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元幼稚園の前を通り過ぎ、隣接する駐車スペースに車を止める。先輩から楽団員の人数は四十人強と聞いていたが、わたし以外の車は二十台ほど。参加人数が少ないのか、バーベキューでお酒を呑むつもりの人間が多いのか。スイカ二玉とシュークリーム五十個を一人で持って行く自信はないので、車の中から先輩に電話をかける。
「もしもし。星野、どうしたの? 今どこにいるの?」
五回のコールの後に出た先輩は、周りがうるさいのか声がいつもより大きめだ。
「ホールの駐車場にいます。荷物が多いので、運ぶのを手伝ってもらえませんか?」
「わかった、すぐに行くから待ってて」
わたしが返事をする前に、通話は切られてしまった。車から降りてショルダーバッグを斜め掛けにする。トランクを開けると、足音が聞こえてきた。
「星野、待ってたよ。今さっきバーベキューが始まったところだから、グッドタイミングだ!」
少しだけ息を弾ませた先輩は、いつもよりテンションが高めだ。念願の練習場のお披露目ともなれば仕方ないか。
襟と袖に白いラインの入った黒のポロシャツに、ダークグレイの七分丈カーゴパンツ。足元は白のスリッポンスニーカーの先輩はとても三十代に見えない。わたしも童顔の自覚があるが、先輩もかなりのものだと思う。学生の頃から変わらない切りっぱなしのサラサラの黒髪や、イケメンとは言えないかもしれないけど、老若男女から好かれそうなすっきりとした顔立ちと、白くてきれいな肌で大学生くらいに見える。何度か先輩と会ったことのあるわたしの弟は、肉食系のお姉様にスイーツを奢ってもらってそうな顔、と先輩を表していた。弟の言いたいことはよく理解できなかったが、とにかく可愛がられていることはわかった。
「お邪魔します。これ良かったら皆さんで食べてください」
トランクを指すと、先輩の目が輝いた。
「ありがとう、星野! スイカを用意してたんだけど、ぼくが落として粉々にしちゃって、星野からの電話を受けたときは大ブーイングの最中だったんだよ」
「先輩、今日もある意味、絶好調ですね」
先輩はスイカ二玉と、菓子店の紙袋を一つ持ってくれた。わたしはストローハットを被り、紙袋を一つ持って車にカギをかける。
「星野の帽子姿は初めてだけど、似合ってるよ」
「……ありがとうございます」
この帽子は日除けで、人除けだ。深めに被れば人の視線を避けられる。先輩の後ろについて歩いていると、少しずつ人の声が大きくなってきた。先輩にはバレないようにひっそりと深呼吸を繰り返す。
元々は園庭だったであろう場所には思ったより男性がたくさんいた。人数は三十人くらいだろうか。女性は十人ほどで、小さな子供も何人かいた。学生時代の吹奏楽部は女子が圧倒的に多く、男子部員は十人いれば多いと感じるくらいだったので、この男女比率は意外だった。
先輩は一番人が集まっている場所まで進んで立ち止まった。
「皆さん、注目してください!」
視線が一気に集まり、先輩の近くに立っていたわたしは一瞬息が止まりそうになった。
「彼女が、ぼくの一つ後輩の星野小夜さんです。スイカとお菓子を持ってきてくれました!」
うぉー、と低い声の歓声と拍手があがる。先輩はスイカと紙袋を近くにいた人に渡すと、わたしを手招きした。
「星野、おなか空いてる?」
「我慢できないほどではないですけと……」
「じゃあ、まずはホールの中を案内するよ」
先輩についてホールに入ると、その明るさに驚いた。
「室内でもサングラスが要りそうですね」
「元々、幼稚園だけあって日が入りやすいように設計されてたんだけど、今回の工事で何カ所か窓を増やしたんだ。防音が必要な部屋は窓を無くした分ね」
「やっぱり、窓はダメですか」
「無理ではないんだけど、近くには住宅も多いし、楽団の練習は夜が多くなるしね」
中は新しい建物の匂いがした。まず最初に行ったのは、合奏練習用の第一防音室。高校の音楽室三つ分くらいの広さで、楽団が入ってもまだ余裕があるので見学者がいても大丈夫そうだ。壁の一面には大きな鏡が貼ってあった。
「貸し出しすることを考えたら、ダンス練習にも使ってもらえるかな、と思って」
「今、ダンス人口多いですもんね」
第一防音室の奥には楽器庫があるようだったけれど、見てみたいとは言えなかった。
一階にあるパート練習用の第三防音室を覗かせてもらうと、一つの部屋を二つに割ったせいで、奥に細長い空間になっていた。大所帯のクラリネットパートには少し手狭かもしれないが、充分な広さだろう。並びにあるミーティングルームには、大きな楕円形のテーブルに椅子が十五脚ほど。ホワイトボードは壁に固定されていて、室内はすっきりしていた。
「倉庫と給湯室なんかは後日にして、休憩スペースに行こうか」
休憩スペースは裏手の松林側にあり、大きな窓から明るい日差しと緑が見えた。何台も木製のベンチが置いてあり、一度に二十人は座れるだろう。先輩に促されて、その一台に腰掛けた。
「二階の練習室は一階のより少し広めになってるだけでほぼ同じ。オーディオルームには音響機器と多少のCDとDVDがあるくらいかな。──ここの感想を聞いてもいい?」
「外観は白でシンプルですけど、窓枠とか屋根とかがこげ茶色で、アクセントになってていいと思います。中も築四十年経っているようには見えないくらいキレイになってるし、使いやすそうですね」
「星野が気に入ってくれて良かったよ。あとは?」
正直、困った。こういう施設はよほど予算をかけない限り大きな差は出ないし、使われている備品もさほど珍しいものではない。問題がある場所も、これくらい見たところでわかるはずもなく。
ただ一つ、考え過ぎかもしれないが気になっている部分はあった。
「あのぉ、床とか、壁の一部に使われている薄い緑とか紫色が可愛いです」
床のタイルは淡いアップルグリーン施設の案内板や各部屋のプレートはラベンダー色で縁取られていた。偶然だろうが、どちらもわたしの好きな色だった。
「そうか。──そろそろ、バーベキュー食べようか」
立ち上がった先輩の横顔には、笑みが浮かんでいた。
外に出ると、来たときよりも気温が上がっているように感じた。バーベキューコンロの側には男性が二人。彼らが調理を担当しているようで、寄ってくる人たちの皿にトングで肉や野菜を乗せている。わたしと先輩も彼らから皿を受け取ると、近くにあったキャンプ用の椅子に腰掛けた。
「いただきまーす!」
先輩の健啖家ぶりはもう知られているようで、皿にはこぼれそうなほどに肉が盛られている。
「先輩。わたし、挨拶とかしなくていいんでしょうか?」
「大丈夫だよ。興味があったら向こうから来るから」
気にはなったが、わたしもおなかが空いていたので、遠慮なく数年ぶりのバーベキューを楽しむことにした。
「ビールとウーロン茶、どっちだ?」
唐突に近くで聞こえた低くてざらっとした声に顔を上げると、背の高い、日に焼けた男性が立っていた。彼の視線を見る限り、わたしに言っているようだ。
「……ウーロン茶で。ありがとうございます」
ペットボトルを受け取り、会釈をする。
「あぁ、どういたしまして。それにしても顔がよく見えねぇな」
男はそう言うと、わたしの目の前にあぐらで座り込んだ。帽子のツバはもう、役に立たない。
「子供みてぇな顔だな。俺は相田将平。草太から聞いてるだろうが、建築屋だ」
「はじめまして、星野小夜です。お話はうかがっています。ここのリフォームをされた工務店の方ですよね」
わたしが目を合わせて挨拶すると、相田さんの大きな口が笑みの形になった。
「そうだ。──可愛い顔してんだから、その帽子とっちまえ」
白いTシャツの袖から出る筋肉質の腕が、わたしに向かって伸びてくる。驚きと恐怖で体がすくんだ。
「デリカシー!」
そう言いながら、美しい女性が相田さんの後頭部に膝蹴りを決めた。決められた方は無言で頭を抱えてうずくまっている。
「夫が失礼なことをしてごめんなさいね。相田の妻の百合子です」
百合子さんは自然なブラウンに染めた長い髪の毛先をゆるめに巻いて右側に寄せてまとめ、白いシンプルなブラウスをカーキのスキニーパンツにインして着ていた。全体的には細いのだが、胸やお尻には女性らしい丸みのある美女だ。とても、旦那さんに膝蹴りをかますような人には見えない。
「ユリ、痛ぇぞ!」
「うるさい、単細胞」
日本人形のような美しい顔で、雄々しい言葉をさらりと放つ。わたしの中で百合子さんの好感度が急上昇だ。
「はじめまして、星野小夜です。百合子さんとお呼びしてもいいですか?」
「もちろん。それじゃあ、私は小夜ちゃんって呼んでいい?」
「はい」
同性が苦手なわたしだが、さっぱりとした男前な女性には好感を持ってしまう。今日は百合子さんがいるおかげで、かなり楽に過ごせそうだ。この後はもう、会える機会は無いだろうが。
「この子は息子の和。もうすぐ三歳なの。──和、お姉ちゃんに言いたいことがあるんでしょ?」
黄色のタンクトップの上にヒッコリーのオーバーオールを着た男の子が、百合子さんの後ろから顔を出す。
「おねいしゃん。しゅーくいーむ、あいがとっ」
可愛い。ふくふくのほっぺを口に含みたいくらい可愛い。
「はい。どういたしまして」
両手を出してみると、和くんは少し照れながらも抱っこさせてくれた。膝に乗せて頭頂部に顔を寄せる。子供の肌は清潔で健康な匂いがする。
「星野は子供が好きなの?」
これまで黙っていた先輩が、意外そうな顔でわたしを見ていた。
「はい。弟のところに一歳の女の子がいますし、子供は息をしているだけで可愛いです」
わたしとしては子供は誰でもすべて可愛いという意味だったのだが、先輩はどう解釈したのかちょっとひいていた。別におかしな性癖じゃなくて母性本能なのに。
和くんが膝にいてくれたのは数分で、他の子供が気になったのか、百合子さんの手を引いて向こうに行ってしまった。