噂の製薬会社
初めまして、こんにちは。そしてお久しぶりでございます。
赤依 苺です。
第一話を書き上げるまでに、ボツとなった案はいくつかあります。書きあがってみると、ボツとなった案とはまったく関係のない話が出来上がりました。不思議ですね(白目)。
連載作品としては二作目となります。本文を書いている時よりも、前書きを埋めるこの瞬間が一番に緊張します。特に意味のあることなんて書かないんですけどね……。
では、後書きにて。
几帳面に並べられた高架下の違法駐輪の一台が、そのスポークを折り、タイヤをパンクさせ、サドルを吹き飛ばして、カラースプレーにより生み出された絵画へと激突した。衝突の衝撃でボルトが折れたのか、鉄屑となった自転車は行き場に困った勢いで車輪すら回転しなかった。
「やるねぇ……君」
「なんだよ、これは……」
突き出した拳は、怪しい赤ローブを纏った少女の眼前で止まっていた。いや、止めていた。寸止めなのだから、当たらなくて当然。しかし、赤ローブは微動だもせずに眼前の拳を見つめていた。
「何だよこれはっ! 答えろっ!」
今度は蹴りを、ローブ少女の腰へ目がけて振りぬいた。もちろん寸止め。ただただ虚しく、空を切るだけの行動の……はずだった。
「今度は五台まとめて。これで理解したでしょ? これが『効能』だよ」
薄汚れたスニーカーは、狙い通りに少女の直前で止まっている。それだと言うのに、少女の背後に並ぶ自転車が五台、互いを巻き込み合いながら薙がれた。もし蹴りが当たっていたならば、少女も吹き飛んだ自転車と同じ軌道で倒れたに違いない。
「さぁ、準備運動も終わったことだし。来てくれるかい? と言っても、私の言葉を忘れてなければ付いてくる以外に道はないよね?」
ここで初めて背後を振り向いた少女は、崩れた数台の自転車を見下ろして口笛を吹いた。
><><><><><
『今と明日を考える、プロト製薬』。
そう言って、液晶画面には“Pro.”の文字が浮かんだ。老舗の製薬会社とは異なり、プロト製薬はここ五年ほどに創設された新たな製薬会社である。立ち上げてから一年にも満たずに、薬科の学術発表会への数々の出席を重ね、医学・医療畑で働く人々に社名を浸透させていった。
その間も、特効薬が存在しなかった病気に対する解決策になりえる成分を発見・精製したり、使いやすい医療機器の開発なども行ってきた。今やドラッグストアに足を運べば、応急絆から栄養剤、頭痛薬から水虫用噴射薬など、事業の拡大が順調であることを知ることができる。
「…………」
気管支に違和感を覚えると、すぐに発作の兆候が表れた。喉に笛でも仕込んでいるかのような微かな音に、八木草介はテレビも消さずにリビングから自室へと足早に戻った。
「…………」
喉から漏れる不快な音に焦りながら、通学カバンから噴霧式小型吸入器を探す。酸素の吸入率が低下していては落ち着いて探し物もできないが、持病のための薬は常に通学カバンへと忍ばせるようにしていた。
「……ちっ………」
だが、見つからない。撹拌するように手首を動かして、ようやく覚えのある形状の物に手が触れた。
「…………あー、焦った」
我慢して、一度限界まで息を吐く。すぐに吸入器を作動させて薬剤を噴射したら、これでもかと息を吸い込む。あとは数秒間息を止めていれば、薬剤が浸透して狭まった気管支が拡張される。この間、呼吸が上手く行えないことから酸素濃度が薄くなっているのか、拡張された気管支が吸い込む空気に頭がクラクラしてしまう。
去年から草介は、吸入器を替えた。これまで使っていた会社の物からプロト製薬に乗り換えたが、これまでと遜色ない使い勝手と効果だ。以前の物より安くなっていることから、今後はプロト製薬にお世話になるだろうと草介は考えている。
窓から外を覗けば、斑に積もった雪が見える。ゆっくりと降り続く乾いた雪に、草介は舌打ちした。冬の乾燥した空気はこの気管支には御法度だと、これまで経験から学んでいる。草介は市販のマスクを装着し、財布を片手に外へ出た。こんな雪の日に、食材を切らしているとは本人も予想外。一人暮らしの辛いところである。
-=-=-=-=-=
「それで……、まぁ~た増えちゃったのね。いい加減にしてくれないかしら、まったく」
少々の“オネェ”を含んだ言動に、同じ卓を囲むスーツや白衣姿たちが困惑する。一人のスーツ姿の男がその場で立つと、全員の視線はその男に集まった。
「この場での謝罪は意味ないでしょう……。報告させていただきますが、これでも抑止力は正常に働いています。こちらのデータを見てください。先月からの被害件数から……」
「ちょっとちょっと! 正常に働いているなら、どうして先月と被害件数がほとんど変わらないのかしらぁ? ワクチンの数は? 質は?」
「数は…………着々と増えています。ですが、質は……」
「有象無象、っと」
ただ一人を除いて、卓を囲む全員が俯く。
ここ最近になって、二つの事件が徐々に件数を増してきている。一つは変死体の増加。『変死体』という単語だけならば、物騒ではあるが報道番組では耳にする言葉である。しかし、最近の変死体にはとある異常性が見られている。
「ねぇ、原山ちゃん。最近はどれくらい喰われてるの?」
「非常に申しあげにくいですが、身体の半分の体積を持っていかれているのが現状です……」
原山と呼ばれた直立のスーツ男は、自らの蒼白の顔面に気づいていない。最近見つかっている変死体の数々は、以前よりも“損失量が遥かに増えている”のである。極めつけはその断面であり、狂犬やその類に噛まれたような歯型ではないということ。警察が歯科医に協力を仰いだ時点で、人間の歯型であることは明白となった。
「原山ちゃん、ありがとう。座っていいわ」
「はい……」
今度は白衣を纏う一人を注視し、緊張感のないオネェ言葉が飛び出す。
「で、製造工場もバタバタとやられているわけね?」
「……お察しの通りです。今月に入って、三件は襲われました。その内の一件は、辛くもワクチンと相討ち、といったところです。実際に薬品を盗まれたのは二件となっています」
「マズイわねぇ……」
ここで初めて目を暗くして考え込む。
騒がれているもう一つの事件。それは薬品製造工場並びに成分精製工場の襲撃である。決まって製造された薬品が強奪され、人的被害は少ないのが特徴である。しかし、目の前に映し出される数々のデータから、工場が襲撃されてから数日後に変死体が見つかる割合が高いことが見受けられた。
「相討ちってっ……どんな状況だったの?」
「失礼しました。いささか、言葉を選ぶべきでした。正確には、技薬による副作用です」
場が騒がしくなる。白衣の男はそれらを跳ねつけることなく、静かに続けた。
「みなさんへの通達もままならない状況かつワクチン本人の意思により、グレード・レッドを処方しました……。結果はお伝えした通りです」
「……内海ちゃん」
「……なんでしょうか?」
「どうして泣いてるの?」
照明が弱い部屋でありながら、プロジェクターの淡い光を頼りに白衣の男、内海の表情を読んだ。頬に伝う涙は、目を凝らさなければ分からないほどだ。
「……失礼、最近は顕微鏡の覗きすぎでして」
「まさか、娘さんに処方してないわよね……?」
「…………」
打って変わって、静まり返った部屋にはプロジェクターの微かな駆動音のみ染み渡った。
「内海ちゃん、今日はもういいわ」
「内海さん……」
原山が心配そうに内海の顔を見る。しかし、下を向く内海の表情から読み取れることは、あまりにも少なかった。
「……失礼……します」
結局、白衣を翻すまで一度も嗚咽を漏らさなかった。同じ職場の家族が、おおよそ普通ではありえない亡くなり方をしたことに、一同は塞ぎこんだ。
「彼の退職金、明細書に印刷できるかしら?」
「……一日でも早く有効打を獲得しましょう。天霧さん」
工場を守れば人命が少しでも助かる。その事実を刃に、最後は自らも殺めてしまった彼女は、どんな気分だったのだろうか……。
「原山ちゃん、引き続き、お願いね」
「既に各地に配置しています。今度こそ、最高のワクチンが見つかることを祈りましょう」
プロジェクターに映る見飽きた“Pro.”のロゴマークに、今度こそ誓うのであった。
><><><><><
食材の買い出しに出かけた草介は、手ぶらだった。広告も見ずに飛び出したが、切らしている食材のほとんどが運悪く安売りしていな日だったようだ。即席の食品に頼るのも手だが、草介は好んで食べようとは思わない。グルメではないと、本人も自分の舌の鈍感さには自信があった。
『身の危険にご用心!』
今にも吹き飛ばされそうな電柱の貼り紙に気付いたのも、そろそろ空腹を我慢できない頃だった。近頃世間を騒がす事件がある。報道番組ではオブラートに包まれたソフトな表現でしか聞かないが、噂ではかなり目を覆いたくなるような事件らしい。
腕時計を確認すると、時刻は午後六時を過ぎていた。雪で多少は明るいものの、真冬の夕方は暗い。足元に気を配りながら、草介は転ばないように歩を進めた。
『……喉が、乾いたよぉ…………』
「……ん?」
すぐ隣で囁かれたような、小さな声だった。もちろん、連れのいない草介の隣には誰も立ってはいない。
『血だぁ……。血をくれぇ……』
「誰だ……?」
試しに後ろを振り返って疑問を投げるが、暗がりに吸い込まれるだけだった。すると、背後から雪を踏みしめる音が聞こえてきた。きっと向かい合って歩いていた人の独り言だろうと、草介はまた、自宅までの道のりの歩を進めた。
『…………ご馳走だ!』
草介は足を止めていた。向かってくる人の手荷物が異様なのだ。路面状況からキャリーバッグは使いにくいだろうが、何よりも雪に引き擦られるその荷物は――――。
これは命の危機だろう。何にがあっても回避するべき命の危機だ。その現況を眼前にして、草介は背中を見せて全速力で逃げた。一秒でも早く、一ミリでも遠くに逃げたい今、足を掴む雪が最低な風物詩に感じた。酸素吸入を妨げるマスクを投げ捨て、形振り構わず腕を振る。弾む息は冷気を気管支に送り、草介の持病、喘息の発作へと着々と近づけていた。土地勘の働く範囲を尻尾を踏まれた猫のように駆けずり回った結果、草介は薄暗いガード下へと腰を落ち着けた。
「はぁはぁはぁはぁ…………はぁ、な、何だ……あれは、はぁはぁ…………」
気管支から笛の音が聞こえてきた。自ら発作が起きるような運動をしていたのだから、当たり前だ。コートのポケットを探ると、すぐに吸入器を使った。まだ肩が激しく上下している。気管支も拡がらない。草介はもう一度だけ吸入した。今度は一気に呼吸が安定したが、足がその場で崩れた。
「ちくしょう……。冗談じゃねぇぞ……!!」
「冗談じゃないよ?」
人間を突き動かす一番の原動力、危機感。抑えたとはいえ発作が出ていた身体であるが、不意に掛けられた言葉に身体が緊張し、崩れていた足に力が入った。
「今度は誰だっ!」
閉所で木霊す自らの声。今度は明確な返答があった。
「ごめんね、驚かすつもりはないの。むしろ助けに来たのよ? 安心して」
まるで小学生の低学年を相手にするかのような物の言い方である。今時、飴を見せても車に乗り込む子どもはいないだろう。声の主はガード下の一番暗い部分から姿を現した。
目に痛いくらいの赤いローブを纏った少女。そのローブは路面に触れるのではと思うほど、身体全体を覆っている。さらにフードを深く被られて、顔を見ることが難しい。
「……いや、どう見ても怪しいだろう。そんな恰好で『助ける』なんて言われても」
「信じてくれない? じゃぁ、聞き方を変えようか。…………変死体、見ちゃった?」
そこで思い出す。自分はどうして逃げ出したのか。あの瞬間に見た男の手荷物だと思った不自然な、人間大のモノ……。
「あー、別に答えなくていいよ。思い出したくなかったら忘れてくれていいし。ただね、君も危ないよ。それだけ伝えたくてね」
「どういう意味だよ……。まさか、アレと同じになるよとか言うんじゃないだろうな?」
「君は子どもの頃、苦いクスリにもオブラートを使わなかったね。断言しよう」
「……なんで分かった…………」
ここで少女はわざとらしい咳払いを挟んだ。同時に、草介へと一定の小さなタブレットを差し出した。
「これを噛むなり、飲むなり。とにかく体内に入れるんだ」
「嫌だ」
「言ったはずだよ? 君を助けに来たと。これが君を救ってくれる」
「そんなに勧めたいなら説明をしろ。これは何だ?」
「薬だよ。ただの薬とは違うけどね。これを摂取することによる命の安全は保証しよう」
「そうか。それじゃぁ次だ。お前は誰だ? それで、これが薬だとしたら、効能は何だ?」
「注文が多いね。そんな余裕はないんじゃないの?」
全身、鳥肌が立った。
『…………見ぃつけたぁ』
「ほらね」
数分前よりもはっきりと、草介の耳に届く不気味な言葉。今にも背後から腕を回され、首を絞められるかのような感覚。
「……『ほらね』って、お前も聞こえるのか?」
「そうだよ。アレから逃げたいんでしょ? これを飲めば全て解決だ」
さらに眼前へ突き出される正体不明のタブレット。本当に薬か? 副作用は? そもそもこいつは誰だ? 渦巻く全ての疑問に対する答えは得られない。このローブ少女を突き飛ばすこともできた。しかし、自分を狙う危険の正体を掴めないまま逃げ続けることも、同じく危険だ。
「飲めば……アレをどうにかできるのか?」
「約束しよう。さぁ、飲むんだ。今すぐに」
フードを取り去り草介の顔を見上げる少女の顔を、見つめてしまった。現状、自分の身を守るためにとるべき最良の行動だという考えに落ち着いた草介は、眼前のタブレットを摘まんでいた。
「…………」
「気分はどうかな?」
「……え?」
それはまるでチョコレートのように、唾液と供に胃へと下っていく。
「よし、飲んだね。じゃぁ、私に付いてきてくれるかな?」
「ちょ、ちょっと待て! 今、俺、飲んだのか?」
口の中の感覚から、何かを摂取したことは分かるが、草介は一瞬の記憶が欠落していた。
「飲んだからって死にはしない。ほら、行くよ」
「……どこに?」
「君を追いかけるジャンキーまで。アレと戦って、倒すんだ」
草介の肩は震えていた。発作は既に落ち着いている。だが、分からないことだらけのこの状況に、気づいたら怪しい薬も飲まされた。肩は、怒りに震えていた。
「意味分かんねぇこと……抜かしてんじゃねーぞ!!」
振りかぶった拳は、寸分の狂いもなく、少女の身体目がけて突き出された。当てる気はない。ただ、恐怖心を与えたくて。
「…………待っていたよ、君のような人を」
几帳面に並べられた高架下の違法駐輪の一台が、そのスポークを折り、タイヤをパンクさせ、サドルを吹き飛ばして、カラースプレーにより生み出された絵画へと激突した。衝突の衝撃でボルトが折れたのか、鉄屑となった自転車は行き場に困った勢いで車輪すら回転しなかった。
「やるねぇ……君」
「なんだよ、これは……」
突き出した拳は、怪しい赤ローブを纏った少女の眼前で止まっていた。いや、止めていた。寸止めなのだから、当たらなくて当然。しかし、赤ローブは微動だもせずに眼前の拳を見つめていた。
「何だよこれはっ! 答えろっ!」
今度は蹴りを、ローブ少女の腰へ目がけて振りぬいた。もちろん寸止め。ただただ虚しく、空を切るだけの行動の……はずだった。
「今度は五台まとめて。これで理解したでしょ? これが『効能』だよ」
薄汚れたスニーカーは、狙い通りに少女の直前で止まっている。それだと言うのに、少女の背後に並ぶ自転車が五台、互いを巻き込み合いながら薙がれた。もし蹴りが当たっていたならば、少女も吹き飛んだ自転車と同じ軌道で倒れたに違いない。
「さぁ、準備運動も終わったことだし。来てくれるかい? と言っても、私の言葉を忘れてなければ付いてくる以外に道はないよね?」
ここで初めて背後を振り向いた少女は、崩れた数台の自転車を見下ろして口笛を吹いた。
「いつまで突っ立ってるんだい? すぐそこまで来てるよ?」
緊張感のない語尾に、力なく指示された方向に首を回す。ガードレール下と白銀の世界を隔てる部分に、人影が揺れていた。
「ジャンキーから来てくれたか。手間が省けるね」
「……ジャンキー?」
薬物中毒者。体幹が大きく振れるような歩行に、変に納得した草介だった。
「君、名前は?」
「……八木、草介」
赤ローブの少女はどこからかタブレットを取り出した。先ほど草介に突き出した物とは、色に若干の差がある。
「八木くんか。もう一度言うよ。アレを倒すんだ。一人でとは言わない、私も一緒だよ」
言い終わると同時に、少女の犬歯がタブレットを砕いた。少女に見られる数々の不遜な態度と不可解な行動に、草介は頭は乱れるばかりだ。
「どうすればいい……。俺は、何をすればいいんだっ!」
怒鳴りつけるように、少女に聞く。相変わらずフードで隠れる顔をこちに向け、少女はその短い腕を、草介へと突き出した。その先には、タブレットではなく非力そうな拳が握られていた。
「……分かるね?」
「俺の趣味が手品だと言ったら信じるか?」
「信じてもいいけど、タネも仕掛けも、提供したのは私だということを忘れないでね」
「……好きにしろ」
突然、ジャンキーの歩行速度が上がった。手荷物――――だと思っていた物は既に無く、掴んでいた片手が朱色に染まるだけとなっていた。
「おいおい! 本当に大丈夫なんだろうなっ!」
「急に弱気にならないでよ! 八木くんなら出来るから!」
「あぁもうっ! 死んでも恨むなよな!」
腰に構えた拳に熱を感じた。徐々に距離を詰める怪物――――ジャンキーへ向けて、草介は物理的に届かない正拳突きを放った。瞬間、草介の拳の周辺が蜃気楼のように揺れた。自転車を吹き飛ばした時には気づかなかったことである。そんな現象にも驚いていると、ジャンキーが右肩を強く押されたように体を回転させて凍えるアスファルトへと倒れた。
「マジで……どうなってんだ?」
「ねぇ! もう一発だけ打てる?」
「あ……あぁ」
根拠はないが、熱の籠る拳に期待するしかない。ジャンキーはゆるりと立ち上がると、考えなしに草介に向けて突っ走る。何かしなければ。あんな怪物に蹂躙されるのは御免だ……。草介は、先ほどの自転車を思い出し、左足を軸足に決めた。
「走れ! 赤ローブ!!」
正直、こんな少女が怪物に決定打を与えられるとは思えない。しかし、こんなになってしまった状況を自分よりも理解しているのは少女だけだ。そして草介の言葉を号砲に、少女は小さなストライドを素早く積み重ねながらジャンキーへと疾走した。もちろん、射線を塞がないように若干の弧を描いて。
「吹っ飛べ!」
草介の左足がアスファルトを掴む。軸足により支えられた体幹から放たれる蹴りは、膝関節の利用により鞭のようにしなった。草介の左足には接触を感じられないが、ジャンキーは確かに進行方向とは直角に吹き飛んだ。疾走距離が伸びた分、少女はさらに加速する。
「まだ起きるよ!」
「頑丈過ぎるだろ!」
投げ出した右足を踏み込み、半回転して左肘を打ち込む。これまでより勢いは落ちたように感じたが、ジャンキーをアスファルトへと抑え込むには十分の威力で、無防備なジャンキーに易々と少女は飛びかかった。
「おい、馬鹿、アブねぇぞ!」
「これで最後!」
草介の抑止も聞かず、少女はジャンキーの上半身に圧し掛かった。いくら少女といえど、衝撃はあったらしくジャンキーは苦悶の声を上げた。すると、少女の纏うローブの周囲に、草介の拳に確認された蜃気楼のような歪みが生じた。その歪みは次第に液体に変化し、滝のようにジャンキーへと降り注いだ。そして、少女が吐息を吹きかけると、液体は一瞬にして凍り付いた。
「うわ! あー、ローブがぁ……」
ジャンキーをアスファルトへと縛りつけている氷に、少女のローブも一部が巻き込まれていた。
「ちょっと、八木くーーーん。助けてくれなーい? 氷が固くて割れないんだよー」
「…………ソイツはもう、動かないのか?」
「あー、取りあえず氷漬けにしたから動かないよ」
その言葉に安心したわけではないが、ローブを捉えている氷の一部を割るため、少女へと歩み寄った。
「って、固いな、この氷。殴っても割れねぇぞ」
「これじゃ私も動けないんだけど……」
「知るか」
「さっきから浴びせられてる質問のほとんどに答えられるよ、私」
草介は考えた。拳や蹴りを放つことで普段では考えられないような事ができた。触れない拳で自転車を鉄屑にできるならば、と。
「ちょっと試すぞ」
そう言って、草介は氷中に映るローブ目がけて“デコピン”を打った。もちろん指は氷に触れていない。しかし、氷には小さなヒビが入った。
「本当に、俺はどうなっちまたんだ……」
さらに力を抜いてデコピンを打つと、ローブを捉えていた氷の部分だけを割ることができた。
「助かったよ。それじゃぁ行こうか」
「待てよ」
「コイツはどうする?」
親指で示すジャンキーに、もはや恐怖は感じなかった。
「いまから回収班に連絡するんだ。それよりも、君に来てほしいところがある」
「その前に。質問に答えろ」
「はいはい。三つまでね」
呆れたような、馬鹿にされているような態度に草介の神経は逆撫でされた。だが、怒鳴っていては会話は続かない。
「それじゃぁ、一つ目だ。……俺に何を飲ませた?」
「薬。技薬っていうね。私もさっき飲んだでしょ。ほら」
腕を横に伸ばして手を広げると、少女の手が一瞬だけ歪み、すぐに水が放出された。先ほどより水量が抑えられていて、蛇口でも見ているようである。
「俺がジャンキー……だっけ? 吹き飛ばせたのも、薬の力、なのか?」
「そういうこと。八木くんに飲んでもらったのは試薬でね。本来はこんな、ジャンキーなんて相手にするような戦闘用の技薬じゃないんだけど。八木くんのドッラグ・パターンかもね」
「……ドラッグ・パターン?」
「普段から特定の薬を使ってる人には特に表れやすいんだけど。なんか使ってる?」
ポケットの小型吸入器を思い出す。試しに見せてみると、なぜか少女は納得した。
「なるほどね。それで、二つ目は?」
「え? あぁ……。ジャンキーって何だ? ただの薬物中毒者には見えねぇぞ……これ」
「巷で噂の変死体。知ってるよね?」
突然、草介はジャンキーから逃げる直前の光景を思い出す。ヤツラの手に確かに掴まれていたモノが、事件の真相を物語っていた。
「……実際に見たからな。良い気分じゃないが……」
「それが当たり前だよ。ジャンキーってのはね、コレを狙ってるんだ」
ローブから取り出されるタブレット状の薬。すぐに仕舞われてしまったが、少女が噛み砕いた物とはまた、別物のようだ。
「薬が目当てで人間を喰う理由が分からない。それなら製造工場でも狙って襲った方が…………、まさか……」
「察しがいいね。最近、とある製薬会社の工場が頻繁に事故を起こしている。世間に広まってから日は浅いけどね」
「それで人が殺られる理由は?」
「工場を襲うだけでは足りない。実際に服用された成分も欲しい。そんな理由だろうね」
「………………三つ目だ」
「どうぞ?」
草介は深呼吸した。冷気が、気管支を刺激する。
「お前は誰だ?」
「私? 私はね……」
ローブから一枚のカードを取り出す。それを草介の眼前に突き出すと、草介は吸入器を握りしめた。
「プロト製薬会社所属、新規ワクチン収集課配属。名前はエフェクト・サーティーよ、よろしくね。知りたいことは山ほどあるだろうけど、今は我慢してくれるかな?」
今まで、緊急時の命を繋ぎとめてくれた薬品を製造していた会社、プロト製薬。それが、たった一瞬で怪しい薬品を製造する会社へと印象が切り替わった。
「俺は……どうなる?」
「戦うんだ、ワクチンとして。薬品の摂取に関する影響は無害だと保証しよう。ジャンキーさえ凌げるならね」
『薬を飲んで戦え』。それが無害なのか、草介にとって甚だ疑問であった。
お読みいただき、ありがとうございます。第一話一万文字スペシャル、いかがでしたでしょうか?
まだ一話ですので、みなさんへと公開されている情報は極端に少ないです。今後、進展があるにつれて徐々に明るみになるプロト製薬の秘密(白紙)にご期待ください。
では、(無責任な)二話でまたお会いしましょう。