスから小遣いをもらったからってんじゃねえけど、装甲の下の仕掛けは見逃しとくぜ」
「済まねえな」
「良いってことよ。それとな、帰りはいつもと反対のゲート使ってくれ。急な飛び込みだったから段取りできてねえんだよ」
「分かった」
「そしてなんと闘技場の若きエースが飛び入りで登場です!!稲妻の如き瞬足と破壊槌の如き豪腕は、今日も死神の如く対戦者の意識を刈り取るのか!それともまさかの対戦者達の大金星なるか!黒金の電光石火!サイボォォオオグ!ユゥゥウウスケェェエエ!!!」
実況者があらん限りの声で叫ぶ。勇助は驚きの歓声と共に試合場内に迎えられた。既に会場内はこれから始まるショーに対する期待に満ち溢れている。その中には少なからず獣欲の興奮があったが、当然勇助にはそれに応えるつもりなど無かった。
既に試合場内には勇助以外の参加者が勢揃いしており、恐怖と敵意に満ちた目で勇助を睨んでいた。ただ一人、驚愕で目を丸く見開くフェレスを除いては。
試合が始まった。
ゴングが鳴った直後、重火器で武装した二つの集団は真っ先に勇助を狙った。呉越同舟というわけだ。ロケットランチャーとレーザー砲の段幕が一斉に降り注ぎ、巨大な火柱を上げた。ただし一発のロケット弾だけは明後日の方向へ飛んでいき、壁に命中する。
無論、既に歴戦の勇助は『必定』の攻撃を甘んじて浴びるほど愚鈍では無い。ゴングと同時に既にその場から移動しており、爆炎の中から飛び出した。煙をたなびく黒金のサイボーグが男達の集団目掛けて突進する。勇助は集団の後ろに大きく回り込む。男達は陣形を変えるどころか、その銃口さえ彼の瞬足に追いつけない。彼は最後尾で指示を取っていたらしき赤毛のルプス人の側頭部に回し蹴りを浴びせた。男はそのまま横倒しに地面に叩き付けられ、昏倒する。勇助はバレエダンサーのように優美に一回転して姿勢を整えた。男達は泡を食って銃口の狙いを付け直したが、彼等の人差し指が絞られるよりも素早くサイボーグは身を翻す。自然と女性チームに対して荒くれチームを盾にする立ち回りになったが女性チームは荒くれ諸共勇助を吹き飛ばそうとはしなかった。どうやら彼を仕留めるまでは共闘するつもりらしい。
勇助は二チームから距離を取って踊るように攻撃を躱す。既に彼の強さは知れ渡っているため下手な演技は不要だが、殺さずに試合を終わらせるには流血の興奮に代わる物が必要だ。彼は試合場中心に移動し、つま先でグルリと床に円を描いて見せた。直径一メートル程の円の中心で二チームに対し『掛かってこい』といわんばかりに天を仰いで両腕を広げて見せる。慢心と油断による好機とみた二チームは再び一斉射撃を試みた。
瞬間、勇助を中心に火柱が『四方に裂けて』立ち上った。観客は総立ちになってどよめきを上げる。試合場の大型モニターが勇助の神業を克明に映し出していた。
勇助は円の中から一歩も動かずに銃弾を躱し、レーザー光を磨き上げた装甲板の拳で反射し、着弾寸前のロケットを易々と受け止めて爆破半径の外まで投げ捨てていた。無数に飛来する弾丸は拳手の甲を除いて彼に触れることすら出来ない。爆風と炎の中心で勇助のいる中心だけが台風の目のように穏やかだ。嵐の中心で踊るサイボーグは磨き上げられた一振りの日本刀のように鋭く、精密で、美しかった。
そして遂に嵐が尽きる。爆撃後のような抉れ飛んだ試合場の床の中でぽっかりと丸く無傷の部分が残っている。その中心で美しい漆黒の装甲に曇り一つ残していないサイボーグが恭しく観客席へ会釈して見せた。
観客席で『ブラヴォー!』の津波が起こる。勇助は一度腕を上げてそれに応えた後、再び構えを取り直した。そしてちらりと荒くれチームを見やる。勇助が蹴り倒した男はぴくりとも動いていない。薬は使用されていないと見て良いだろう。挑戦者達は歯軋りしながら弾丸の尽きた重火器を放り捨てた。直ぐさま床のハッチが開き、せり出す台座から火器が補充される。だが二の舞になるのは誰の目にも明らかだった。勇助も同じショーを繰り返すつもりは無い。彼は幕引きに動いた。
荒くれチームに向かって真っ正面から飛び込んでいく。彼は素早く床をジグザグに蹴りながら照準を絞らせない。弾幕を張ろう物なら空間ごとそれを躱す。そしていつかのように鋭い手刀を繰り出し、忽ち荒くれチームを全滅させた。
彼は男達を見下ろしながら、必要以上に暴れようとする人工筋肉と体内エネルギー炉をなだめた。今のところショーは順調、荒くれ達が起き上がる気配も無い。フェレスも無事。彼女を傷つけるつもりが無いと感じ取ったフェレスが安堵と懇願の視線を彼に送るのも見た。後はそのフェレスを含む女性チームを気絶させるだけだ。
だと言うのに彼の不安は収まるどころか膨らんでいた。膝の内側を何かが這い回るような悪寒が彼を襲う。勇助は恐れを振り払う様に女性チームに向き直った。
だがそこで、彼は不安の正体を見た。見てしまったのだ。
フェレスが苦しげに胸を押さえて蹲っている。他の女性チームには仲間を省みる余裕も無い。フェレスは痙攣しながら面を上げ、勇助に向かって助けを求めるように手を伸ばす。彼が応えようと構えを解いて手を伸ばそうとした瞬間、彼女の体が風船のように膨らんだ。
「あらそう。随分時間が掛かったのね。それじゃ『彼』に段取りを進めるよう伝えておいて。え?良いわよ、どうなっても。今回のは臨床データが主目的じゃないもの。そうそう。あの子に精神的なストレスを与える方が大事よ。強い反応が出るみたいだしね」
観客席にどよめきが走った。
目の前で何が起こっているのか分からない。膨らんだフェレスの体は服を破り、それでもまだ膨らみ、伸びきれぬ皮膚を引きちぎって赤い筋繊維が覗く。逃げようとした女性チームの面々は膨らんだ肉塊に飲み込まれ、小枝を折るような音を立てて血も凍る断末魔とともに肉の山に埋もれていった。
勇助には『それ』が何なのか分からなかった。際限なく成長するがん細胞の塊のように、肉塊の表面には無秩序に目や、耳や、突き出た指や、骨が散見していた。四つん這いになった『それ』は体長十メートル程まで膨らんだ。
かろうじて形を残した口が開く。穴から漏れ出すこの世のものと思えぬ呻き声の中に、僅かにあった『彼女の』声だけが、勇助の耳に入った
「…ゆ……ちゃ……」
サイボーグの絶叫が轟いた。
生まれる寸前の胎児のように頭部が大きくアンバランスな体型の肉塊がゆっくりと這いずりながら彼に近付く。その体はまだ膨張していた。
突如、けたたましい声が勇助の脳内に響く。
「ユースケッ!? 聞こえるか、ユースケ!! いったん距離を取れッ!!」
勇助は強く拳を固めて跳びすさる。だが肉塊の怪物は徐々にスピードを上げて突進に近い速度で迫ってきた。格上が逃げ回るわけには行かない。フルミノは唇を噛んで指示を出そうと決意する。だが彼女が口を開く前に勇助は怪物の懐に飛び込み、巨大な胴を持ち上げて投げ飛ばす。壁に激突した怪物はひしゃげて赤黒い体液を当たりに撒き散らした。しかしへこんだ部分もみるみる内に盛り上がっていく。
再び緊急通信回線を通じてフルミノの声が聞こえた。
「ユースケ!これは事故だ!オマエにはもう戦う必要は無い!」
事故。それは傍目にも明らかだった。体液を浴びせかけられた観客は泡を吹き、膨張し続ける怪物を前にした観客達は我先にと非常口目指して駆け出している。残るのは命知らずの闘技会マニアと仕事に命をかけた実況者とカメラマン、そして勇助達だけだ。
「今、没収試合の手続きを取ってる!それまで離れてろ!」
勇助は今一度吹き出しそうな叫びを必死でこらえる。絞り出すような声で彼は応答した。
「それで……?……それで、フェレスはどうなる……?」
返事は帰ってこない。勇助は再び向かってくる怪物と退治した。
「フェレスは……あいつは助かるのか?……どうなんだ。答えろ、フルミノ……!」
勇助は悲鳴を雄叫びに変えて拳を振るう。柔らかい肉がつぶれ、体液が滲む感触が彼の心まで伝わってくる。おぞましい怪物の悲鳴の中には明らかに知った声が混ざっており、勇助の頭脳を揺さぶった。
返事はすぐに帰ってこない。だが何かをこらえるような荒い吐息と嗚咽が聞こえた後で、ゆっくりと間隔を置いて彼女の声が聞こえた。
「オマエは……知らなくて良いよ。知る必要なんて…無い、さ」
フルミノの声もまた震えていた。
怪物は起き上がり、口からどす黒い液体を零しながら再びにじり寄ろうとする。
「頼む、答えてくれフルミノ……お前なら、何か手があるんじゃ無いか? 俺が会った中で一番頭が良いお前なら、何か……何か、フェレスを助ける方法をよぉ……頼む……!」
怪物と勇助は真正面から取っ組み合う。勇助の剛体はびくともしないが、吐きかけられる腐臭と掠れるような声が勇助の魂をなぶった。
「こ…………し…て…………ころ……て……ゆ………ちゃ……」
「答えろォッッッッ!!!!フルミノォッッ!!!」
怪物を再び投げ飛ばすと同時に彼は怒号を上げる。遂にフルミノは血を吐くような声で叫んだ。
「無理だッ! 既に体組織は完全に崩壊している! 治療でどうこうできる段階はとっくに過ぎてる!無理だ……もう、無理なんだユースケ。崩壊は間違いなく脳まで及んでる。お前のようにサイボーグ化することさえ、不可能だ……」
終わり間際の彼女の声は苦悩に満ちていた。何もかもが真っ黒な墨で塗りつぶされていくような絶望の最中で、勇助は己の為すべきを覚悟した。
「……そうか」
短い応答を区切りに、勇助は怪物と組み合ったまま出力を最大限まで上げる。ただその力は怪物を打ち倒すには余りにも過剰だった。
「待てユースケ!何するつもりだ」
「言い辛いこと聞いて悪かった、だが感謝するぜ……フルミノ」
サイボーグを肉塊の檻で押し殺そうとするように、おぞましい怪物はまだ膨張を続けていた。だがサイボーグを包む肉塊の隙間から青白い灯りが漏れ出す。
「止めるんだユースケ!オマエが背負う必要なんか無い!!後一分足らずで闘技場の鎮圧部隊が到着する!そいつらに任せろ!!」
「任せてどうなる?どの道フェレスは助からない。それに俺には責任がある」
「何の責任だって言うんだ!?そんなものあるわけ無い!!」
「いいや、ある。フェレスは俺の友達だ。俺はフェレスの力になるって約束した。だが……だがよぉッ!俺は、俺はッ……こいつを助けられなかったんだ!……俺はケジメを取らなきゃならねえ……!!」
尚も悲痛なフルミノの叫びが脳内に響いていたが、もはや彼は答えなかった。不快なほど柔らかく熱い肉塊の帳の中でサイボーグはありったけの力を拳に込める。響く鼓動から、勇助は心臓の位置を正確に捉えていた。
黒金の全身に青白い電光が迸り、彼を締め殺さんとする赤黒い肉塊の壁を照らす。歩幅を広げ、腰を落とし、前方を遮るように左手を突き出し、右脇を締め、その下に引いた拳を構える。その拳は今にも放たれんとするICBMのように巨大な破壊力と決意が込められていた。
そして腰を回転させた一瞬、正に瞬きにも満たないその刹那、勇助は彼女の声を聞いた。
―――ユーちゃん―――ごめんっす―――
「ぅぅううぉおおわぁあああああああああ!!!!!!!!!!!」
雷撃の閃光を纏った音速の正拳突きが放たれる。繰り出された鉄拳は怪物の心臓を真っ直ぐに貫いた。数瞬遅れて怪物の全身に衝撃波が広がる。更に一際怪物の体が大きく膨れたと思ったその時、怪物は針で突かれた風船のように弾け飛ぶ。怪物は赤黒い体液と肉塊を闘技場中に四散させながら細切れとなった。
赤い雨が降る闘技場の中心で、血塗れのサイボーグが拳を突き出した姿勢のまま固まっていた。黒金の全身に纏わり付くように赤い斑が這っている。勇助は真っ赤な視界の中でも更に際立って赤い拳をじっと見つめていた。
「もういい……オマエは、よくやった……もう、休もうユースケ……ボクも、控え室で待ってるから……」
フルミノの声も、周りで響く闘技場関係者達の叫びも、何もかもが分厚い膜越しに聞こえるようだった。
―――俺は―――人殺しだ―――
勇助は赤く染まった体のまま、いつもと反対のゲートから試合場を出た。薄暗い廊下をふらつきながら一歩一歩進む。ただただ疲れていた。通路を曲がると奥に白い灯りが見えた。今はただフルミノが言ったように休みたい。その一心で足を踏み出したその時だった。
首筋に何かの衝撃が走った。全身が麻痺したように力を失い、サイボーグはその場で崩れ落ちる。急速に暗転する視界の端に誰かの足が映っていた。
「悪いな……兄弟」
闇の中に浮かぶ黄色い瞳がサイボーグを見つめていた。