第一章『興業手配師 フルミノ・ウィクトー』
――暗闇があった。長く深い闇が続いた後、幾度かの明滅が繰り返された。しばらく明滅が続いた後、一切が白く飛んだ。そして再び暗転した。――
――長い、長い、暗黒があった。――
第一章『興業手配師 フルミノ・ウィクトー』
鈴木勇助は暗闇の中で意識を取り戻した。酷く頭が痛む。こめかみの内側から金槌で殴りつけられているような、蹲りたくなるほどの痛みだった。にも拘らず彼はどうやらしっかりと二本の脚で立っているらしい。意識が確かになるにつれて周りの様子に注意が向き始めた。辺りの暗闇には白い格子状の線が走っている。格子模様の壁と床は彼の弟が遊んでいた3Dダンジョンゲームの様だ。
何だって俺はこんなところにいる?
異様な場所で困惑は強まるばかりだった。だが次の瞬間、彼は更なる異常に気付く。
「はぁッ!? ンだこれ!!」
目覚めた勇助は一体のサイボーグへと変貌していた。全身を覆う黒金の装甲、胸の内から響く原動機の鼓動、つむじから爪先まで絶えず駆け巡る電気信号。だが己の変貌にそれ以上の異を発する間など無かった。目の前に身の丈三メートルはあろうかという、氷の彫像のような結晶質の巨人が立っていたのだ。
巨人はゆっくりと足を上げた。眼前に勇助を踏み潰そうとする巨人の足が広がる。彼は間一髪、その場から横っ飛びに転がり出た。直後、巨人が床を踏みしめた地鳴りと衝撃が伝わり、ビリビリと体が震える。いつの間にか機械の身体になったせいか、思うように動けない。全身が重く硬いばかりでなく、間接に糸が掛けられた様に突っ張る感じがする。しかも時折強く引っぱられるようで、そのたびに転びそうになった。
巨人は緩慢な動作で彼を叩き潰そうと拳を振り上げた。勇助は脚にあらん限りの力を込めてその場を離れようとする。だが突如として例の何かが足首を掴むように引張り、彼は派手に転んだ。
『何だこれ、洗浄に失敗してるじゃないか! 妙なものがくっついてると思ったら……あのデブリ屋め、欠陥品掴ませやがったなッ!!』
「うおっ!?」
顔面を床に叩きつけると同時に彼の脳内で誰かが叫んだ。キンキンと高い声が錐のように彼の脳内を突きまわす。
『逃げるなッ!! ちゃんと戦えこの、ポンコツがッ!!!!!』
即座に勇助の脳内を万力で締め上げるような痛みが襲った。加えて例の見えない糸が彼の身体を引張上げ、巨人に立ち向かわせようとするのが分かった。だが激痛に堪えかねた彼は全くそれどころではない。頭を抱えて床を転げまわる始末だった。正に七転八倒の醜態を曝した挙句、仰向けになって上を見た時にはもう遅かった。
視界は巨人の足の裏で一杯になっていた。
モニタには衝撃音と同時に圧殺されたサイボーグが映っていた。計器が置かれた机に蛍火の髪をした少女が突っ伏している。彼女は頭を掻き毟りながら天を仰いで叫んだ。
「んんんんあああああ!!! もうっ……サイッッアクだぁッ!!!」
勇助は坂上のドラッグストアへ自転車を漕いでいる最中だった。夕食後に弟達が食べるアイスが無かったからだ。夜勤から帰った父が寝る前に一箱丸ごと食べてしまったらしい。がっかりする弟達を慰め、ついでに切らしていた醤油とサラダ油も合わせてアイスを買いに出た。金曜ロードショーに間に合うよう、彼は近道をしようと公園を横切った。
そこで彼は、真夏の夜空に浮かぶ光る円盤を見た、見てしまった。
円盤から緑色の光線を浴びせかけられ、彼は自転車に跨ったまま意識を失った。
視界に強い光を感じ、再び勇助は意識を取り戻した。どうも彼は夢を見ていたらしい。
そうだ。あの公園で俺は……俺は今どこでどうなってる?
思考が急速に鮮明になっていく。彼は不気味な機械が所狭しと居並ぶ部屋の中に居た。全てが夢であって欲しかったが、彼の体は冷たい金属のままだった。だが鋼の体や部屋の奇天烈さよりも驚いたのは目の前の女だ。ひと目で頭に掛かってた最後の霞が完全に吹き飛ぶぐらいの美人だった。年かさは高一か高二か、ともかく彼と同じぐらい。華奢な体つき、切れ長の鋭い目じり、通った鼻先と細い顎、そして薄い唇。全体に鋭利な印象の女だ。
だが普通ではない点も幾つか。野暮ったい灰色の作業服の上に白衣を着ているのはまだ良い。加えて言えば、丈が足りてない作業着の袖からすらりと延びる手足と、作業着の上からでも分かるほどの丸い腰回りと中身が詰まって盛り上がってた胸は目に毒だった。
本当の意味で問題なのは服装以外の風体だ。蛍火の髪、赤銅色の肌、真紅の瞳に極め付きは同じく真紅の角だ。額の両脇、髪の生え際辺りから二本の小さく鋭い角が生えていた。
ハロウィンにはまだは早ぇぞ。俺はド頭のおかしい連中の仮装パーティーに拉致られたってのか? これだから女は嫌なんだ。
「ようやく起きたな。二重三重に余計な手間かけさせやがってこの、意気地なしの欠陥品のスポンジ並みのスッカスカ頭のポンコツ野郎。オマエの態度次第じゃすぐさま解体して再洗浄に掛けてやるからな、よく覚えておけ」
内心で毒づいた勇助に向かって、整った顔からフルートのような声で、しかし酷い憎まれ口が飛び出した。どうやら美しい顔立ちと中身の人格は必ずしも一致していないようだ。彼自身も普段はそれ以上に酷い罵詈雑言が飛び交う手合いを相手にしていたため、大して腹は立てない筈だった。だが、彼は舐められるのが、特に高慢ちきな女に言いたいように言わせておくのが我慢ならなかった。
勇助は早速詰め寄ろうとした。が、首から下が全く動かないことに気付く。
「まずはオマエの出身惑星と年齢、性別、出身国家を言え。ついでにこのボクに名を名乗ることを許してやる」
勇助はどうやら壁に磔にされているようだった。両手首や腰がベルトで固定され、全身にコードが繋がれてる。しかし拘束されていない指先さえピクリとも動かせなかった。
「オイ!たった今帝国語の導入に成功したんだから、ボクの質問にも答えられる筈だぞ! それともこんな簡単な質問の意味も分からない程オマエは頭が悪いのか!」
女は鋭い目を吊り上げ、上気した頬で荒々しく息を吐きながらキンキンと刺す様な声を上げる。彼は小さく「アー…」と声を出してみた。喉は自由に動かせるようである。
「ギャアギャア喚いてねぇで、さっさと俺を開放しやがれ。アバズレ」
女のこめかみが「ビキッ!」と音を立てて引き攣るのが見えた。女は頬を痙攣させたまま口元を三日月形にゆがめる。だが勿論目は笑っていない。
「中々…威勢がいいじゃあないか……それなら、まずオマエがどういう立場なのか教えてやろう」
「立場だぁ? ふざけろやクソアマ。出身惑星だの帝国語だの、頭が沸いてんじゃねえのか。そういう『プレイ』がしたけりゃ御同類のオトモダチでも見繕いやが」
突如背骨を真っ二つに蹴り折られるような衝撃と激痛が勇助を襲った。瞬時に体全体が海老ぞったように感じる。だがおかしい。痛みも衝撃も確かにあったはずなのに、身体は動いた気配が全くなかった。勇助は思わず体を見下ろす。幸いにして身体は両断されてはいない。しかしそれが逆に不気味さを際立たせた。ふと気が付くと、女が手の平サイズのスイッチボックスをこれ見よがしにちらつかせながらニヤついていた。
「今のは極弱めのショックさ。ボクは優しいからね……だけどこれで単細胞生物並みのオマエにも『立場』って奴が理解できたんじゃないのかな?」
「ちょっとくすぐってえな。今すぐそこのケーブルで首吊ってくたばれ、根性腐った口汚ぇ変態ドSチビ女」
女はニヤケ顔を止めて無表情なまま小箱のつまみを捻った。直後に彼の四肢が爆散した。いや、先ほどと同様に錯覚だったが痛みと衝撃は本物だった。
「いいよ。オマエがそのつもりならこっちにだって考えがあるぞ。根競べだ。」
拷問が始まった。
「こ、コイツ……なんて強情なんだ……」
「眠てェなァ……オイ…………ゼンッゼン大したことァねェぜ……イカレ女が……」
女は絶妙に緩急を付けながら勇助を嬲った。拷問の手管は実に的確だった。彼の頭の中を覗いてるのかと思うほどに、緊張が途切れた瞬間を狙って彼を打ちのめす。女は彼が弱る絶好のタイミングで降伏を迫った。彼は激痛の度に悶え、叫び、苦しんだ。だが、それでも勇助は断固として目の前の女に逆らった。
女は脇に置かれた計器類をちらりと見た後、天を仰いで額の汗を白衣の裾で拭った。
「分かった……意気地無しは取り消そう。オマエは全く……実に剛情な奴だ」
女は一息吐いてから再び小箱のスイッチを捻った。すると、あれほど彼を焼き焦がし続けていた痛みが嘘のように消えてしまう。
「オマエに鞭は無駄だってのがよぉーく分かった。仕方が無いからオマエと取引をする」
「ふざけろ、論外だ。テメェがやっていいのは、俺を今すぐ開放することだけだ」
女は困ったように眉をひそめて「落ち着け」とでも言うように両手を彼を押し留めるようなゼスチャーをした。
「ボクの話を最後まで聞けば開放してやるさ。オマエがそうして欲しくなればね」
「は? テメェの御高説を拝聴すりゃあ、進んで奴隷になりたがるってのか?」
「そうは言ってない。とにかく聞けば分かる」
女は壁際まで歩くと、何かのレバーを引いた。するとガコンという響きと共に天井が真っ二つに割れてスライドしていく。勇助は視線を上へ向け、息を呑んだ。透明な天井の向こうには満天の星空と、二つの月があった。紅い月と、蒼い月が浮かび、紫色の夜が空を支配していた。
「ここは銀河帝国第三属州第八星系の居住惑星ルブルム。オマエの故郷から一万光年以上離れた、銀河の中心さ」
女の説明が始まった。それは、彼に逃げ場など無いということを思い知らせるのに十分な内容だったのだ。
勇助が連れて来られた場所は、地球から気が遠くなるほど遥か彼方のどうしようもない場所だった。その名も銀河帝国オルドー。天の川銀河を広範にわたって支配する古く強大な帝国である。何故そんな場所へと勇助が連れ去られたのか。
この銀河帝国では地球人の頭脳がハイエンド制御デバイスとして、軍事兵器や大規模施設のオペレーティングシステムに採用されていたのである。地球人類の与り知らぬうちに何万という地球人がアブダクションされていた。勇助もその一人だったのだ。ただし今では拉致は勿論のこと生体デバイス化も違法となっているのだが、象牙目当てにライフルを構える連中が後を絶たないのは銀河帝国でも同様だった。女の説明では、おそらく彼はそんな奴らに『密漁』されたとのことだった。
勇助は自分が保護液内でゆらゆらと浮かぶ頭脳だけとなった不愉快な真実を認めたがらなかったが、女が彼の首から上を切り離して宙にぶら下げて見せてからは是非も無かった。
ただ、彼が記憶と人格を保っているのは女にとっても予想外の事態だったようだ。通常、捕獲された地球人の頭脳は商品にされる前に記憶や人格をフォーマット、つまり初期化される。これを隠語で『洗浄』と呼ぶ。勇助は『俺の根性が並外れてたってことだろう』と考え、女は『事故か、そうでなきゃ強情っぱりな性格が幸いしたんだろう』と考えた。
そして勇助の頭脳はどういうわけか密猟者の手を離れ、宇宙の闇を流れ流れて宇宙のクズ浚いに拾われ、闇市へ渡ってこの女に買われ、その手によって機械仕掛けの胴体の首の上に乗せられた、という顛末だった。
女はここで一度話を切った。最初とは打って変わって静かな目で彼を見つめていた。
逆に彼はと言えば怒りでどうにかなりそうだった。煮えくり返るはらわたを失っても憤怒は消えないらしい。勇助は今すぐ彼をこんな目に合わせた密猟者とやらの顔面を、親兄弟さえ見分けがつかないほどにタコ殴りにしてやりたかった。
「ここまでで何か質問はある?」
「……俺の体はどうなったんだ?」
「さあね……医療系企業に密輸されたか、食肉業者に卸されたか、はたまた有機転成炉に放り込まれて肥料になったか。少なくとも面の皮と首の下はもう、この世に無いことだけは確かだね。今のオマエの肉体は保護溶液に浮かぶ大脳と小脳と脳幹、脊髄の一部だけ」
女は肩をすくめて溜息混じりに答えた。女の言葉は冷淡で突き放した物言いで、彼は全く途方にくれるしかなかった。
「ねえ……どうしたい?」
呆然としていた彼の前で、女は不敵な微笑を浮かべながら問いかける。
「ボクの命令は聞きたくないみたいだけど、そんならオマエはどうしたいのさ」
「どうしたいか?決まってる! 俺を今すぐ家に帰しやがれ!この、人でなしども!!」
どうしようも出来ない勇助に対しての最高の皮肉に、彼は激昂した。しかし女は彼の怒号にも全く怯んだ様子を見せない。
「どうやって?辺境行きワープドライブ便のチケット代なんてボクは出さないよ。おまけにその体で帰る気かい?メンテナンス無しのサイボーグなんて1ヶ月持たないよ。地球にも闇メンテ業者はいるらしいけど、天文学的な料金をどう工面するつもり?」
「……っ! このクソアマ……」
「ちなみにここでオマエを開放したって同じ事さ。野垂れ死にならまだマシだね。中身が地球人の頭脳だって知れたら死肉に群がる虫みたいな連中がわんさと押し寄せてくるよ」
女は微笑を崩さずにとうとうと語る。当然聞いて愉快なものではなかったが、勇助は並べ立てられた理由について一つの疑問が沸き上がった。
「さあ、どうする?」
女はゆっくりと歩み寄り、鋼の頭部に納められた彼の頭脳を覗き込むように顔を寄せる。相変わらずその顔は癪に触る得意げな笑みだったが、彼はもう怒鳴る気はしなかった。
女が敢えて自分を挑発していることに気付いたからだ。この女は自分を値踏みしている。
「……お前が言ったのは殆どカネの問題だ。つまり、カネがあれば何とかなるんだな?」
「続けて」
女の瞳に宿った光が、カメラがシャッターを絞るように細く鋭くなった。
「それからお前は俺を買ったって言ったな。お前は俺に『何かをやらせたくて』俺を買ったんだ。ただ拾っただけならこんな面倒な事しない。それも、これだけ手間をかけて俺を言いなりにさせようとする所を見ると、『俺は早々替えが利かない』」
女の目にはっきりと喜色が浮かんだ。薄々女に乗せられていることに感づいてはいたが、勇助自身もこの機会を逃したくなかった。
「俺に何をやらせるつもりか説明しろ。内容次第じゃ引き受ける。代わりに報酬を寄越せ。そしてカネが貯まれば俺を開放すると約束しろ。それなら……話を聞いてやっても良い」
最後の言葉を聞くと、女は満足げに口角を吊り上げた。
「合格だ。それなりに頭が回るようでボクは嬉しいぞ」
「チッ。テメエが拷問を始めなけりゃもっと話が早かったぜ」
「どうかな? あれがあったからオマエも真剣に聞く気になったのかもしれないよ。兎も角オマエの気が変わらないうちに本題へ入ろう」
女は作業台の上に乗った何かのパネルの上に指先を滑らせる。すると彼と女の前に陽炎のように畳み一枚ぐらいのスクリーンが浮かび上がった。
「さあ、よぉー……っく、脳味噌に刻み込むんだぞ」
スクリーンは一瞬闇に染まり、その中から煌めく何かが映し出される。それは巨大な都市の空撮映像だった。遙か上空から見下ろす都市の夜景は東京やニューヨークもかくやとばかりに煌びやかで、目に痛いほどだ。そそり立つ剣山のような結晶質のビル群の中に虹色の光が飛び交い、水平に張り巡らされた蜘蛛の巣のようなレールやチューブの中をひっきりなしに何かが往き来している。
それらの遙か足下で蠢く米粒ほどの大きさの人々が、都市の巨大さを物語っていた。もっとも道行く『人々』は腕が六本だったり、目がなかったり、全身鱗や毛皮で覆われていたり、言ってしまえば人と形容するのが難しいような連中が大半だった。
視点は宙を漂いながらやがて一つの建造物に焦点を合わせ、クローズアップしていく。それは開放型の巨大なドームだった。東京ドーム四つ分はありそうに見える。中央の広場こそ一回り小さいが、観客席の高さが比較にならない。恐ろしい大きさのすり鉢状になった客席が、銀河中の百鬼夜行が押し掛けたような観客達で埋め尽くされている。広場をぐるりと囲んだ観客席から、観客達がめいめいに歓声や金切り声をあげてドーム中が興奮の坩堝になっているのがはっきりと見て取れた。
そこで繰り広げられているものは、初めてお目にかかる彼でも、いや初めてだからこそなのか、目を離せないショーだった。
広場の中央を支配していたのは、命がけの、ホンモノの殺し合いだった。一方は北極熊ぐらいトリケラトプスのような姿をしていた。だが当然、ただの恐竜もどきではない。その全身は黒い金属質の鱗に覆われ、二本足で立ち、大木のような両腕で身の丈以上の巨大な斧を振り回している。相対しているのは蟹と蜘蛛の合いの子のような怪物だった。こちらも尋常ならぬ大きさだ。昔、勇助が自衛隊祭りで見た戦車ほどの大きさだった。怪物は青い甲羅で覆われ、無数の細長い脚を鋭く地面に突き立てている。更に円盤状の体の全周囲に八本の鋏と八個の目が等間隔に並んで隙が無い。
二体のモンスターの激闘を目の当たりにして、観客たちは壮絶なまでに熱狂していた。
蟹の怪物は恐竜の戦士に向かって槍の雨を降らせるが如く、鋭い脚を続けざまに突き立てている。だが戦士は牛乳瓶ほどもありそうなごつい指先からは信じられないほど繊細な斧裁きで巧みに槍の切っ先を反らし続けた。刺突の連打は斧の切っ先と長い棒状の柄によって悉く弾かれ、戦士の体には掠りもせずに地面へ無数の穴を穿ち続けるばかりだ。しかし蟹の怪物は刺突の連打を防がれつつもにじり寄るように距離を積め、ついには巨大な鋏の間合いの中に戦士を捕らえる。
次の瞬間、戦士がいたその場所が爆破されたように吹き飛んだ。もうもうと立ちこめる土煙の中に蟹の深海色の鋏が映る。蟹は突くでもなく挟むでもなく、目にも留まらぬ速さでハンマーのように二本の鋏を振り下ろしたのである。だがしかし、戦士の体は鋏の下には無かった。彼は鋏が叩き込まれる寸前、予備動作として引っ込められた蟹の鋭い足先を追うようにして蟹の懐に飛び込んでいたのだ。再び戦士達の間で何かが爆発した。彼はゴルフスイングのように斧を振りかぶり、激しい勢いで石礫を巻き上げながら蟹の胴体を打ち上げる。堅い甲羅に亀裂が走り、銀色の体液が滲み出た。皿状の胴体の端を高く弾き上げられた蟹は無防備な腹部を前方に晒してひっくり返る寸前に見えた。
だが違った。無防備などではなかった。何故なら蟹の腹部と思えた甲羅の裏側は、やはり青い甲羅で覆われ、あまつさえ八つの目玉が縁に並んでいたのである。つまりこの蟹と蜘蛛の合いの子の怪物は表裏が無い、完全な上下対称形をしていたのだ。
八つの目玉が石礫と土煙の向こうを鋭く睨む。間髪入れずに地面から離れて自由になった全ての脚が襲いかかった。だが槍衾の様な足先は戦士の肉を刺し貫くどころか、鱗一枚割ることさえなく空を切った。既に戦士は打ち上げの動作と同時に体を捻り、やはりその巨体からは想像もできぬ身のこなしで蟹の横に今割り込んでいた。蟹の一方の目は土煙の向こうの戦士の幻影を追っていた。もう一方の目は胴体が裏返しに倒れ込む先の地面を中止している。この瞬間、戦士は真に相手の死角に移動していたのである。
戦士はそこで初めて斧を大上段に構えた。流れるような一連の動作は目で追うのも困難であり、斧を構えたその瞬間も、ほんの瞬きほどの時間だっただろう。しかしその姿は威風堂々とした力強さと優美に満ちていて、勇助の脳裏に強く焼き付いた。
そして一閃。斧の切っ先が蟹の怪物の胴体を通り抜けた。戦士と怪物を中心に一瞬の間全てが静止し、ドーム中の観客達も呼吸を忘れて次の瞬間を待ち構えていた。
蟹は動かなかった。だが戦士が振り下ろした斧を持ち上げ、柄を地面に突き立てる。すると突然、蟹の胴体は銀色の体液を爆散させた。胴は開いたホタテ貝のように真二つに割れる。途端に観客達の歓喜と興奮の絶叫が地鳴りのようにドームを揺るがした。観客は立ち上がり、手を叩き、泣きわめき、酒の入ったコップと賛辞の言葉を戦士へ投げつけた。
体液を浴びた戦士は全身を黒銀に染めて、大斧を高く掲げた。恐竜の戦士は夜空の星々へに向かって高く高く勝ち鬨を上げる。ドームは彼を中心に熱狂の頂点にあった。
映像はそこで終わった。尤もこの前後にスポーツモデルの小型宇宙艇の宣伝や、肉感的な宇宙人が扇情的なポーズでボリュームたっぷりのサンドイッチのような物をほうばるCMが流れたりしたのだが、女はそれらを全部早送りでカットした。
女は頬を緩ませて勇助に笑みを投げかける。赤銅色の肌にほんのり朱が混じって、目元がうっすら柘榴色に染まっていた。
「どうだい?」
彼は率直に「面白かった」と感想を述べた。真っ二つになった蟹は息の根を止められる闘牛のような哀れを誘ったが、ブラッドスポーツとは概ねそういったものだ。また哀れみとは比べ物にならない割合で、強い興奮が彼の心を満たしていた。映像上の観客達の熱狂が伝染したように、脳髄の奥に痺れるものを感じていた。女は満足そうに頷き、スクリーンの前に立った。腰に手を当てて仁王立ちになった女の背後には件のドームが映っている。
「オマエにもここで戦ってもらう。つまり、オマエはボクの剣闘士になるのさ」
女は笑った。自分の勝利と成功を信じて疑わない、不敵な笑みだった。
「テメェがさっき言ったチケットだのがどうにかできる程度のカネになるんだな?」
「そうとも。富と名誉と命を賭けた、この銀河帝国で最大最高のショーだ。何百億もの視聴者を釘付けにし、放映権だけで小国の国家予算ほどのクレジットが動く。著名な剣闘士は属州の監督官よりも華々しい生活をしてるくらいさ。帝都のコロッセオ・パントーンのチャンピオンである“無敗のセオギニス”の名前は皇帝陛下の名前の次に有名だ。初等学校に入る前の子供だって知ってる。正真正銘、エンターテイメントの花形だよ」
「いいだろう。やってやる」
勇助は即答した。それを聞くなり、女は小箱のスイッチを一捻りする。すると彼の右腕に軽い痺れが走り、矢庭に腕の感覚が戻ってきた。早速目の前で右手を開いたり閉じたりしてみる。そんな彼の前に女の手が差し出された。
「ボクの名前はフルミノ・ウィクトー。年齢十五周期。コルヌ星出身の三等銀河帝国市民。銀河帝国において、サイバネティクスの分野でこのボクの右に出る奴はそういないと思ってもらおう。当然、栄えある銀河帝国大学の学位も持ってるぞ。このフルミノ・ウィクトーが、オマエを銀河帝国一の英雄にしてやる。約束しよう」
「俺の名前は鈴木勇助だ。十七歳、地球の日本生まれ。タカビーな女は嫌いだが手を組んでやる。だが大卒の学士サマと違って、こちとらギムキョーイクしか受けてねえフリーターでね。英雄だの何は正直興味ねえ。肝心な報酬と自由を忘れんじゃねえぞ」
握手の習慣は銀河帝国でも共通だった。二人は固く手を結ぶ。
「当然だろう? ボクもがさつで無教養な男は大っ嫌いだけどビジネスに私情は挟まないさ。それと心配しなくてもこの界隈じゃ学歴なんて飾りでね。結果が全てだ。ともあれ、これで交渉成立だな」
「いや、契約内容の確認と賃金交渉がまだだ」
フルミノの顔からすっと熱が引くように笑顔が消えた。ジト目で勇助を睨む。
「……言っておくが、オマエのファイトクレジットから、オマエのメンテナンス費、トレーニング費、コーチング費、マネージング費、エージェント費は差っ引くぞ。オマエの言う通りボクは儲けるつもりでオマエを買ったんだからな。これはボクの正当な取り分だ」
「その割合が信用できねえ」
「何だと!!」
喧々囂々の契約交渉が始まった。フルミノはスクリーンに勇助の購入代金、契約剣闘士とエージェントの平均的な契約額、興行費用の内訳等々を次々に映し出し、果ては銀河帝国の物価の推移まで持ち出して一歩も引き下がらない交渉振りを見せ付けた。彼女は顔を真っ赤にして勇助を罵りながらスクリーンをバシバシ叩いて自らの正当性を主張する。だが彼も負けじと食い下がり、お互いに全く譲らない鍔競り合いが始まった。
「もっとよこしやがれ!銭ゲバ女!!」
「黙れ業突く張り!ボクが前に幾らかけたと思ってるんだ!びた一文負けやしないぞ!」