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「確認しますが、もちろんそれは有料ですよね?」
「えーっと、無料のつもりでいました……」
「馬鹿ですか? これだけの施設だと電気代や水道代だけでもかなりかかりますよ。わたしもよくはわかりませんけど、役所に行って個人所有の施設を有料で貸し出すのには許可申請とかが必要なのかどうか確認してきてください。先輩は考えが甘すぎます!」
「うぅっ、わかりました」
半泣きでうなだれる先輩をおいて、わたしは足音高くアパートを後にした。何故か無性に腹が立っていた。先輩が楽天的なのは昔からだし、そんな彼の性分を理解して付き合いを続けてきたのに。
何かあったら苦労を背負うのは自分だという自覚を先輩は持つべきだ。とりあえず、今晩あたり届くであろうメールは無視をすると決めて、わたしは鼻息も荒くアクセルを踏み込んだ。
あれから半年。年は変わって三月の半ば、北海道にはまだ春の声は聞こえてこない。
先輩からの連絡はほとんど無かった。年賀状は届いたが、電話やメールは来ていない。親しくしていたとはいえ、後輩のわたしがあそこまで言うのは失礼すぎた。さすがの先輩も、わたしとの付き合いを止めたくなったのかもしれない。
やっぱりわたしは、言葉で人を傷つけるのだ。今まで付き合いが続いていたのは、先輩がわたしを許していてくれたからだったのだと思い知る。
「練習場はできたのかな……」
仕事場を兼ねている自分の部屋で呟いてみても、当たり前だが誰も応えてはくれなかった。
三十を過ぎると二ヶ月はあっと言う間で、今は五月の初旬、世間はゴールデンウイークも後半で、ニュースではUターン ラッシュの始まりを告げていた。
締め切りから数日遅れて原稿データを送信したわたしは、編集さんからのねぎらいの電話をもらって一息ついた。朝から数日振りの風呂を楽しんだあと、遮光カーテンを閉めてベッドに潜り込む。重たいまぶたと戦いながら、三日分の携帯メールをチェックする。受信ボックスの未開封メールは四通。一通は時々利用する通販サイトからのセールのお知らせで、二通は迷惑メールだった。三通ともタイトルだけを見て削除する。
最新の一通は先輩からだった。約八ヶ月振りのメールを開く指が震えていた。先輩からの連絡がない日々は、わたしにとって思った以上の苦痛だったようだ。
「久しぶりなのに、またわけのわからないことを……」
緊張しながら開いたメールには、たった一文、緊張感もなくこう書かれていた。
──ぼく、一国一城の主になりました!
すぐにでも先輩に会って説明を求めればよかったのだが、あの後睡魔には勝てずに眠ってしまい、夕方に出版社からの電話で跳び起きた。担当になって二年目の編集さんに、寝不足のせいか妙に明るい声でストーリーに矛盾点があると言われ、ちょっとしたパニック状態で修正作業に追われることになった。そのせいで、取れるはずだった休みも無くなってそのまま次の仕事に取り掛かるはめになった。尽きそうな気力と体力で何とか原稿を書き上げたときには、季節は夏になってしまっていた。何だかんだで先輩とは約一年間会っていないことになる。
久しぶりの連絡を無視する形になってしまい、気まずい気持ちを抱えながらメールを送ると、数時間後、仕事を終えた先輩から電話がかかってきた。
途中のスーパーでお弁当を二つ買って、先輩のアパートに向かう。サバ味噌弁当とチキンカツ弁当を左腕に抱えて、先輩の指示通りにドアをノックした。扉はすぐに開いた。
「ありがとう、ぼくの晩ご飯いらっしゃい!」
「……星野もいます」
「ごめん、間違えた! 『いらっしゃい、ぼくの晩ご飯を買ってきてくれてありがとう』だった」
相変わらずな先輩の様子に、大きく息を吐いた。緊張は解けて、今まで通りの二人の空気が戻ったのを感じる。
「どうして、ノックなんですか?」
「チャイムのスピーカーの電池を換えたら、何をどうしたのかチャイムが鳴りっぱなしになっちゃったから、電池を抜いてるんだ」
「また、壊したんですね。先輩、手から電磁波でも出てるんじゃないですか?」
あくまでも「壊した」のではなく「壊れた」のだと言い張る先輩に、弁当の入ったレジ袋を渡す。
「リクエストの『魚の弁当』と『肉の弁当』を買ってきましたけど、これで良かったですか?」
「うん。この店のサバ味噌もチキンカツも好きだよ。味が濃いめでお米がすすむから」
その意見にはわたしも同意する。サバ味噌は生姜が効きつつ絶妙な甘さで、カツは衣にも味が付いていて何もかけなくても美味しく食べられる。ちなみに、先輩の「お米がすすむ」は人とは少し違う。普通はお茶碗で数杯のおかわりだろうが、彼の場合は五合炊きの炊飯器を空にすることを意味している。
部屋に入ると、テーブルにセッティングされたホットプレートの上に完成間近のお好み焼きが鎮座していた。教え子のコンクールに同行して大阪に行っていたという先輩は、お好み焼きの材料を山ほど抱えて帰って来ていた。
「美味しそうでしょ? 仕上げのソースは星野にかけさせてあげるよ」
「有り難き幸せ」
テーブルの前に座って早々に差し出されたソースを、熱々のお好み焼きにかける。ジュッというソースの焼ける音と焦げる匂いがたまらない。鰹節もかけてヘラで適当な大きさに切り分けた。マヨネーズは各自の小皿で乗せるのがいいだろう。
二つの弁当のあたためを終えた先輩が座ったところで乾杯をした。今日は二人とも、ノンアルコールのビールだ。
「かんぱーい!」
マヨネーズをたっぷりからませたお好み焼きを頬張った先輩は、すぐさま箸をお米に突き刺す。お好み焼きと二つの弁当。これが先輩の今日の晩ご飯だ。
「先輩はどうして太らないんでしょうね」
「音楽は結構体力勝負だからね。某有名指揮者は、コンサート後に体重を量ると二、三キロ減ってるらしいよ」
「それってきっと、本番前に何も食べてないか、汗で水分が出されてるだけだと思いますよ。音楽が体力を使うのはわかりますけど、先輩って普段、生徒の横で座ってるだけですよね?」
「ひどいよ、星野。ぼくだって、お手本でピアノに触ってるし、指導だって真剣にやってるよ」
お好み焼きだけで弁当の白米を食べ終えてしまった先輩は、冷凍してあったご飯を解凍するために台所に向かった。彼の体型は三十を過ぎた今でも、学生の頃とほとんど変わらない。二の腕がぽちゃぽちゃしてきて、ノースリーブが着れなくなったわたしは、軽い殺意を覚える。
「どう考えても摂取カロリーと消費カロリーの釣り合いが取れてないんですよ、先輩は」
「じゃあ、ぼくの腸は栄養を吸収するのが下手なんだよ、きっと」
「あぁ、パンダみたいな」
「そんな感じ」
先輩が怒っている姿を見たことが無い。わたしがどんなに言い過ぎたと思っても、先輩は笑って受け止めてくれて、衝撃吸収力に優れたエアバッグの様な人だと思う。その受け身の性質は周囲の人間のことは癒すのだが、大学生時代の先輩自身のことは傷付けた。