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おいしい実験

作者: 風白狼

「何かね、これは」

 テーブルに着いた博士の第一声は、不機嫌なものだった。(しわ)の多い顔を歪め、手に持ったフォークでコンコンと皿を叩く。そのフォークの前に、食べかけのゆで卵が転がっていた。

「何って、ゆで卵でしょう?」

「それは見ればわかる。だが、この有様は何かねと聞いたんだ」

 博士はフォークの先でゆで卵を転がした。そしてかじって露わになった黄身を指し示す。のぞき込むと、黄身の外側が黒っぽい緑色に変色していた。近づいたことで腐ったような嫌な匂いが鼻に入ってくる。

「な、なんで? まだ消費期限は切れてないはずなのに……」

 私は急いで卵のパックを確認した。記載された消費期限はまだ未来のものであり、冷蔵庫にだって入れてあった。手に取ったときも変な匂いはしなかったし、今ある生卵も特に変なところはない。博士はそんな私をジト目で見つめる。

「何分茹でた?」

「10分です」

「……その後、すぐに冷ましたのかね?」

「ええ、冷めるまで待って殻をむきました」

 私が答えると、博士は長いため息をついた。眉間を押さえ、いかにも呆れたと言わんばかりの仕草だった。

「それと、このおひたしから味がしない」

 博士は小鉢に入ったほうれん草のおひたしを指し示した。私はつと首をかしげる。

「醤油はかけたはずですが、薄かったですか?」

「水っぽくなっていて薄まっている」

「茹でた後しっかり絞って水を切ったはずなのに……」

 水の切り方が甘かったのだろうか。私はおひたしを作った時を思い出す。けれど、あのとき確かに水が出なくなるまで絞ったはずなのだ。だから水っぽいことはないはずなのだが――小鉢の中のほうれん草は、確かに水に浸っていた。

「醤油をかけたのはいつかね?」

「え? 作ったときですが」

「おひたしを作ったのはいつかね」

「えっと、確かゆで卵を向く前です」

 何故そんなことを聞くのかと訝しく思いながら、私は博士の質問に正直に答えた。博士はといえば、私の答えに渋い顔をしている。

「最後にもう一つ。君、化学――いや、理科は得意かね?」

「いいえ。実はあまり……」

 理科は小学校や中学校で授業は受けたが、覚えることが多くてよくわからなかった記憶がある。だから経験だけでいい家事の手伝いなんてことをしているのだ。私が答えると、博士はやはり苦々しい顔で唸った。

「得意不得意があるのは致し方ないが、せめて料理をする者として、必要な科学的知識くらい入れておきなさいよ」

 博士はそう言ったが、私には意味がわからなかった。どうして料理の出来の悪さで理科や科学的知識の話が出るのだろうか。

「料理と科学と、何の関係があるのですか?」

「大いに関係がある。というより、料理というのは化学実験そのものだ」

 博士は自信たっぷりに言った。食事をほとんど残しているのに立ち上がる。

「今後の君のために、先ほどの問いの答え合わせを兼ねて実験講習といこうか」

 と、博士は食べかけのゆで卵を持って台所へと手招きした。まな板を出し、包丁でゆで卵を半分に切る。断面が現れると、卵の黄身が変色しているのがよく見えた。

「まず、この腐ったような臭いだが、これは硫化水素(りゅうかすいそ)という気体が原因だ」

「りゅ…?」

「硫化水素。化学式で書けばH2S(エイチツーエス)だが、毒性のある気体だ」

「えっ」

 “毒”という言葉に、私はすぐさま口と鼻を手で覆った。しかし博士は妙に平然としている。と思っていると、換気扇を回しだした。とりあえず追い出せばいい、と言って説明を続ける。

「では何故、硫化水素が発生したか。……君、卵は何が含まれているか、知っているかね?」

「卵に……ええっと、確か体を作る……あ、たんぱく質ですか?」

 私はどこかで聞きかじった知識を引っ張り出した。博士の顔を見やると、満足そうに頷いてくれた。

「その通り。卵にはタンパク質がかなり含まれている。そしてタンパク質に硫黄(いおう)という元素が含まれているというのは知っているかね?」

「いいえ」

 私は首を振った。その「硫黄」というのも、聞いたことがあるようなないような名前だった。博士はそれを責めるでもなく、そうか、と呟いただけだった。

「ともかく、卵には硫黄がたくさん含まれているのだよ。そしてこのタンパク質中の硫黄が長時間高温で加熱されると、硫化水素が発生するのだ」

「それがこのゆで卵なんですね?」

 私が尋ね返すと、博士はその通りだ、と褒めてくれた。そのことに少し安堵する。が、まだいまいち繋がりが見えなかった。

「でも、硫黄がそのりゅうか……なんでしたっけ? その毒のあるものになるって説明になるんです?」

 博士はわずかに目を見開いた。そこからか、と呟いて、顎に手を当てる。理解の薄い生徒だと思われただろうか。けれど、博士はそんなこともわからないのか、とは言わなかった。

「硫化水素の『硫化』とは、『硫黄に化ける』と書く。先ほど硫化水素はH2Sと書くのだと言っただろう? HはHydrogen、つまり水素のことだが、SはSulfurで硫黄のことだ。硫化水素というのは硫黄の化合物(かごうぶつ)、いや、タンパク質と同じように硫黄を含む物質といった方がわかるか。だからタンパク質の中にあった硫黄は熱で硫化水素に変わることができるのだよ」

 責めるどころか、博士は根気よく説明してくれた。私は説明の全部を理解できた訳ではなかったが、言いたいことは理解できた。しばらく考えて頭の中で整理したところで、ふと別の疑問が湧く。

「あれ、博士、熱してその硫化水素が出るなら、卵焼きや目玉焼きでも出るんですか?」

「ふむ、いい質問だ」

 博士はすぐに答えを教えてはくれなかった。けれど、楽しそうに笑う。

「硫化水素は“長時間”高温で加熱すると発生すると、さっきも言ったね。ゆで卵は10分弱茹でるものだが、卵焼きの場合は同じくらい長く焼いていたら焦げてしまうだろう? つまり、その場合はほとんど発生しないんだ。それに、卵焼きも目玉焼きも、殻を割ってから熱する。だから仮に硫化水素が発生しても外に逃げていくんだ。だがゆで卵は殻に包まれている。それで硫化水素は外に出て行かず、こうして臭いが出てしまうという訳だ」

 私は博士の説明で納得することができた。確かに、目玉焼きや卵焼きでは腐ったような臭いはしない。茹でるという調理だからこそ、問題が起きたようだ。

「じゃあ、私は長く茹ですぎたってことですね?」

 私が聞くと、博士はいや、と首を横に振った。

「君の場合は少し違う。君は茹でた後冷めるのを待ったと言ったね。本当は、そこですぐに水を入れて冷やすべきだったのだ。でないと、余熱で長く茹でたことと同じことになってしまう」

 博士の説明にはっとした。確かに私は、茹でた後そのまま放置してしまった。水で冷やすことを忘れていたのだ。熱かったからそのまま置いておけばいいやと思っていたけれど、どうやらそうではなかったらしい。

「そういうことだったんですね。今度から気をつけます」

 私が言うと、博士は嬉しそうに頷いた。切った卵を片付けてしまってから、今度はおひたしの入った小鉢を持ってくる。

「今度はこのおひたしだ。水っぽくなってしまったのは、浸透圧(しんとうあつ)による」

「しんとう、あつ?」

 また聞き慣れない言葉だ。だんだん頭が痛くなってくる。そんな私をよそに、博士はキュウリを取りだして薄切りにした。切れ端をキッチンペーパーで拭いて水気を切っている。それをお皿にのせ、何故か大量の塩をかけた。

「ちょっと、何してるんですか!?」

「軽い実験だよ。言葉より、見た方が早いからね」

 博士はちっとも悪びれなかった。私は怒りたかったが、博士はそれを遮って話を始める。

「このキュウリはしっかりと水気を拭いた。先ほど君が絞ってくれたほうれん草と同じだと思ってくれていい」

 そう言って、博士は私にその塩漬けのキュウリを見るように指示した。何をしようとしているのかわからないが、言われたとおりキュウリを見る。しばらくすると、かかっていた塩がじわじわと透明になり始めた。粒は小さく形を失っていき、やがて完全に水の中に紛れてしまう。塩が水に溶けてしまったのだ。博士はそのキュウリを一つつまんだ。水気を切ったはずのキュウリの表面はしっとりと濡れている。

「わかったかね? 野菜なんかを塩に漬けておくと水が出てくるのだよ。だから漬けてからしばらくすると味が薄まって不味くなってしまう」

 醤油でも同じことだ、と博士は付け加えた。私は聞きながら、おひたしの味が薄まった理由は理解した。けれど、目の前で起こった現象そのものは不可解なままだった。

「でも、どうして水が出てくるんですか?」

 私が尋ねると、博士は楽しそうに笑った。

「いい質問だ。ではまず、この水はどこから出てきたと思う?」

「えっと……キュウリから、ですか?」

 私は考えて、とりあえず浮かんだ答えを口に出してみた。博士はその通りだと言って褒めてくれる。

「では次に、真水と塩水を一緒の水槽に入れたらどうなると思うかね?」

「真水と塩水をですか? 一緒に入れたら混ざっちゃうんじゃ……」

 どうしてそんな質問をしたんだろうと思いつつも、私は素直に答えた。博士は満足そうに頷く。

「その通り。濃さの違う溶液を一緒にすると、同じ濃さになろうとする。この塩を振ったキュウリや醤油をかけたおひたしも同じことだ。濃度の差を埋めようとして物質が動く」

 そこで博士は言葉を切った。私に向き直り、ついと人差し指を立てる。

「しかし、だ。生物の体は半透膜(はんとうまく)という特殊な性質を持つ膜で覆われている。この半透膜というのは、溶媒である水は通すが溶質、すなわち溶けている食塩や砂糖などは通さないしきりのことだ」

「水を通して溶けている物を通さないなんて、そんなことできるんですか?」

「できるとも。ふるいに土を入れると細かい砂だけを落として粒の大きな石を通さないように、半透膜も小さな水だけを通して大きな食塩を通さないのだ」

 博士が例を示してくれて、私はようやく納得することができた。どうやら半透膜というのは水をまったく通さないビニールのような物ではなくて、ふるいに似たものらしい。私が頷いたのを見て、博士は説明を続ける。

「キュウリに塩をかけると、外の方が塩分が多くなるから、その差を埋めようとする。しかし塩はキュウリの中には入っていけない。通れるのは水だけだ。それでも外を薄め中を濃い液にするために――」

「そっか、水がキュウリの中から外に出て行けばいいんですね」

「うむ、理解が早くて何よりだ。この生物の体から水が出ていく力を浸透圧と呼ぶのだ」

 博士に褒められて、私は嬉しくなった。博士もまた、理解してくれたことで嬉しそうにしている。

「おさらいしよう。ゆで卵が臭くなるのは何故か。それは長時間高温で加熱したことで硫化水素が発生したからだ。おひたしが不味くなったのは何故か。それは浸透圧でほうれん草から水が出て味が薄くなったからだ。こういった科学知識があれば、今回の失敗は防げたのだよ」

「はい、今度から気をつけます」

 私はぐっと握り拳を作った。家事手伝いとして、覚えるべきことはきっちり覚えておこう。そう決意した後で、私は博士を見やった。

「それにしても、料理のコツには理由が科学的なあったんですね」

 私が感想を言うと、博士はいっそう嬉しそうな顔をした。

「もちろんだとも。料理の手順と現象には全て理由がある。火に掛けたタマネギが茶色く飴色になるのは何故か。それはタンパク質と糖分がメイラード反応を起こして香ばしい茶色の物質に変わったからだ。パンが膨らむのは何故か。それはイーストが二酸化炭素を発生させたからだ。最初にも言ったが、料理とは化学実験そのものなのだよ」

 そう言う博士は楽しそうで、自信たっぷりでもあった。また新しい話題が出てきて、私も少し楽しくなる。

「じゃあ博士、また料理で不思議に思ったら、理由を教えてくださいね」

「もちろんだとも」

 私が言うと、博士は頷いてくれた。文句を言われたときはどうなるかと思ったけれど――こういう“勉強”も、悪くないのかもしれない。

 黒猫さんからのリクエストで「『料理』をテーマにした作品」でした。

ネタが思いついたので書いたのですが、果たしてこれで良かったんだろうか……

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