3
「先輩の負けですね。わたしたちみたいなお子ちゃまが、大人の相田さんに勝負を挑んじゃダメなんですよ」
「だって、星野。たまには一矢報いたいじゃない」
わたしたちが中学生のようにわーわー言い合っていると、相田さんが身を乗り出して運転席の横に顔を突き出した。
「小夜。前から言ってるが、俺のことは『将平』って呼べ」
「えー、わたしは人との間には壁を作っておきたいです」
「そういうことは思ってても口に出すな。じゃなくてな。うちは家族経営だから社内でも下の名前で呼ばれるのが普通で、名字で呼ばれると何か居心地が悪いんだよ」
「追々でいいですか?」
「おまえそうやって有耶無耶にするつもりだな」
「えへっ」
何気なくミラーで後部座席を確認すると、気のせいかもしれないが先輩が微笑んでいるように見えた。
「星野、そこのコンビニで止めて」
指さしたのは、先輩のアパートに一番近いコンビニだった。去年の正月の爆買いは記憶に新しい。言われるがまま駐車場に入り、店の入り口近くに車を止めた。
「買い物したら歩いて帰るから、ここでいいよ」
「ここまで来たら家の前まで送りますよ」
「今朝、雪が降ったでしょ? いつも星野が車を止める場所の雪かきをまだしてないんだよ。だから、ここで」
「そうですか。わかりました」
先輩のアパートは細い道路の突き当たりにある。車道の脇に除雪された雪が積まれているこの時期は、一度アパートの駐車スペースに止めないと切り返すのは難しい。ここは先輩の言うとおりにした方が無難だ。
「じゃあ、またな草太」
「先輩、お疲れさまでした」
「今日は、お疲れさまでした。また」
先輩がコンビニに入るのを見てから車を出した。助手席に移動してきた相田さんが、座席を目一杯後ろに下げている。それでも、百八十センチを超える身長の彼には、わたしの軽自動車は狭すぎるようだ。
「あいつのアパートは自分で除雪すんだな」
「今までは除雪も夏の草刈りも大家さんがやってくれてたんですけど、高齢で体力的に厳しいから今年からは各自でってことになったみたいです。その代わり家賃が安くなったって先輩は喜んでましたけど」
ふいに甘い匂いがした。知っている匂いのようで、それとは微妙に違う。何だろうと鼻をひくつかせていると、相田さんがこっちを見た。
「何だ、俺、汗くせぇか?」
「違います。甘い良い香りがします」
相田さんはコートの襟を両手で広げて、自分の匂いを嗅いだ。そして、何か思い出したのか「あっ」と声を上げる。
「俺、乾燥肌でな。ユリが東京に行く日の朝に、これを使えってボディクリームを置いていったから、それの匂いだ」
それで納得した。覚えがあるのは、百合子さんの香りに似ていたからだ。多分、百合子さんは、自分が使っているフレグランスと同じラインのクリームを相田さんに渡したのだ。微妙な香りの違いは、相田さんと百合子さんの肌の香りの違いだ。
相田さんが腕時計を見た。つられてわたしも車のデジタル時計を見ると、九時を少し過ぎたところだった。
「小夜、次の信号を左折してくれ。ちょっと寄り道だ、おまえも付き合え」
先週、今年最後の締め切りを終え、年内は急ぎの仕事は無い。遅くなってもいいや、とわたしは頷いた。
相田さんに言われるとおりに車を走らせ、着いた先には一軒のお店があった。レンガ造りの外観、入り口の古い木製の扉の上には丸太をただ縦切りにしただけのような看板が掛かっていて、『ナイトカフェ いんそむにあ』と手書きの白文字で書かれていた。
重い扉を開けて店内に入ると、壁はサンドベージュのレンガで、淡いオレンジ色の明かりが印象的だった。光源はテーブルに置かれたランプと、壁の数カ所に掛けられたシェードが和紙の提灯のような間接照明だけで、柔らかい明かりは店のあちこちに闇を残していた。
テーブルは全部で六台。座席はすべてモスグリーンの布張りのソファーだ。驚いたのはカウンターテーブルの低さで、ここにも三人掛けのソファーが二台置かれていた。
「よっ、久しぶり」
相田さんが声を掛けたのは、カウンターの中にいた若い男性だった。年齢は二十代半ばくらい。長めの前髪を真ん中で分けて、サイドは耳に掛けていた。彼は、こんな田舎では見たことがないくらい美しい顔をしていた。
近付いてみてわかったのだが、カウンターの内側の床を下げることで、低いテーブルとのバランスを取っているようだった。
「三週間ぶりかな。ユリちゃんとナァくんは元気?」
「無駄に元気だよ。今は二人で東京に行ってる」
相田さんの声がいつもより優しい。ただの店員と客の関係では無いような気がする。
「ショウくん、こちらのお嬢さんは?」
「前に話したろ。小夜だ」
「あぁ、ショウくんの新しい娘ね」
カウンター席のソファーに座り、店内を観察していたわたしは、店員さんの言葉にずっこけそうになった。
「相田さん、わたしのことどんな風に話したんですか?」
「ん? 年は四つしか違わねぇが、感覚としては娘みたいなやつがいるって言っただけだぞ」
「何ですか、それ」
「お二人さん、ご注文は?」
言い合いになりかけていた空気を柔らかく裂いて、店員さんがミントの香りのするおしぼりを出してくれた。
「そうだった。俺はグリューワインと、ブルーチーズスフレ。小夜はどうする?」
突然言われても困ってしまう。わたしは慌てて近くにあったメニューを見始めた。
「ショウくん、そういうところが駄目なんだよ。彼女はここに初めて来たんだから、すぐには決められないよ。──焦らなくていいからね。こんなパパは待たせてしまいなさい」
メニューから顔を上げると、店員さんが優しい顔で笑っていた。それにしても、綺麗な顔だ。白い肌に奥二重の涼しげな目。小さな小鼻に薄い唇が、彼を日本人形のように見せている。
「あの、おすすめは何ですか?」
優柔不断なわたしは、こういうときにすぐには決められない。ざっと見る限りわたしが食べられないものは無さそうなので、お任せしてしまおう。
「甘い物は平気?」
「はい。大好きです」
「それじゃあ、うちは焼きドーナツが人気だからそれがいいかな。飲み物はどうする?」
「車で来ているので、何か温かいものをお願いします」
「この季節に好評な、黒糖と生姜のミルクティーはどう?」
わたしが頷くと店員さんは奥の厨房に入って行った。いつもは調理専門のスタッフが一人いるのだけど、今日はまだ来ていないのだそうだ。
今さら気が付いたが、ごく小さな音でピアノが聞こえる。BGMにしても小さすぎるのではないのだろうか。今はわたしたちしかいないから聞こえているが、もっと客が入れば話し声でかき消されてしまうだろう。キョロキョロと店内を見ていたのを勘違いしたのか、相田さんが苦笑いしながら言った。
「ここは九時開店だが、客が入り始めるのは十一時頃からだ。それなりに繁盛している店だし、味も悪くないぞ」
「それは心配してません。メニューがこんなに磨耗しているのは、たくさんの人が触っている証拠でしょうし。わたしが気になったのは、照明の暗さとかBGMの小ささとかです」
「あぁ、そこか。それは、店名を見ればわかるだろ」
「いんそむにあ……不眠症でしたっけ?」
「そうだ。ここのコンセプトは、眠れない人間が人寂しいとやって来る店、だ。座席がすべてソファーなのも、眠れそうになったら寝てもいいぞっていう意味だな」
すべてのソファーの背もたれに掛けてある膝掛けが随分と大きいなと思っていたが、これは毛布だったらしい。