二章
二、エーヴの苦闘、アダンの困惑
『それで女はその実を取って食べ、一緒にいた夫にも与えたので、夫も食べた。女の名をエーヴ、夫はアダン。神に禁じられた罪を犯し、こうして二人は永遠の園から追放されることとなった』
メリエール聖典、創世伝第三章より
*
――兄様、アダンお兄様……!
目の前を駆けていく、あどけない笑顔の少女が呼んでいる。時折振り向いては手を振り、また背を向けて、広い草原の先へ走る。ちょうど森の手前までやってきたところで突風が吹いた。
母譲りの茶褐色の髪に結わえた赤いリボンが、外れて飛んでいく。少女――妹のお気に入りのリボンだ。今より幼い少年のアダンは木に登り、枝にひっかかっているのを取ろうと苦戦している。
(だめだ……そんなリボンより、大事なものがあるのに……!)
遠く、懐かしい光景。なのに、今も鮮やかな過去の自分たちを見つめながら、アダンは首を振った。
あともう少し。もう少しで手が届く。やっと取り戻したリボンを、笑顔で妹に見せようと掲げた。その瞬間だった。
嫌な風が、また吹きぬけた。
アダンが目を閉じ、また開いた時には妹の姿は消え、脱げた片方の靴だけが草の上に残されていた。もう片方は、そばの湖に浮かんでいて――。
「エーヴ……っ!!」
悲痛な叫びと共に起き上がったアダン――あの日亡くした妹の名を名乗っているエーヴは、大きく息を吐いた。全身汗だくで、手足の先まで冷たくなっている。握り締めていた右手には、自身の爪の跡がついていた。
「くそ、嫌な夢見ちまったな」
最近見ていなかった、六年前の悪夢だ。いや、あれは夢じゃない、紛れもない真実。すぐそばにいながら、アダンは妹のエーヴを助けられなかった。広大で深い湖から遺体は上がらなかったが、森のどこを捜しても見つけられない以上、結論は一つだった。
あれは、葬儀の日。いや、葬儀を出す予定であった日の朝。目覚めたアダンは、『エーヴ』になっていた。妹と同じ茶褐色の髪と瞳をした、少女の姿に変わっていたのだ。といっても年齢は変わらず、当時の妹より五つは成長したような風貌だった。
けれど、嘆き悲しみ、ふせっていた母はそんな違いを気に留めなかった。歓喜に満ちた笑顔で、彼女は叫んだのだ。
『私のエーヴ……やっぱり死んでなんかいなかったのね! おかえり!』と。
あの瞬間から、『エーヴ』と『アダン』の二重生活は始まった。それが当人に、そして周囲に多大な影響を与えると知っていれば。今更そう思っても、時は戻せない。
悪夢の余韻になど浸っている時間も暇も、今のエーヴにはなかった。再び裾を乱し、いや、既に抱え上げながら走り続けるのは、またも聖堂に向かっているためだ。
「はあ、はあ……くっそ! だから遠いってんだよまったくっ! なんで朝から礼拝なんてやらなきゃいけねーんだっての!」
もう道筋は覚えたし、昨日の入団式後、遅刻についてもこってり絞られたから二度は避けたい。と懸命に走ったおかげで、礼拝開始時刻である七時前に聖堂に到着できた。が、中には誰もいなかった。
「あれ? なんだよ……せっかく人がやる気出して来たのに」
昨日の、予想外のお祭り騒ぎには正直驚き、ここに来たことを後悔もした。それでも一度入ったからには頑張ろうと決めた。今日からひと月間、『従騎士』として様々な修練の生活にも耐えようと。それが終わって正式な叙任を受け、『騎士』になるまでの辛抱なのだから。
しかし決意がいきなり空振りし、エーヴは唖然と周囲を見回す。
「おや、あんた……エーヴだっけ? 何してるんだい、朝からこんなところで」
後ろから暢気な声をかけてきたのは、マダム・ソレイユだった。花瓶の花を取り替えにでも来たのか、白い百合の束を抱えている。
「え、何ってもちろん、朝の礼拝に来たんですけど。皆さんどちらへ行かれたんでしょう?」
少女らしい笑みを作って訊ねると、マダムは首を傾げた。
「礼拝があるのは毎週日曜の朝だけだよ? 団員ならまだ来てないし、新入りさんたちは皆、朝の清掃中のはずだけど」
「清掃?」
「そうそう、曜日ごとに決められた場所を皆で掃除するのよ。確か今日は正面の東館、ほら昨日の応接間がある館の、玄関ホールだったはずだよ」
「東館!?」
ここは西館寄りだから、また先ほどの中庭を突っ切って戻らなければいけない。
「そうだよ。あれ、もう七時過ぎてるねえ。急がないとまた……」
「あっ、ありがとうございましたマダム! じゃああたしこれでっ!」
エーヴが慌しく駆けていくのを見送り、マダム・ソレイユは小さく嘆息した。
「かわいそうに、早速目をつけられちゃったんだねえ。この女子の園で、しかも『麗しの君』をぶん殴っちゃったんだから、ある意味仕方ないことだけどもさ」
気の毒そうに細められていた眼鏡の奥の瞳は、しかし楽しげにエーヴの姿を追う。既に遠く、庭園を全速力で走っていく元気な少女。
「ふふ。でもあの子なら負けなさそうだわ。こりゃ、楽しくなりそうだ」
そんなマダムの期待はさておき、およそ十分後、東館の玄関ホールではまた騒動が始まっていた。
「エーヴ・スペリエッ!」
「はいいっ!」
直立不動で立ち止まったのは、今駆け込んできたばかりのエーヴ。仁王立ちで睨みつけるのはセレストだ。昨日も立っていた青筋が、今朝も立派に健在である。ちなみに、入団式の後に遅刻について――加えて先輩であるジルを殴ったことについても、こってりとエーヴを絞ってくれた張本人だった。たっぷり十枚には及ぶ『反省文』を書かされた時と同じ、嫌な汗が吹き出る。
「君は……私が懇切丁寧に教えた『新規団員の心構え』について理解するどころか、反省さえもないようだね」
眉間に皺を寄せ、セレストは低く言う。
「いいえ決してそんなことは! そうじゃなくて実は……」
「言い訳は聞きたくない! とにかく君がまた遅刻をした、という事実が問題なのだ。そもそも、新規団員に課せられたこの清掃には、きちんとした意味がある。この『華麗なる騎士劇団』の団員として自らの聖域を清めながら、心も同時に清めること。そしてこの騎士劇団への愛着を深めること。『従騎士』として大切な心構えだというのに、君は……!」
「あの、セレストさん!」
「セレスト『副騎士長』だ」
青筋が一本増えた。
「ふ、副騎士長様! 恐れながら、あたし、いえ、私はその掃除について、一切説明を受けておらず……!」
セレストの青筋が更に増えることを予測しつつも、エーヴは弁明せずにはいられなかった。だって、事実なのだから。
「説明を受けていない、だと?」
「はい! 掃除ではなく礼拝があると教えてもらって、今も聖堂に行っていたのです」
そこでマダム・ソレイユに教えてもらったことも話すと、セレストは厳しい顔で周囲を見渡す。先に来て掃除をしていた残りの四名から、一人を名指しした。
「君――モニク・ド・ビュケ。確かこの中で首席入団だったな」
「はい、セレスト副騎士長」
癖のある赤毛を後ろで一つに束ねた、一番背の高い少女が進み出る。彫りの深い美しい顔立ちだが、瞳の冷ややかさがそれを鋭利な印象にしていた。
「首席入団者には同期入団の全員を監督する役目が課せられている。この清掃に関しても、君から全員に伝達するよう頼んであったはずだが」
「もちろんです。私から全員に伝えました。ああ、でも、エーヴ・スペリエさんに関してはその場におられなかったので……」
「ほら、やっぱり!」
エーヴがほっとしたのも束の間、モニクは後方にいた二人に目をやった。
「彼女たちが代わって伝えてくれると言うので、任せました」
「そうです。私たちから確かに伝言しておきましたわ。ねえ? ロラ」
「ええレア。間違いありません、副騎士長様!」
エーヴの驚きをよそに、小柄な少女二人組は断言した。セレストがため息をつく。
「皆がそう言っているんだ。君が忘れただけじゃないのか? 自分の怠慢を他人のせいにするつもりか」
「いいえ、違いますっ!」
「ならば君か彼らか、どちらかが嘘をついているということになる。大体その、君に礼拝があると伝えた人物は誰なんだ? そんなでたらめを伝える者など、この騎士劇団員にいるとは思えないんだが」
「誰かは知りませんけど、嘘じゃありません! 確かにいたんです、あたしの部屋にこの手紙を届けてくれた人が……」
「手紙?」
頷き、懐から手紙を取り出す。今言った通りの内容だが、差出人の名前はない。
「ふむ。これは妙だな……一体誰がこんなものを」
とにかくこれで事態は好転する、かと思いきや、セレストは渋い顔のままだ。
「誰が書いたものかわからない以上、遅刻の理由として受け入れるには不十分だ。新規団員監督官として、私は君に厳しい処分を下すこともできる立場にある。不適格者とみなせば、それこそ入団取り消しという事態もあり得る話だが……」
「そんな、セレスト様っ!」
思わず悲痛な声を上げたエーヴの背後で、くすくすと、密やかな笑いが聞こえた。モニクの両隣の二人からだ。
(もしかして、こいつら……?)
エーヴの入団取り消しを喜ぶ気配。次のセレストの発言が、そんな空気を牽制する。
「というのは、あくまでも最悪の場合だ。君が虚偽の発言をするような人間ではないと私は信じているし、それはモニク、君たち三人も同様だ。よって、三人は今後こういう間違いがないよう十分に留意すること。そしてエーヴ、君には再度、私自ら『心構え』の確認を行う。今日の修練終了後、夜に指導室へ来るように」
(よかった……って、よ、夜だとおっ!?)
明らかに眉根を寄せた二人組のことなど、今のエーヴの視界には入っていない。それよりも重大な、そう、一番の危機に面しているからだ。
「どうした? 我ながら寛大な処置だと思うが。わかったらエーヴ、君も掃除を始めなさい」
「いや、えっと、その……」
「何だ、やはり入団取り消しのほうがいいとでも?」
喜びの気配がまた空気に混ざる中、エーヴの額に冷や汗がつたう。なんとかうまく逃れようと口を開いた、その時だった。
「おはよう、親愛なる騎士淑女諸君! まったくもって良い朝だね」
広い玄関ホールにそのまま響き渡る明朗な声。低く滑らかなのに、甘さと爽やかさを感じさせる声の主は、銀の長髪をなびかせながら歩いてきた。
「ジルベルト・ド・ブラン!」
叫んだ声音は、皮肉にもセレストと全く一致していた。思わず顔を見合わせ、エーヴは慌てて彼女の背後に隠れる。当然ながら、ジルにはすぐ見つかってしまったが。
「かくれんぼかい? 子猫ちゃん」などと楽しげに覗き込まれ、エーヴは渋々頭を下げる。
「昨日はすみませんでした。思いきり殴ってしまって、腫れたりしてませんか?」
「ああ、大丈夫だよ。これでも鍛えてるからね。僕のほうこそごめんよ、少しおふざけが過ぎてしまった」
ジルはにこやかに答え、優雅に一礼する。
実は結構心配もしていたのだが、平気そうでほっとした。妙でも何でも女は女だ。仮にも男の自分が手を上げていいはずがない。本当に反省もしていたエーヴを、ジルが覗き込む。
「なっ、何ですか」
「いやだなあ、そんなに毛並みを逆立てて警戒しなくてもいいのに」
「そりゃしますよ! って、毛並みなんかありません!」
「あるじゃないか、ここに。そうか、子猫じゃなくてこれは子馬ちゃんだな。だってほら、素敵な尻尾だ」
ジルが触れたのは、エーヴの後ろに結んだ髪だ。高い位置で束ねたそれは確かに、『馬の尻尾』とも呼ばれる髪型である。
「触らないでくださいっ! うわあ、離してっ」
逃げようとしてあっさり捕まってしまったエーヴは、じたばたと暴れる。髪を掴まれているせいで動けないのをいいことに、ジルは耳元で囁いた。
「昨日の恋文、しかと受け取ったよ。セレストが届けてくれたんだ」
「恋文?」
「そう。『反省文』なんて無粋な名が付けられてはいたけれど、そこに込められた君の真摯な想いは伝わったよ」
「想いって何のですか! あれに反省以外の意味なんて……っていうか髪を離してくださいってば!」
「つれないなあ、僕の子馬ちゃんは。さらさらで綺麗だから、もう少し感触を楽しみたいのに」
髪の束に頬ずりしようとするジル。ついにエーヴの額にもぴきりと青筋が立った。
(前言撤回。やっぱこいつ、あと一、二発殴っておくべきだったかな)
「離せって言って……!」
エーヴの拳に力が入りかけた時だった。
「いいかげんにしろジルベルト! また昨日の二の舞になりたいのか?」
意外にもあれほど説教した側のセレストに背に回してかばわれ、驚きつつ礼を言うと、「君とは気が合いそうだからね」と苦笑された。
(昨日のあれは、副騎士長だったのか)
『真理だ』と感心してくれた声――変態色魔とジルを評したエーヴへの言葉だ。
「立場上君の暴力は叱ったが、同期としては詫びておこう。ジルの奴は悪ふざけが過ぎる癖がある。同性の我々にああやって絡んではくるが、別に本気で迫っているわけではないんだ。人恋しいのか何なのか……私も辟易する時があるが、ジルにとっては遊びのようなものなんだ。よく注意しておくから、理解してやってくれると助かる」
小声で素早く伝えられ、エーヴはおずおずと頷いた。何だ、本物の変態ではなかったのか。それにしても度の過ぎたお遊びだ。
エーヴをかばった体勢のまま、セレストは再びジルを糾弾する。
「一体ここに何しに来た? 今日は午後から台詞合わせだったはずだが。しかも万年遅刻魔の君が、こんな朝早くに」
「そんな不名誉な呼び名を頂いているにも関らず目が覚めてしまうほど、少々反省していてね。あわてて訂正しに来たんだけれど、間に合わなかったみたいだ。ああ、僕は何と罪深い人間なのだろう」
「意味がわかるように説明しろ」
呆れ顔のセレストを、ジルは悲しげに見つめる。
「僕なんだよ。礼拝があると伝えたのは」
「何?」
「だから、僕がその手紙を届けたんだ。昨日ふざけ過ぎたお詫びにと思ったんだが、僕の勘違いで逆に迷惑をかけてしまった。睡眠不足が続いて、曜日の感覚が狂っていたんだ。本当に悪いことをしたね」
最後はエーヴに向かって言い、ジルはモニクたちにも頭を下げてみせた。優雅な、王族のようなお辞儀だ。
「僕のせいで君たちにも嫌な思いをさせてしまった。許してくれたまえよ、美しく初々しい新規団員の諸君」
「そんな、とんでもありません……!」
朝日に輝く銀髪と、澄んだ薄紫の双眸。その希少な色彩に負けぬ完璧な美を宿した容貌で見つめられ、不服そうだった二人組も赤くなっている。
「そういうことだったのか。結局いつも人騒がせなのはお前だな、ジルベルト」
「自分でも同感だよ、セレスト。こんな僕を許してくれるかい? 子猫ちゃん」
再び歩み寄られ、身を引きつつも、エーヴは小さく頷いた。が、内心では首を傾げていた。
(こいつが手紙を? いや、違う。あれが届けられた時にはまだ医務室で寝ていたはずだ。直接謝れないからと反省文を書かされたのに)
訝しげに見ていると、思い出したようにジルが続ける。
「ああそれからセレスト、夜には僕と稽古をする約束じゃなかったかな?」
「ん? 確か明日のはずでは」
「そうだっけ? 今日なら珍しくやる気になっていたんだけど、明日はどうかわからないなあ。やっぱりやめておこうかな」
「何をふざけたことを……しかし、合わせられる回数が多いに越したことはない。珍しくお前から言うのだから、きっちり稽古してもらうぞ? 仕方がない、今回はジルのせいでもあったのだし、君への指導はとりやめにしよう。だが、遅刻は以降厳禁だ。わかったな、エーヴ・スペリエ」
「はいっ!」
何が何だかわからないが、助かったことは確かなようだった。とにかく掃除を再開するようにとの指示を残し、セレストはホールから立ち去っていく。
「では僕もこれで」
サリュー(またね)、とキスを投げてジルも後へ続いた。玄関扉が閉まる前に、追いついたセレストに例によってじゃれついている様子が見えた。
(何だったんだ、一体)
呆然としつつ、わかったことは二つ。自分は結果的に、あのジルに助けられたのだということと、どうやら――。
ふと振り返った先で、目が合ったのは赤毛の首席入団者だった。
「えっと、モニクだっけ? よろしく!」
握手のために差し出した手は無視された。無表情で、目の前に立たれる。
(くそ、こいつにも見下ろされてる)
決して女としては背が低くない、どちらかと言えば高いほうの自分。それがここではジルにもセレストにも、このモニクにまでも負けているなんて。
ひきつりながら愛想笑いをしたエーヴをねめつけるのは、琥珀色の冷ややかな瞳。
「私は、穢れた手の方と握手をする趣味はありません」
「へ?」
思わず手を見るが、もちろん汚れていない。先ほど口添えをした二人組が鼻で笑い、モニクの両脇に寄った。ちなみに二人とも金髪の巻き毛で似た顔立ちのため、区別がつきにくい。
「はっきり言ってさしあげたら? モニク」
「そうよ。正規入学した私たちが、裏口で入ったような人に遠慮する必要はないわ」
「裏口?」
「あら、今更とぼけるおつもり?」
「図々しくも一人部屋を要求した挙句、恐れ多くも劇団の星であるジル様に対しての暴力的態度! 絶対におかしいと思ってマダム・ソレイユを問い詰めたら、教えてくださったのよ。あなたの後見人のこと」
「宮廷貴族のバレーヌ伯……今大人気のロマンス小説家の姪でいらっしゃるとか。彼は王妃様にも気に入られているほどの方ですもの。姪のお一人くらい、寄付金を弾んで入団させることなんて簡単なのでは?」 あっという間に囲まれて、エーヴは唖然とした。危機を脱したかと思えば、また新たな危機に陥ったというわけだ。しかし、今度はエーヴに恐れる必要はなかった。
「裏口なんてとんでもない! あたしはちゃんと王都で試験を受けて、合格したから来たんです」
そうだ。間違いなく、毎年春の初めに行われる入団試験を受け、突破したのだ。
まずは家柄。今では平民にも門戸は開かれているふれこみではあるが、実質的には騎士の叙任を受けられる水準――つまりは良家の、しかも十五歳以上の未婚の女性にのみ、受験資格が与えられる。そこで選ばれた者だけが王都の試験会場に呼ばれ、主にこの国の歴史や文化、行儀作法や舞踏技術に至るまでの筆記・実技試験を受ける。それで先へ進めた者は、乗馬や剣術などの運動能力試験に挑む。最後の項目は、やはり『騎士団』として発祥したものであるが所以だ。
ここまででほとんどが振り落とされ、最後の面接にまで合格できるのはごくわずか。毎年全国から集まった数十名の中の、たったのひと握りだけだ。運が悪ければ一人だけのことも、合格者自体なしの場合もあるとか。それが四人も同期がいて、しかも少し、いや、かなり嫌われている。なんとも複雑な心境だ。
「合格? 本当なのかしら」
「失礼な! あたしは不正は大嫌いなんですっ!」
いくら絶対に合格したかったとは言っても、裏口で入団するほど落ちぶれてはいない。
「怪しいものだわ。じゃあなぜ一人部屋なのよ」
「それは……」
ぐっと言葉につまるエーヴ。確かに、そこにだけは『バレーヌ伯』の名を利用させてもらったからだ。受験資金等への協力もしてもらっている。が、それは他者に迷惑をかけるものではないはずだ。
「マダムにも言ったとおり、あたしはひどいイビキと寝言と歯ぎしりで……」
目が泳いでしまうのは避けられず、皆を説得するのは無理だったらしい。冷たい視線と嘲笑が返ってくる。
「とにかく、裏口なんか絶対にしてません! 受験を決めて一年、それはもう夜も眠れずに必死で努力して、頑張ったんですから」
南の田舎の小さな領地とはいえ、一応領主の息子である。最低限の教育は受けているから、最初の筆記と実技は余裕だった。一番苦労したのは舞踏だ。それこそ王都で一年、叔父夫妻から毎日特訓され、なんとかこなした。まあそこだけ突破してしまえば、後の乗馬や剣術は楽勝だったのだが。
しかし胸を張ったエーヴは、小ばかにされただけだった。
「一年ですって? 冗談ではないわ。私たちなど、最低でも二年。中にはこの騎士劇団が成立した五年前からずっと準備してきても落ちた子だっているのに」
「やはり裏金よ。そうに決まってる」
「違うって!」
思わず睨みあう形となったエーヴと二人を止めたのは、いつのまにか聖堂から戻ったらしいマダム・ソレイユだった。今度は両手に山積みの書類を抱えている。
「おやおやあんたたち、何をやってるの? 早く掃除を終えないと修練に間に合わなくなりますよ」
その一声で身を翻し、二人は平然と掃除を始める。エーヴは呆れてため息をつくしかなかった。
「所詮田舎育ちの成り上がりですもの。きっとそのうちボロが出るわ。いいえ、もう出ているじゃない? だって昨日のあの話し方、まるで町のごろつきみたいで」
「本当だわ。私たち由緒正しい王都の貴族の娘とは大違い。きっとジル様のお戯れも、すぐ飽きておしまいになるわよ」
なんとか掃除を終えた頃、エーヴの耳にかすかな嘲笑が届く。彼女らもマダムも姿が見えなくなったことを確認してやっと、エーヴは持っていた雑巾を床に投げ捨てた。
「あーくそっ、女ってめんどくせえ!!」
結った髪もこの鬱陶しい修道服まがいの制服も、全部ぐちゃぐちゃにしたいくらいの鬱憤。でも、これも全て、わずかでも本来の自分に近い姿で生活するための我慢だ。なんとか耐え抜いてみせる、と拳を握り締めたエーヴだった。
その、ほんの数分後。
まさに先ほどの誓いと、そのために必死で固めた決意が、脆く崩れ去ろうとしていた。新規入団者のための最初の修練、という名の講義の時間。西の城館内部、講義室でのことだ。
「え……なんであた、いや、私が『女』なんですか?」
震える手でエーヴが握っているのは、希望を提出していた書類である。訂正された赤字の箇所を指して訊ねると、担当教官は平然と微笑んだ。
「あら、だって身長が足りてないんですもの。仕方がないでしょう?」
「身長?」
「知らなかった? 男性役をやるためには、身長百七十ギルを越えていないといけないの。やはり見た目でも格好良く見えないしね。あなたは百六十七ギル、女性にしては高いのだけど三ギル足りないのよ」
「そんな! たったの三ギルじゃないですか!」
「規則は規則よ。はい、次モニク・ド・ビュケ、あなたは百七十一ギルだから問題なく男性役ね。なかなか規定を満たす人材は揃わないものなんだけど、今年はあなたがいてよかったわ。頑張って、素敵な男性を演じてね」
「はい、教官!」
(嘘だろ……この俺が、女役だと!? それじゃあ何のために必死で入団したのか、わかんねーじゃねーか!)
脳内で叫んだエーヴの耳に、例の取り巻き――もとい金髪二人組のひそかな笑いと囁きが届いた。
「言葉遣いだけなら合格だったかもしれないけど、ねえ」
「でも、素敵な貴族の紳士役なんて到底無理じゃない? せいぜい下僕、とか」
振り向いて軽く睨むと、「まあ怖い」などと口に手を当てる始末だ。
「はいはい、注目! まだ終わっていませんよ。皆さんもご存知でしょうが、我が騎士劇団では、男性役を『紳士』、女性役を『淑女』と呼んで区別しています。それぞれ呼び名にふさわしい所作や立ち居振る舞いを身に着けるように」
外でたまに呼ばれることでさえ嫌なのに、ここでまで『淑女』だなんて冗談じゃない。なんとか抗議しようと立ち上がりかけたエーヴは、最後の一人が呼ばれるのを目にした。
「リディアーヌ・ド・コルトー、あなたはもちろん『淑女』ね。念願かなっての入団、本当におめでとう」
優しい教官の言葉に、感極まったように頷いてお礼を言うリディアーヌ。ほっそりと華奢で、いかにも貴族の令嬢という雰囲気だ。亜麻色のふんわりした髪を背に流した、澄んだ薄緑色の瞳の少女。
(うわ、すげー可愛い……!)
そういえば同期入団は五名、彼女が最後の一人ということか。あまりに儚げな印象で、モニクたちの陰に隠れて目立たなかったようだ。ついまじまじと見ていたら、目が合った。
「ここ、よろしいかしら?」
遠慮がちに訊ねられ、気づけば了承していた。しずしずと隣に腰掛けるリディアーヌの髪から、トワレの良い香りがする。
「わたくし、実は三度目の受験でしたの。どうしても最後の剣術と乗馬が苦手で……」
ほんわかした話し方と花の開くような微笑みで、恥ずかしそうに囁かれた。
確かに無理もないと納得する。女性役を演じそうな受験者には、剣も実際より短く軽量なものにしてはくれるらしいが、それでもとても振り回せなさそうだった。(ちなみにエーヴは、手加減など無用だと本来のもので通したが)
「でもこうして入団できて、あのきらびやかな舞台に立てるなんて、まるで夢のよう……エーヴさんも、そう思いませんこと?」
「え、あ、うん。そうだよね」
「まあ、落ち着いていらっしゃるのね。わたくし気が弱くて、実は寄宿舎での共同生活も不安でたまりませんのに……どうか同じ『淑女』同士、仲良くしてくださいませね」
きゅうっと小さな手で右手を握られて、思わず左手を重ねた。慰め、励ますように。
「もちろん、任せておいて! 一緒に頑張ろうね、リディアーヌ!」
(ってこらこら、俺! 何やってんだー!)
気づいた時にはもう教官は退室していて、エーヴはひそかに肩を落としたのだった。
*
夜がやってくると同時に、エーヴ――アダンは城を抜け出した。別に脱走というわけではない。少し、憂さ晴らしがしたかったのだ。
こんな時のために持参してあった男物の目立たない衣服を着て、近隣の村の若者に見えるよう変装も済ませてある。護衛兵の警備が手薄な箇所から城壁を乗り越え、裏門に回り、門番交代の隙をついて外へ出たのだ。
ほどなくして辿り着いたのは、近くに点在する宿場町の一つ。一軒の酒場に落ち着いたアダンは、被っていた帽子を取り、息を吐いた。
「おやじ、ワインと、あと適当につまむものを頼むよ」
はいよ、とあっという間に出されたのは、豆のスープに野菜と茸のキッシュ。特に後者は、ここエルワール地方の名物だけあって店の定番メニューらしく、客のほとんどのテーブルに出されていた。アダンも早速豪快に切り分け、口に運ぶ。
「うん、うまい!」
生クリームと卵、それに具材も新鮮で、さくさくしたパイ生地も美味だ。スープを飲み干し、たっぷり注がれた赤ワインの杯を数度空ける頃には、冷えていた体も温まっていた。
「あー……やっぱこれだよな」
本来の姿で、周囲の目も気にせず過ごせる時間。まさにこの夜の間だけ、自分は真実生きている気がする。
昼間にも、たとえ一時の偽りであってもいいからこの感覚を味わいたい。そう思って、頑張ってここまで来たのに。
(それが『女』を演じろ、だと? なんでこうなるんだよまったく……!)
アダンが嘆息し、ワインのお代わりを注文しようとした、その時だった。扉が開き、新たに来店した客の一人にふと目を引かれた。
まだ肌寒い春の夜。森にたちこめる霧と夜気から身を守るためであろう、薄手の黒い外套姿の、細身の男。背はアダンと同じか、少し低いくらいだろうか。目深に被られたフードで顔は見えないが、歩き方や仕草にどことなく上品な雰囲気が漂っている。
なんとなく目が離せないでいるうちに、男は店の奥、周囲の客から離れた一角に陣取った。外套も、フードすら取らない彼のテーブルに、白ワインとチーズの皿が届く。
(そういえば、あれもここの名物だっけ)
独特の匂いがあるシェーヴルチーズは山羊の乳から作られたもので、さくらんぼのジャムと共に食すと臭みが消されていい具合になるらしい。というのは不要なうんちくの類をよく知っている叔父から聞いた話だ。でも、あれは確か、
「ようよう、兄ちゃん。まるで女みたいな注文の仕方だよなあ。そんなんで酒がうまいかい?」
ちょうどアダンが考えた通りのことを言い、客の一人がほろ酔い顔で男に近づいた。顔も伏せたまま、相手にされなかったことに腹を立てたのか、酔っ払い客は更に絡み始めた。
「なんだあ? 気取りやがって。わかったぞ、どっかの貴族のお忍びだろう。ふん、隠したって金持ちの匂いがぷんぷんするぜ。おい、顔を見せやがれってんだ!」
フードにかけられた手を男は振り払った。しかし皮肉にもその勢いでフードは外れ、ついに風貌があらわになる。店の薄明かりでもすぐにわかる、きらめく銀色の長い髪。白く滑らかな肌は怒りのためか上気して、薄紫の瞳はきつく細められていた。
「ジルベルト・ド・ブラン……!」
思わず叫んだのは、アダンだけではなかった。誰もが口を中途半端に開けた状態で固まり、突然出現した場違いな存在を見つめるだけ。
それも仕方ないだろう。さびれた小さな酒場で、客はといえばどいつもこいつも男ばかり。凛とした立ち姿のジルは、存在感といい、美しさと輝きといい、どれもが群を抜いている。さながら、泥の中の宝石だ。
「こっ、こいつぁとんだご無礼を……まさかあの有名なジルベルト様がこんなところに来られるなんて、夢にも思いませんで」
呆けていた酔っ払いの連れであるらしい男が、あわてたように頭を下げさせる。しかし一応の謝罪が済むと、店内のざわめきはより大きくなり、客たちの顔はにやつき始めた。
「お一人で気晴らしですかい? ご立派な騎士様のご身分とはいえ、女性が一人で来るようなところじゃございませんぜ」
「そうそう、いくらお強くても過信はいけねえ。物語の中とは違って、現実の男ってえのはついつい度を越しちまうもんだ。しかもこんなにお綺麗じゃあ、ふらふらーっと迷っちまうのも男の性分、ってなあ」
言った一人が、酔ったそぶりでジルの手に触れる。眉を寄せた彼女が振り払うと笑いが起こり、男たちの悪ふざけはそれで終わらなかった。ある者は肩に、またある者は腕に、そして胸元に――と次々伸びる手を、ジルは全て払いのけた。その本気の度合いを示すように、最後の者は滑って床に転がってしまうほど強く。
「僕に触れるな……この穢れた蛆虫ども!」
叫ぶ声は、アダンが聞いたことがない真剣なものだった。いや、むしろ必死、とでも言うべきか。真っ青になった顔で、引き結ばれた唇はかすかに震えている。
(ジルベルト……?)
本当にあのジルか、と疑いたくなるほど、今まで見てきた印象と違う。しかし怪訝に思っている場合ではなかった。
さすがに『蛆虫』と呼ばれたのは初めてだったのだろう。元々酒が入っている男たちは、かっとなってジルを取り囲む。
「何だとこの女! 優しくしてりゃあ調子に乗りやがって!」
「格好つけても本物の男にゃかなわねえってことを、身ぐるみ剥いでその体に教えてやろうか、ああ!?」
怒声を浴びせられても、ジルは気丈にも男たちを睨みつける。けれどアダンには、腰に刷いた長剣に添えた手まで震えていることも、その剣がおそらくは偽物であることもわかっていた。
『騎士劇団』はあくまでも劇団。騎士の資格は有していても、実際に剣を振るうことを目的とした組織ではないし、そうあってはならないのだ。その名目を守っているからこそ、王立以外の希少なる騎士団として、今の時代にも存続を許されたのだから。
「本物の男がお前たちのような人間だというなら、世の男という存在は、全てとことん下衆だということだな。低俗の、野卑な糞野郎。いや、それ以下だ」
震える手で剣の柄を握り締め、それでもジルは言い放った。ひそかに口笛を吹くアダンの見つめる前で、更に続ける。
「糞を斬るのはごめんこうむりたいが、どうしてもと言うならかかってこい。その体に、本物とはどういうものか、思い知らせてやる!」
「あーあ、言っちゃったよあいつ」
頭を抱えた一瞬の後、アダンは動いた。酔っ払い連中が逆上し、飛びかかろうとする。その一歩手前で、彼らとジルの間に割り込んだのだ。そのままジルの肩に腕を回し、強引に引き離す。
瞳を見開いたジルが新たな怒りを発する直前、アダンは素早く先手を打った。
「はいはいそこまで! 迫真の演技だったよジル~皆さんも知らぬとはいえ、いい雰囲気出してくれてご苦労さん!」
「ああ? 何だお前は」
「こいつ、さっきまで黙って飲んでた奴だぜ」
「そ、黙って見守ってたよ? なんたって、我が劇団の星、ジルベルト様の役作りのためだからね~」
わざとらしくニカッと笑ってみせると、客たちは唖然とし、ジル当人も目を剥く。それがアダンの狙いだった。
「うちのジルは熱心でね~、今度の公演の役作りに、本当の酒場で喧嘩してみたいってもう聞かなくて。いやそれはさすがに危ないって止めたんだけどもだめでさあ。でもこれで気が済んだだろ? ジル」
突然のことに固まっていたらしいジルが、我に返って離れようとするのを力で止める。彼女にだけわかるよう目配せし、アダンは半ば強引に扉へ向かった。
「というわけで、皆様どうもお騒がせしました! あ、言うまでもなくさっきのあれはぜーんぶ台詞なんで、忘れてくださいね。いやぁ~皆さん運がいい! あのジルベルト様の役作りに協力できるとはねえ~! これでいい芝居になります。ありがとう、ありがとう! はっはっは!」
「おい、お前……っ」
しっ、と人差し指でジルを制し、大げさなほどにお辞儀をする。ついでに店主に二人分の飲み代以上の金を渡し、この場を完璧に収めたアダンは、ジルを引き連れて外へ出た。呆然としていた客たちが沸き、笑う声と会話が漏れ聞こえてくる。
『なんだ、役作りか』『そりゃそうだよな』『まさかあのジルベルト・ド・ブランが一人で飲みに来るわけないし』云々、云々。アダンが安堵の息を吐くのと、ジルが力を込めてその腕を振り払うのとは全く同時だった。
「一体どういうつもりだ!」
「どういうも何も……一応、人助け?」
肩をすくめて答えるが、ジルは眉を寄せ、睨みつけてくる。
「あれで僕を助けたとでも言うつもりか」
「まあね。我ながら、うまくやったと思うぞ? あんたにどんな事情があるんだか知らないが、あれじゃあ無謀もいいとこだ。しかも、たった一人でこんなところに来るなんて……」
「お前には関係のないことだ」
「関係……ないと言えればいいんだがな」
「何?」
「いや、何でも」
笑ってごまかすアダンから目を逸らし、ジルは歩き出した。夜も更けた路地は人通りもまばらだったが、時折思い出したように酔っ払い男たちが通り過ぎる。その都度怯えたように肩を縮め、ひそかに避けて歩き続けるジル。アダンは軽く息を吐き、その背中を追いかけた。
「おい、あんた」
不機嫌そうに振り向くジルに、片手を差し出す。きつい視線で意図を問われ、平然と続けてやった。
「お忘れのようだが、俺はあんたの分まで飲み代を払ってやったんだぞ?」
途端に顔をしかめ、ジルは懐から小さな皮袋を取り出す。投げてよこされたそこには、先ほどアダンが払った額の三倍にはなる金が入っていた。
「これで文句はないだろう。気が済んだら失せろ」
「失せろ、か。もう一つ忘れてることがあるんだが」
「これ以上何を……!」
「礼だ。俺はあんたを助けたのに、感謝の言葉の一つも聞いてねえ。人として、そこはないがしろにしちゃいけないとこじゃねえのかよ」
苦笑を消し、真剣な顔でアダンは言った。どういうつもりはこちらの台詞だ、とも言いたかった。到底同一人物には思えないほど豹変していようが何だろうが、それだけは譲れない。
睨みあいに負けたのは、意外なことにジルのほうだった。
「……メルシィ、ムッシュ」
悔しげにゆがめた顔をすぐに引き締め、ジルは艶やかな微笑を浮かべる。口元だけの作り物の表情なのに、ひどく美しく、妖艶なほどの微笑みだった。
「これで満足かい? もういいだろう、僕は帰る」
自分が固まっていたことを、アダンは一瞬後に知った。純粋な驚愕と、わずかな屈辱が心にわきあがる。
(今、俺、こいつに見惚れてたのか?)
打ち消そうと頭を振った瞬間、路地の裏からよろめき出てきた酔っ払い集団がジルにぶつかりそうになった。再び彼女の顔が青ざめるのがわかる、と同時にアダンはまた動いていた。なぜなのか、自分でもわからないままに。
「来い。飲み代の残りは、あんたを送り届ける代金として受け取ってやるから」
「なっ、何を……」
「いいから付いて来いって! 怖いんだろ? 男が」
強引に腕を引くと、ジルは瞳を見開いた。有無を言わさずその場から連れ出すのは、今夜二度目だ。
(そうだ、別に年だって一つしか変わらないんだよな)
ふと思いついた言葉を、ニヤリと笑んで口に出す。
「俺が守ってやるよ、子猫ちゃん(プティ・シャトン)」
夜風に舞った銀の髪。その隙間から覗いたジルの頬が赤く染まる。それが恥じらいのせいではないことを、アダンは即座に知ることになった。返された、強烈な平手によって。
「痛ってえ! 何すんだよ!」
頬を押さえるアダンを、自業自得とばかりに冷たく見据えるジル。
「僕を子猫と呼ぶなら、噛みつかれることも覚悟しておくんだな。お節介の、最低野郎」
まだ燃える怒りの炎と、瞳に宿る氷。対極の両者が共存するその微笑は、まさに痛烈なほど鮮やかなものだった。




