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「星野は、元気だった? 仕事は?」
「変わらないですよ。来月に新刊が出る予定なので、また先輩にお渡しします」
「ありがとう。楽しみにしてる」
二枚目を焼きながら、先輩が新しいノンアルビールの缶を開けた。弁当はもうチキンカツが一切れしか残っていない。
「星野、かつお節かけて。あと、口開けて」
かつお節が一カ所に固まらないようにと集中していたわたしは、何の疑問も持たずに口を開けた。
「っ!」
目の前で先輩が笑っている。チキンカツを口に突っ込まれたわたしは、驚きながらもカツを味わった。
「美味しかった?」
「びっくりしましたよ。何か言ってから食べさせてください」
「だって、星野はかつお節をかけるのに忙しそうだったから」
珍しいことに悪戯小僧のような笑みを浮かべている顔に、ふきんを投げつける。反射神経の鈍そうな先輩が、片手でそれを掴んだことに驚いた。こんなところまで受け止め上手なのか。
しばらくは、先輩の大阪での話が続いた。旅の同行者は生徒の小三の女の子とそのお母さん、あとは上司でもある先輩の母親。女の子は初めてのコンクールだったのだが、上位入賞も狙えそうな腕前だったらしい。
「ピアノを始めたのは小学校からだから歴は短いんだけど、とても上手いんだ。母さんが今一番期待している生徒さんだね。だけど、来年お父さんが東京に転勤らしくて」
今回、先輩の母親が同行したのは、コンクール会場で東京在住の有名なピアノの先生と女の子を引き合わせるためだったらしい。
「コンクールの結果は思ったより良くなかったけど、音を気に入ってもらえて無事に教えてもらえるそうなんだ」
有名な先生だけあって生徒数も多く、紹介はしても実際に師事できる確率は低かったらしい。けれど、結果こそ悪かったが楽しそうに演奏する女の子の無垢な音は、教師の心を掴んだようだった。
「本当に良かったよ。彼女のためにはちゃんとした先生に教わったほうがいい」
少し寂しげな表情を浮かべながら、先輩は空き缶を握りつぶす。母親もそうだろうが、先輩もきっと、その生徒のことが大事だったのだ。
「ピアノの楽しさを教えたのは先輩でしょ? だから、先輩もちゃんとしたいい先生ですよ」
「……ありがとう。星野はいい子だね」
先輩の耳が赤くて、わたしの頬が少し熱いのは真夏にお好み焼きを焼いているせいだ。確かに美味しいが、食べる時期を間違った。
「先輩、二枚目焦げ始めてます」
「それは、一大事だ。これはぼくが食べるから星野は新しいのを焼いて」
「合点承知!」
最終的にわたしは一枚半、先輩は四枚半のお好み焼きを平らげた。おなかは一杯だが、デザートは別腹だ。カプチーノ味のアイスバーを食べながら、台所と何回も往復して片付けをしている先輩を見ていた。
指揮者を目指していた先輩にとって、今のピアノ教師の仕事は不本意なものだろう。だけど、不満は一切表に出さずに現実を受け入れつつも、自分から動いて変えていくことも諦めない。彼のようであれたなら、わたしも少し楽に生きられるのだろうか。
「ぼくはチョコ最中アイス」
片付けを終えた先輩が嬉しそうに言いながら袋を開けて、板チョコサイズのアイスにかぶりつく。
「そういえば、一国一城って何のことですか? 家でも建てたんですか?」
ずっと気になっていたことを、さりげなさを装って聞いてみた。
「家は建てないよ。ピアノ教室もあるからいずれは実家に戻ることになるだろうし。ぼくね、理事になったんだよ」
「はっ?」
「星野に言われたとおりにいろんなところに相談したら、法人を立ち上げてそこで管理運営したほうがいいんじゃないかってことになったんだ。吹奏楽団も併せて」
「あの、練習場ですか」
「そう。ちなみに、法人名はサウンド・フィールズで、練習場はS・Hホールになったから」
「ホールのS・Hはどういう意味ですか?」
先輩の耳がうっすらと赤くなり、視線がさまよい始めた。何か言いよどんでいる。
「何か恥ずかしい理由があるんですか?」
「いや、ただね。間違ったんだよ」
「何と?」
「サウンド・フィールズの頭文字にしようとして、FとHを。気付いたときにはもう登録後だったから、まぁいいかなって」
らしいと言えばらしいが、先輩は決して頭の出来は悪くないので不自然な感じもする。
「それで、もうホールはオープンしたんですか?」
「ううん。工務店からの引き渡しは四月には済んでるんだけど、楽器や備品を買ったりのあれこれが忙しくて。でも、今度の日曜日に楽団のメンバーが集まってホールのお披露目会をして、九月にオープン予定」
「それは、おめでとうございます。いよいよですね」
「ありがとう。時間があったら星野もおいでよ、お披露目会」
「わたしはメンバーじゃないから、いいですよ」
初対面の人間がたくさんいる場所に行くにはエネルギーが必要だ。それに、新しいことを一緒に始める人たちの中に入っても、疎外感を感じるだけで楽しいことは一つもない。
壁時計を見上げると、もう九時近かった。明日は午前中から仕事がある先輩のことを考えると、もう帰った方がいいだろう。アイスのパッケージをゴミ箱に入れて、バッグを掴んだ。
「先輩、今日はもう帰ります」
「あっ、もうこんな時間なんだ。気を付けて帰るんだよ」
上がり框に座り、サンダルのストラップを留めようとするが、なかなか留まってくれない。
「星野、本当に今度の日曜日においでよ。メンバーにも紹介したいし」
「また、今度でいいですよ」
ようやくサンダルを掃き終え、立ち上がって振り返る。声のトーンはいつもと変わらないのに、先輩のわたしを見る目はとても真剣だった。
「十一時に集まって施設内の確認をして、その後に外でバーベキューをするんだ。家族を連れてくる人もいるから星野も昼ご飯を食べにおいで」
「……わかりました。昼過ぎくらいにお邪魔します」
「うん。待ってるよ」
いつもの柔らかい笑顔で、それじゃあ日曜日に、と先輩は小さく手を振ってくれた。玄関の扉をそっと閉めて車に戻った。シートに座り込み大きく息を吐く。胃の辺りが重いのは食べ過ぎたせいではなく、多くの人に会わなければいけない予定が入ったからだ。
適当な理由を付けて早く帰ろう。わたしは始まる前からもう、終わらせる準備を始めていた。