2
車に乗り込むと、助手席で待っていた先輩がラジオから流れる去年ヒットしたドラマの主題歌に、口笛でハーモニーを付けていた。
「……夜に口笛を吹くと蛇が出るらしいですよ」
「その迷信はぼくも聞いたことがあるけど、どんな蛇なんだろうね。青大将ならまだいいけど、ハブだったら怖いよね。でも、ハブは沖縄にしかいないかな?」
「少なくとも北海道にはいないでしょうね」
よくある『三度』ではない、動きが複雑なハーモニーは美しかった。母親の指導で三歳からピアノを始めた先輩は、日常生活に支障がない程度の絶対音感を持っている。そのうえ、音大で作曲も学んだ彼にはあれくらいのハーモニーを付けることは難しいことではないのだろう。
茶化すことで先輩の口笛を止めてしまった理由はわかっている。ほんのわずかに嫉妬が混じった羨望の気持ちが、わたしの胸を締め付けたからだ。
「それじゃあ、行きましょうか」
「うん。熱々のおでんがと肉まんがぼくを呼んでいる!」
「今、晩ご飯を食べ終えたばかりなんですが?」
ゆっくりとアクセルを踏み込み、タイヤを空転させないように慎重に発車させると、先輩が「あっ」と短く声を上げた。
「どうしよう、星野」
「何ですか?」
「家を出るときにストーブを消した記憶がない……」
わたしはアイスバーンの上を、事故を起こさない程度に急いで走ることになった。
結果的にストーブは消えていた。玄関を開けた瞬間の室内の空気の冷たさでわかった。
「ごめんね、星野。今、ストーブつけてくるから先に車に戻ってて。コンビニも奢るからさ」
先輩の家に行くまでに、三軒のコンビニをスルーした。途中、消防車のサイレンが聞こえてきて、先輩はアニメのキャラクターのようにわかりやすく肩を跳ね上げさせていた。
「アイスも買ってください。カップは小さいのに三百円以上するやつ」
「……もちろん」
先輩宅の最寄りのコンビニに着くと、自棄になったのか、先輩は目に付く商品をどんどんカゴに入れていった。わたしは、ほくほく顔でアイスを吟味だ。定番の抹茶味か、それとも期間限定の新商品か。ここはやっぱり抹茶だな。わたしは、コーヒー・抹茶・紅茶などの『飲み物味』のスイーツに目がない。
「星野、つまみはこんな感じでいい?」
「……体育会系の男子を三人くらい呼べそうですね」
いつの間にか、先輩はカゴを二つ持っていた。そのうえ、二つともあふれそうになっている。
「じゃあ、行こうか。今度は確実にストーブついてるし」
レジのパネルに今まで見たことのない金額が表示されている。恐ろしいのは、まだ会計の途中だということだ。
「あっ、これも」
先輩が会計の途中で追加したのは煙草だった。今まで一度も吸っている姿を見たことが無いので、意外な思いで背中を見つめた。ぴんと伸びた背筋と、思いのほか広い肩幅に驚いたが、レジのお姉さんが告げた合計金額に全てが吹っ飛んだ。
「細かいのがないので、これで」
先輩が出したのはお札三枚。一人暮らしの経験がないのでわからないが、それだけあれば一月の食費になるのではないだろうか。何だか胃が痛くなってきた。
「ありがとうございましたー」
お姉さんの眩しい笑顔に送られながらコンビニを後にし、レジ袋四つを後部座席に置いてから運転席に収まる。一つ息を吐き、大事そうにおでんを抱えている先輩に恐る恐る話しかけた。
「何か調子に乗りました、すみません。わたしも半分払います」
「気にしないでいいよ。今年の目標だから」
「目標?」
「うん。普段は節約をして、使うべきときにはきちんとお金を使うことにしたんだ」
コンビニの駐車場は除雪が下手なところも多く、タイヤが滑ることがわりとある。慎重にバックさせてから方向転換し、車通りの少ない車道に出てから話を再開した。
「使うべきときって?」
おでんの入れ物に顔を寄せながら、先輩は何気なく言った。
「厳密に決めてはいないけど、とりあえず星野は甘やかしてあげるよ」
「甲斐性なしですみません。──おでんの匂い嗅いでるんですか?」
「うん。冷める前に早く帰ろう」
そんなに冷めるのが嫌なのか、先輩は少し苦しいような顔をしていた。
お酒に強い先輩は、一人では呑まないそうだ。酔えないなら水やお茶を飲んでいるのと変わらない。それなら、高い酒より安いお茶を、ということらしい。ただ、味は好きなので飲み会に誘われたら断らないと決めているようだ。
先輩の家に来て二時間強。酒量は人並みのわたしは、アルコールはひとまず止めて、有り難くアイスを食していた。
「男の人じゃないんだぁ」
唐突に居酒屋のおかみさんのことを思い出した。わたしはお酒に酔うと、短い周期でいろんなことを考えるようになる。仕事の悩みに苦しんだ十数秒後には、去年見かけた野良猫の可愛さにうっとりし、また数秒後には近所に住む見合いの斡旋が好きなおばさんのしつこさにうんざりしたりする。そして、たちの悪いことにそれをいちいち口にしてしまうので、共に酒を呑む機会の多い母には「面倒臭い子ねぇ」とよく言われる。
「おかみさんのこと? ちゃんと見れば喉仏の有無とかでわかると思うけど、そこは星野だから仕方がないか」
「まぁ、対人に関するセンサーの感度が低いのは認めます」
先輩は職業柄、人と一対一で向き合っているせいか、相手の心の動きや仕草に敏感だ。
「生徒さんに合わせた指導をしないと、伸びるものも伸びなくなってしまうんだ」と言っていたのを思い出す。
「大恋愛だったみたいだよ。当時、十代の不良少女だったおかみさんが町中で喧嘩していたのを、おやじさんが仲裁に入ったのがきっかけだって。その後、偶然の再会を繰り返し、おやじさんの器の大きさに心奪われたおかみさんが二年掛けて口説き落としたって。憧れるよね」
「意外。先輩もそんなこと思うんですね」
空になったアイスのカップをテーブルに置く。少し手がべたついている気がして、黙って洗面所を借りて手を洗った。
「ぼくも年頃の男の子ですからね。結婚は現実味無いけど、彼女はいてもいいなと思うよ」
勝手知ったる他人の家。洗面所から台所に移動し、冷蔵庫から新しい缶チューハイを取り出した。時刻はもうすぐ十一時。そろそろお開きの時間だろうか。
「先輩は次、何呑みます?」
「こっちにウィスキーのボトルがあるから平気。それより、肉まんレンジで温めてくれるかな」
「了解です」
高校のときから合わせると約十五年の付き合いになるが、先輩と恋愛に関する話をするのは初めてだったような気がする。温め終了の短いメロディを聞き終える前にレンジの扉を開けて、少し温めすぎた肉まんを先輩に渡す。ピンクグレープフルーツの缶チューハイのプルタブを勢いよく開けた。