間奏曲 ~薫~
小夜は、百合子から借りたカシミアのストールを頭から被って首に巻き付けていた。家を出る前は、初めて身に纏う高級品をおしゃれにコートの上から肩に羽織っていたのだが、玄関で合流した将平に問答無用で被せられた。「耳と首が冷えるだろ」と。
「ほらみろ、その方が暖けぇだろうが」
「暖かいですけど、せっかくのカシミアが……」
今日はお酒を呑むために、二人は歩いていんそむにあに向かっている。運動不足の小夜に合わせてゆっくりと歩を進めたが、十分とかからずに目的地に着いた。少し重めの古めかしい木の扉を小夜が開くと、後ろから将平がそれを手助けした。
「こんばんは、薫さん」
「いらっしゃい、小夜ちゃん。──桃ずきんちゃんなんだね、今日は」
「将平さんの仕業です」
パウダーピンクのストールを外しながら将平をにらみつけ、カウンターにまっすぐ進んだ小夜がソファーの端に簡単に畳んだコートとストールとバッグを置いても、将平は入り口近くに立ったままだった。
「将平さん?」
「悪いな、小夜。俺はこのまま帰るわ。ユリのやつ、きっと今頃高熱を出してやがるから」
「えっ、そうなんですか?」
「あぁ、普段は奥二重なのに、微熱があるときれいな二重になるんだよ。夕方から怪しかった」
「それじゃあ、わたしも戻って今日はおいとましますよ」
コートを手に取った小夜を止めたのは、カウンターの中にいた店主の東堂薫だった。
「大丈夫だよ。ユリちゃんは疲れがたまると熱が出るんだけど、たいていは一晩で下がるから。ショウくんが帰るのは、一人にしておくと解熱剤を飲みたがらないからだから」
「そうだ、気にするな。正月は来客の対応で疲れて毎年のように熱を出すから、もう慣れた。帰るときは俺の電話に連絡しろよ、小夜。迎えに来るから」
将平を見送った小夜は、メニューを手に取った。数分間熟読してから薫に声をかける。
「この、発泡日本酒っていうのをください。おつまみは、おまかせで」
「かしこまりました」
酒はすぐに深紅の切り子で出された。初めて呑んだ発泡日本酒は思っていたより呑みやすく、飲み過ぎないように気を付けなければ、と小夜は思った。酒が三分の一ほど減ったところで、小夜の前に皿が出される。
「お待たせいたしました。マグロの生姜焼きです。お好みでレタスで包んで自家製マヨネーズを付けてお召し上がりください」
ぶつ切りにされたマグロに、ぴりりと辛い生姜だれが絡んでいた。そのままだと酒やご飯のお供にぴったりだが、レタスで巻いてマヨネーズを付けてみるとパンとの相性も良さそうだった。
「美味しいです、これ。マヨネーズも少し酸味が強めなのがいいです」
「ありがとうございます」
小夜はしばらくの間、酒を啜りながら黙々とマグロをつついていた。
「今日はあまりしゃべらないんだね。目も合わせてくれないし」
薫の言葉に、小夜の肩が震えた。箸をそっと置いて、酒で喉を潤してから顔を上げる。
「すみません。ちょっと緊張してしまって。この間は、将平さんもいたので大丈夫だったんですけど」
「ごめん、ちょっと意地悪だった。ショウくんから小夜ちゃんは人見知りだって聞いていたのに」
「いえ、大丈夫です」
薫は、小夜に確認をしてからグラスに酒を注ぎ足した。
「この一杯はお詫びの印にわたしからの奢りで。ついでに、もう一つ謝ろうかな。この前のショウくんとユリちゃんの話だけど、あれ、小夜ちゃんのことを試したんだ」
「試す?」
「そう。あれを聞いて小夜ちゃんがどういう反応をするのかを見たかった。ショウくんに恋愛感情を持っていないかどうかを確認しようとしたんだ」
「えぇっ!」
「本当に、ごめん」
驚きでグラスの中身をこぼしてしまった小夜に、薫は困ったような笑みを浮かべながらおしぼりを手渡す。
「でも、安心した。だって小夜ちゃん、ユリちゃんのことが好きって顔してて、ショウくんも完全に娘扱いだし」
「そうでしたか?」
「うん。ショウくん、小夜ちゃんの頭撫でてたでしょ? あれでいて、ショウくんってユリちゃん以外の女の子に簡単に触らないし、触らせないんだよ」
「へぇー」
「ショウくんにああいう扱いされて、トキメキよりも自分が小さな子供になっちゃったように感じてるでしょ、小夜ちゃん?」
「はい。何だか安心します」
そういう君だから大丈夫だと思ったんだよ、と薫は自信ありげに言った。
「二人にはずっと幸せでいてほしい。だって、わたしの初恋の相手なんだ。ユリちゃんは女の子の、ショウくんは男の子の」
そのときに小夜が感じたのは、両手で包んでいた壊れやすくて美しい大事なものを、そっと自分にだけ見せてもらえたような喜びだった。
「そうなんですね」
「うん、そうなんだ。二人には内緒だよ」
薫はそう言っているが、長い時間を共に過ごしている二人は薫の気持ちには気付いていて、二人が気付いていることを薫は承知しているのだろう。それでも薫が内緒と言ったのは、秘密を共有することで小夜との距離を近付けられると思ったためだ。
「はい。秘密にします。指切りします?」
「そうだね。しよっか」
小指同士がそっと交差する。子供の頃には何度も歌った唄を二人で歌って、優しく指を離した。
「久しぶりだな、指切りなんて」
「わたしもです。でも、何だかワクワクしました」
小夜の子供のような感想に、薫は声を出して笑う。
「可愛いな、小夜ちゃん」
カウンター越しに伸びてきた白く繊細な手が、小夜のこげ茶色の髪をかき回す。不意に俯いてしまった小夜に、薫はどうしたのかと少し慌てて名前を呼んだ。
「大丈夫です、すみません、ただ、薫さんに撫でてもらったらドキドキしてしまって、今少し焦っています……」
思いも寄らない告白に薫はその顔に似合わない大きな声で笑い出し、小夜はソファーの上で恥ずかしげにどんどん小さく丸まっていった。
ここまででストックが無くなりましたので、今後の更新は不定期になると思います。すみません。
次の章からは少し恋愛要素が濃くなっていくと思います。
また読んでいただけると嬉しいです。
(次話の更新時にこの後書きは削除予定です)