あおいひ
コンビニの前の道路を、2ケツしたバイクが通り過ぎていって、駐車場の車止めに座っている私のことをちらっと見た気がした。同じ学校の誰かかもしれないと思った。でもどうでもいいと思った。蝉の声ぐらいどうでもいい。
妹尾先輩がコンビニから出てくる。白いコンビニ袋には煙草、セブンスターの白黒が見えて、私は驚く。
「どうやって買ったんですか」
「いや、普通に」妹尾先輩は平然と言う。
「老け顔なんですね」私は笑ってそう返して立ち上がる。妹尾先輩は自分の原付を押しながら歩き出す。
コンビニから少し歩くと公園がある。誰もいない公園には鈴虫の鳴き声が微かに響いている。
タコにバネのついた乗り物の遊具に妹尾先輩は座る。私はその隣、マグロの遊具に腰掛ける。
「今更だけど、なんでタコなんだろうな」
ぺしぺしとタコの頭を叩きながら、妹尾先輩が言う。
「こっちのマグロは更に謎ですよね」私も言う。
「マグロは泳ぎ続けてないと死ぬんだぞ」
妹尾先輩は、豆知識を授けるとばかりに自慢気にそう言う。
「知ってます。そうしないとエラ呼吸できないんですよね」と私が返すと、そこまでは知らねーけど、と妹尾先輩は私の返答に対して大いに不満そうに言う。
「お前は物知りだよな」
「私バカですよ」
「じゃ俺はもっとバカか」
妹尾先輩はコンビニ袋からジュースを取りだして私に渡す。いつもと同じ三ツ矢サイダー。夜だというのに蒸し暑い今夜は、ペットボトルにしっかりと汗を掻かせている。
「ずっと思ってたんですけど、」私は訊く。
「なんでいつも三ツ矢サイダーなんですか」
「え、お前三ツ矢サイダー好きじゃなかったっけ」
「言ったことないです」
「うそ。じゃなんで三ツ矢サイダー飲んでんだよ」
「いや、だから私が訊いてるんです」
妹尾先輩が金髪に染まっている頭を掻く。金髪は月光に照らされて、白髪にも見える。そして煙草を一本取り出して素早く口にくわえて、火をつける。
「私も吸ってみたい」
私は初めて、そんなことを言ってみる。先輩はこっちを見て、
「煙草はやめとけ」と言う。説得力が無い。
「一本いいじゃないですか、記念に」
「ダメ。お前はそんなんじゃないよ」その言葉に、私は口を閉ざすしかない。じゃあ私ってどんなんですか。訊こうとして、やめる。サイダーの蓋を開けるとプシュッと音がして、泡が飲み口に沸いてくる。ゴクンと飲む。のどに刺さるような刺激が走る。確かに私はこれが好きなのかもしれない。妹尾先輩が言うのだから。
「お前ってさ、夢とかあんの?」
唐突に、先輩が訊いてきた。
「夢」私は口にする。笑ってしまう。作文のタイトルみたいで。
「誰かのお嫁さんになることですかね」
私はよく考えもせずに言う。
「そういうのって、夢っていうのか?」
先輩が煙を吐き出す。白い煙は電灯の光に溶けていく。ヤニの匂いがする。私はこの匂いも好きなんだと思う。
「先輩は?」
「でっかくなる」
「2メーターくらいっすか」
「バカ、身長じゃねぇよ。中身」
「中身」
「おお」
「だから、行くんですか」
私は目を逸らして、核心に触れる。
「そうだな」
先輩の原付のかごには、リュックが入れられている。
「何が入ってるんですか」
私はそれを指差して、訊く。
「着替えとか」
「エロ本とかっすか」
「バカ、女がエロ本とか言うんじゃねぇよ」
本気で嫌がる先輩は、どことなくかわいらしい。
「じゃあ女はなんて呼べばいいんですか、エロ本を」
「……エッチな本とか?」
私は笑う。不服そうな先輩を尻目に。
先輩が旅に出ると言い出したのは、夏休みに入ってすぐのことだった。先輩の両親は先輩のことに無関心で、いてもいなくても変わらないと先輩は言う。本当にそうなのか、私は知らない。旅に出て、そのままどこかで暮らしたいと言う。そんなことが、高校生に可能なのかどうか、私は知らない。
「そろそろ行くか」自分に言い聞かすようにそう言って、先輩は煙草を砂で押し潰して、投げ捨てた。ひしゃげて飛んでいく煙草は、私みたいだと思った。
「どこ行くんですか」
「大阪を目指す。通天閣を目指して」
「通天閣って低いからだいぶ近付かないと見えないですよ」
「水を差すな。意気込みの話だ。意気込みの」
「本当に行くんですか」
「本当に行く」
「警察とか、探すんじゃないですか」
「探さねぇだろ。探したとしても逃げるね」
「なんでですか」
「しつこい!だからでっかくなる為に、」
先輩が私を振り向いて、言葉を止めた。私の目から、滴が頬を伝って落ちていく。
「なんで連れてってくれないんですか」
私はずっとそれが聞きたかった。それだけが聞きたかった。
「お前はそんなんじゃないから」
また言った。私ってどんなんですか。声にはならない。
「俺みたいにバカじゃないから、ちゃんと生きろ」
ちゃんとが分からない。分からないことだらけだ。私だってバカだ。でも、もういい。先輩が信じてくれる自分を、今すぐは無理かもしれないけど、信じてみたいと思う。
「じゃあな」
先輩がヘルメットを被る。白いヘルメットが、街灯に反射して光る。エンジンが唸り出す。発進するかと思ったところで、先輩がポケットを探る。そして私に中の物を投げた。慌てて掴む。
私の手の中に、ライターが入っていた。
「やる」
先輩は振り向かなかった。
バイクが走り出す。暗闇の中に、ライトが残り、やがて見えなくなった。
蒸し暑い風が、私の髪をはためかせた。私はしゃがみこむ。サイダーを置いて、ライターの火をつけてみる。三回擦って、ようやく火はついた。青い炎は、見た目になんだか熱さを感じさせず、先輩が旅に出たのと同じくらい、嘘みたいだ。
火を消してから、金属部分をそっと触る。チクっと痛みが走って、皮膚に熱さが伝わった。あっち。私は呟いて笑う。少し赤くなった指先は、つんとする鼻の付け根の熱と共に徐々に滲んで、見えなくなった。