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 六月になった。北海道には梅雨がないと言われているが、ここのところからっと晴れた日とは疎遠になっている。一月以来、先輩とは会っていなかった。わたしは雑誌掲載用の原稿や新しく発売される文庫本の締め切りなどが続き、先輩は、生徒が増えたり楽団の設立準備に追われて忙しく、予定が合わなかったからだ。それでも、先輩からは近況を伝えるメールが頻繁に届いていた。新しい生徒の様子や、自分が体調を崩したこと。楽団に参加を決めてくれたメンバーの名前や、ネットで安い楽器を探していること。四月のわたしの誕生日には、メッセージカードを添えた三十一本のガーベラの花束を贈ってくれた。ガーベラはわたしが一番好きな花だ。

 先輩からのメールで一番多かったのは楽団のことだったが、思ってた以上に入団希望者は多かった。在校期間が重なっていたり、卒業後に遊びに来たりしていたりで、わたしが知っている人も何人もいた。

 ますます心は揺れた。少し手を伸ばせば楽しかったあの日々を再び味わえるのだ。だけど、難しいハーモニーが決まったり、上手く吹けなかったフレーズを吹けるようになったときの喜びを思い出す一方で、合宿練習の夜にその場にいない部員の悪口を言っておきながら、当の本人が戻るとさっと手のひらを返したように談笑する同級生の顔も思い出してしまう。

 今までの人生の中で、吹奏楽以上に夢中になったものは無い。それなのに、『大好き』よりも『嫌い』を優先してしまう自分に失望する。

 先輩とは会えなくて良かったのかもしれない。生き生きしているだろう先輩に、動き出せない自分に感じている苛立ちをぶつけてしまうかもしれないから。

 吹奏楽は昔のいい思い出にしよう。わたしは熱いコーヒーをお供に、ディスプレイの中の空想の世界に深く沈んでいった。


 今年二回目になる先輩との会合は、九月後半の金曜日の昼過ぎだった。いつもは夜の居酒屋なのに、その日は先輩の家に呼び出された。アパートの前に適当に車を止めて降りると、先輩の部屋から作業着姿の男性が出て来たところだった。小さめのキャリーバッグを持ったその男性と、すれ違いざまに会釈しあう。ドアから上半身だけをのぞかせて男性を見送っていた先輩が、わたしに気付いてにっこりと微笑む。

「久しぶり。元気そうで良かったよ。ちょっと待ってて」

 そう言って先輩は室内に戻り、すぐに薄手の上着を羽織って出てきた。

「道案内するから、今からそこに向かってくれる?」

 訳がわからないまま言われたとおりに車を走らせると、十五分ほどで目的地に着いた。そこは工務店の名前が書かれた高い壁に囲まれていて、何かの工事をしていることしかわからなかった。

「先輩、ここ何ですか?」

「元、幼稚園」

 エンジンを止めて、車の中で先輩が話すのを聞くことにした。

 松林を背に建つ、個人経営の幼稚園が開園したのは四十年ほど前。当時、建築ラッシュだった住宅街の最奥に位置したこともあり、住人の子供の多くが在園していた。開演して二十年ほどは園児数も多く、田舎らしく土地を贅沢に使った広い園舎や園庭からは明るい子供たちの声が響いていたが、十年くらい前からは子供自体の数が減ったことや、保育園の利用者が増えたことで経営状態が悪化し、五年前にとうとう閉園することになったそうだ。

「ここ、買っちゃった」

「はっ?」

「楽団の拠点にしようと思って」

 そんなポップにこんな重要なことを告げられても戸惑うだけだ。

「詳しいことはぼくの部屋で話すよ」

 頭の中は大混乱だが、事故を起こさないように運転に集中した。部屋に戻ると先輩はお茶とおやつの準備を始めてしまったので、わたしはこげ茶色の三人掛けソファーに座って待った。

 ローテーブルにロイヤルミルクティーとアールグレイのシフォンケーキが置かれた。

「茶葉とケーキを生徒のお母さんにもらったんだ。ケーキは手作りだって」

 先輩はテーブルを挟んで真向かいの床に直接座り、温かいミルクティーを一口すすってからシフォンケーキにフォークを差し入れた。

「宝くじが当たっちゃった。それも一等前後賞」

 自分が猫舌で良かったと初めて思った。まだ、息を吹きかけて紅茶を冷ましていたからこそ、口に含んだお茶を吐き出すという大惨事を避けられた。

「それは、スーパーのお客様感謝イベントとかの宝くじですか?」

「ううん。もっとちゃんとしたやつ」

 二口でケーキを食べ終えた先輩は、何が楽しいのか満面の笑みだ。

「……もしかして、夏のでっかいやつ?」

「そうだね」

「ウソでしょ……」

 重大発表はもっと厳かにしてほしい。少なくとも、ケーキの欠片を口の横に付けたままするべきではない。

「ちなみに、このことは星野しか知らないから」

「何でわたしに?」

「星野だったらこれを聞いても変わらないと思って」

 信頼の証だとすれば光栄なのだが、これはちょっと重すぎる。

「金額が大きすぎるからね。周りの人の人生を狂わせたくはないから」

 高額のくじに当たって人生がおかしくなった人の話はよく聞く。無計画に使って逆に借金を背負う羽目になったり、周囲の人間が金を奪いに来るのではないか、と人間不信になったり。当選者が自分ではなく身近な人間だった場合でも、普段では考えられない欲や感情に囚われるだろう。

「星野だったら大丈夫でしょ? 人との距離感をきっちり保てるし、潔い人だから」

 苦しくなった。わたしはそんなふうに言ってもらえるような人間ではない。ただ、自分を守るために諦めただけなのだ。

「この秘密が漏れないように、部屋の盗聴器チェックもしてもらったんだ」

「そんなバカなことしたんですか。もしかして、さっきすれ違った作業着の人が?」

「そう。びっくりしたんだけど、五万円以上かかるんだね、盗聴器チェックって」

「また、無駄な行動力を発揮して……」

 一般市民には手に余るような大金を手にしても、先輩はいつもと変わらない。彼の方がよっぽど潔い人だと思う。

「それで、これからどうするんですか?」

「そうそう、忘れてた。説明するね」

 先輩のものになった幼稚園は築年数こそ古いが建物の造りはしっかりしているので、リフォームをすれば練習場として問題なく使えるらしい。それと、幼稚園に隣接する空き地も所有者が同じだったため、駐車スペース用にと併せて購入したようだ。

「工期は半年の予定だけど、伸びるかもしれないって」

「それにしても、幼稚園を買ってから一ヶ月くらいで工事が始められるなんて早すぎませんか?」

「コネを使ってみました」

 楽団のメンバーの一人に工務店の重役を務める男がいるそうで、相談を持ちかけると二つ返事で工事を引き受けてくれたようだ。

「お父さんが社長さんで一応は専務の肩書きらしいけど、小さな会社だから実際は営業なんだって。不景気で仕事があまりないから、最優先でやってくれるって」

「でも、個人からの依頼にしては大規模なのに、支払い能力とか疑われなかったんですか?」

 先輩はおかわりのシフォンケーキを台所から持ってきた。どうやらホールでもらったらしいケーキは面倒なのでカットせず、二人で直接つつくことにした。

「相田将平さんていうんだけど、面白い人なんだよ。ぼくがピアノをやってるってだけで、家がお金持ちだと思ってるんだよね」

「……それは、その工務店の未来が不安ですね」

「でも、将平さんの営業力のおかげで何とか会社ももっているみたいだよ」

「営業の力はあるのかもしれませんが、経営となると別でしょう」

 適温になったミルクティーを飲み干すと、先輩が子犬のような目で見上げてきたので、残りのケーキは差し上げた。

「経済学部卒の鬼嫁がいるから大丈夫だって言ってたよ」

「それは、良い奥さんをお持ちで」

 先輩は寝室から完成予定図を持ってきて、楽しそうに説明を始める。

「体育館を合奏スペースにして、教室は広めだから二つに分けてパート練習用に。一階は楽器庫とミーティングルーム。ここが倉庫で、休憩スペースに給湯室。二階には練習室が六つにオーディオルーム。園庭と隣の空き地を合わせると、四十台近く車が止められるんだ」

「素人楽団には贅沢すぎますね」

「どうせやるなら思い切ってね。それに、練習に使わない日中は、近所の人にも使ってもらおうかと思ってるんだ」

「そうですね。維持費や固定資産税もかかりますからね。できるだけ稼がないと」

「えっ?」

 嫌な予感がする。いい歳をした大人が、まさかそんな簡単なことに気付かなかったのか。頭は悪くないのにこういう抜けたことを言ったりやったりするから、メガネの無いのび太って言われるんだ。


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