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ドーナツのプレートは空になり、ミルクティーもあと一口で無くなる。何だか寂しくてボウルを両手で包んでいたら、薫さんのくすくす笑う声が聞こえた。
「ミルクを飲み干してしまった子猫みたいな顔してるよ。次は何を飲む?」
恥ずかしいところを見られてしまった。でも、客は二人だけなんだから気付かれて当然か。
「生姜のおかげで体がポカポカしているので、すっきりする冷たいものをください」
「ティーソーダは飲める?」
「はい」
薫さんの作業を、何となく見てしまう。ケトルを火に掛け、沸騰するのを待つ間にヒーターで暖めてあったティーポットに茶葉を入れて、ロンググラスをカウンターの下から取り出した。ケトルを火から降ろしてお湯を少しだけ冷ましてからポットに注ぐと、リンゴの甘い香りが広がった。
「ティーソーダのフレーバーは毎年、季節ごとに変えるんだけど、今年の冬はアップルなんだ」
アップルティーが氷を入れたグラスにゆっくり注がれると、氷が溶けて紅茶の色が淡くなっていった。温度が下がっていくのを目で見ているようで面白い。グラスの半分ほどまで入れられた紅茶に氷を足し、炭酸水を静かに注いでステアする。最後に飾りのミントを乗せて、薫さんは「お待たせしました」の言葉と共にわたしの前に出してくれた。
「お好みで、こちらの蜂蜜をどうぞ」
口の広い小さな器に入れられた蜂蜜からは、ほのかにリンゴの香り。その香りに誘われて、少しだけグラスに入れてかき混ぜる。
「リンゴの花から採れた蜂蜜なんだ。良い香りでしょ?」
蜂蜜の自然な甘さとリンゴの香りに癒やされ、喉を通る炭酸の刺激が後味をすっきりさせてくれる。
「いつもは、作り置きの紅茶で作るんだけど、今日は初めて来てくれた記念に特別ね」
なれた仕草でウィンクされて、女性だとわかっていてもドキドキしてしまう。
「ショウくんも、お代わりする?」
「あぁ、次はホット・ドラムを頼む」
聞いたことのないお酒が気になって、興味津々でカウンターの中を覗き込む。それを嫌がることなく、薫さんはわたしに説明をしながら作ってくれた。
「これは『ドランブイ』っていうスコッチにハーブと蜂蜜を調合したお酒。これに、レモンジュースとお湯を注いでシナモンスティックでステアすれば完成」
シナモンはそのままに、グラスの縁に薄切りにしたレモンを差して、薫さんは相田さんの前にグラスを出した。一度だけ息を吹きかけて、相田さんはホットカクテルを啜る。熱いものが平気なようで、猫舌のわたしは少しだけ羨ましく思う。
「風邪の引き始めに飲む人もいるみたいだよ。小夜ちゃんも今度はお酒を飲めるときにおいでよ」
「はい。メニューを見たら、飲んでみたいお酒や気になる食べ物がたくさんあるのでそうします」
カクテルを半分ほど飲んだ相田さんが立ち上がった。
「便所行ってくるわ」
「ショウくん、こういうときは黙って行きなよ」
「へいへい」
薫さんの言葉をいなしながら、相田さんは店の奥に消えていった。
「女の子の前であんな言い方して。ごめんね、小夜ちゃん」
「いいえ、気にならないから大丈夫です。相田さんは言葉が乱暴なように聞こえますけど、裏に悪意がないから平気です」
「そう。それなら良かった」
相田さんの皿を下げながら、薫さんはほっとしたように笑った。
「小夜ちゃんから見て、ショウくんとユリちゃんはどう見える?」
突然の質問に驚きはしたが、身内の自分が知らない一面を知りたいのは人間の性のような気もする。
「えーっと。二人とも相手に合わせているのに、決して無理はしていない感じです。それが、相性なのか努力なのかはわかりませんが」
「たぶん、ユリちゃんは努力で、ショウくんは天性のものだろうね。ショウくんは基本的に受け身の人だから。意外かもしれないけど」
それは何となくわかる。相田さんはどんなことでも否定はせずに、まずは受け止めているような気がする。人によってはそれをいいかげんだと感じてしまうかもしれないが。
「小夜ちゃんも気づいたと思うけど、ショウくんはユリちゃんの初恋の相手なんだ。自分に新しい世界をくれた人だからね」
「はい。わかります」
「ユリちゃんは未だに恋をし続けている。結婚して子供を産んだ今でも。だから、彼のためになることならどんな努力も厭わない。良く言えば情熱的。悪く言えば盲目的だ」
その感情の温度の高さは悪いことではないが、場合によっては二人の関係を壊しかねない。相手が受け止めきれなくなる日がやってくる可能性がある。
「でも、ショウくんだから二人の関係は持っているんだ。たぶん、ショウくんは初めて会ったときから今まで、一度もユリちゃんに恋をしていない」
「でも、相田さんは百合子さんに惚れてるって公言してますよ?」
「うん。もちろん、好意はあるんだと思う。でも、それは最初から家族への愛情に一番近い気がするんだ。心身共に弱かったユリちゃんの感情を優先して、ただ受け入れた」
本当にそうなのだろうか。百合子さんの話をする相田さんの表情はあんなに幸せそうなのに。
「それが悪いと言っているわけじゃないんだ。恋愛に決まった形は無いと思うし、ナァくんも生まれて二人とも確かに幸せだろうし」
「どうして、こんな話を?」
不思議だった。相田さんから話は聞いていたかもしれないが、わたしとは今日が初対面だ。いくら身内とはいえ、接客業の人間が客を批判としていると取られてもおかしくない話を、他の客にするなんて。
「どうしてだろうね」
自分に呆れたような笑みを浮かべる薫さんは、それでもさほど後悔はしていないように見えた。
「どうした、二人とも、真剣な顔して」
「遅かったですね、相田さん。大きい方──」
「じゃねぇよ。戻ろうとしたらユリから電話が来て、話してたんだよ」
ソファーに座った相田さんは、わたしの顔をのぞき込んだ。
「で、どうした?」
「ショウくんがユリちゃんに恋をしてないって話だよ」
答えたのは薫さんだった。
「またそれか」
「だってそうじゃない。それで、ユリちゃんは何だって?」
「明日こっちに戻る予定だったんだが、和が風邪気味だからもう少し残るんだとよ」
「大丈夫なの?」
「たいしたことはない。向こうのじじばばが和を帰したくないだけだ」
会話の内容を薫さんがバラしてしまったこともそうだが、この話を過去に相田さん本人にもしたことがあったらしいのに驚く。
「新しいの作り直す?」
「いや、もう帰るからいい」
温くなってしまったホット・ドラムを飲み干すと、相田さんはビジネスバッグから財布を取りだした。
「小夜、もう飲み終わったか? そろそろ他の客が来る頃だから帰るぞ」
「はい。──ありがとうございます」
一月ほど前、相田さんと先輩とわたしで食事に行った。その会計のとき、自分の分を出そうとしたら相田さんに怒られた。自分が一緒のときには財布を出す必要はない、と。甲斐性がないと思われているようで嫌なんだそうだ。だから、今回は黙って奢ってもらう。もちろん、感謝の言葉は忘れずに。
「また来てね、小夜ちゃん。ショウくんも今度はユリちゃんとおいでよ」
「和が小さいうちは難しいな」
「たまにはユリちゃんとデートでもして、ときめきをあげないと飽きられちゃうよ」
「余計なお世話だ」
「『愛してるよ』ってちゃんと言ってあげてる?」
「言わねぇよ。薫は普段『今、息をしています』って言うか? それと一緒だ」
「当然のことだからあえて言わないってこと? うわっ、のろけやがった」
二人の兄弟のようなやりとりが面白い。それにしても、相田さんは百合子さんのことに関して照れたり恥ずかしがることがない。こういうところが薫さんに『恋をしていない』と言わせるのだろうか。
「それじゃあ、帰るわ」
「どれも美味しかったです。ごちそうさまでした」
「ありがとうございました。またのお越しをお待ちしております」
さっきまでの子供っぽさが嘘のように、薫さんはお手本のような美しい礼を見せてくれた。顔を上げたときには相田さんには舌を出していたが。