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銀の糸

作者: yosibahirosi
掲載日:2013/03/30


5階建ての市営住宅を右に曲がったところに、赤い郵便ポストが見えた。

いまは郵便局では使っていない、円筒型の懐かしいものだった。

五月女玲子は額の汗を拭いた。自転車を降りて、ポストのところまで歩こうと思った。少しは呼吸が整うだろうと思ったからだ。

電話で場所を聴いてはいたが、五月女の家からは3キロくらいの距離であった。

めったに自転車でこれほどの距離を走った事は無かった。

7月の暑い盛りであり、車代を節約した事が悔やまれた。

初対面の家に訪問するのである。

手鏡で顔を見て、髪を整えた。依頼を断られたらとの思いもあったからだ。

玄関のチャイムを押した。待っていてくれたのだろうか、直ぐにドアが開いた。

「五月女です。はじめまして」

「お待ちしていました。どうぞ」

八畳の間に通された。座卓の前後に座布団が敷いてあった。

「こちらにどうぞ」

「突然のお願いですみません」

「もう20年も彫って無いですからね。下書きを見せてくれますか」

五月女は自分で描いた新聞紙半分くらいの紙を見せた。

「虎と鷹ですか」

「はい」

「珍しい、今では時代遅れの図案でしょう」

「多分暴走族なんです」

「そうか」

「彫って頂けますか」

原口保は暴走族と聞き考えていた。親戚の子供が6歳の時に交通事故で亡くなっていたのだ。

もう30年も前の事であったが、思いだしていた。

「お宅様はおいくつですか。突然ですみません」

「38歳になります」

素直に年を言ってくれたことに、原口は好感を持った。

「実は姪が交通事故で亡くなっていたんですよ。だからこの仕事はお断りしようと思ったのですが、あなたも生活があるでしょうからね、何とか彫ってみましょう」

「無理言ってすみません。ありがとうございます。彫り賃は日数分お支払いします」

「いや相場でいいですよ。腕が鈍ってますから、いく日かかるか解りませんよ」

「お仕事は休まないで下さい。休みの日でいいのですから」

「お盆休みが5日ありますから何とかなるでしょう」


原口は客が帰ってから、今どき刺繍を仕事にしている人がいるのかと驚いた。

A市は過っては織物の町、そしてトリコットでは日本一であった。

その頃は縫製と刺繍のミシンの音はどこからでも聞こえていた。

型紙職人もかなりいた。

次第に織物が廃れ、トリコットも廃れた。

ミシンの夕立が降っているような音も聞こえなくなった。

今日の客は誰から刺繍を教わったのかと不思議に思った。

職業別の電話帳を見てもA市には刺繍ではわずか載っているだけだ。

原口は早速道具を捜した。

直ぐ見つけたがナイフは錆びていた。幅5ミリほどの金属の板に刃がついている。研ぐのも直ぐであった。

茶色の型紙に下絵を写した。

原口は型紙職人を辞めたとき、失業保険で生活していた。

結婚して3年経っていた。

子供は無く妻の方から別れたいと言い出した。

慰謝料も何もなしで別れてくれた。

その妻の優しさを忘れる事が出来なかった。

全てが自分の責任であると原口は思っていた。

知人の紹介で工場の警備員になった。

主な仕事は門のところで訪問者の受け付けであった。守衛の様であるが、夜は建物の内外の警備もあった。

日勤、夜勤と有り生活は不規則であったから、恋人も出来ないし、結婚する気持ちも無かった。


インスタントのカレーを焚いてあったご飯にかけて食べると直ぐに仕事に掛った。

何故か自分でも解らない位、早く型紙を彫ってみたかった。

細面の色白の五月女に早く逢いたい気持ちがあった。

原口は既に55歳になっていた。しばらくぶりに女性に心を奪われた

人を好きになることなど考えてもいなかった。それは別れた

妻を忘れる事が出来なかったからでもあった。

その妻が5年前に結婚したと聞いたのだ。

原口はもう復縁は諦めることしかできないと思っていた。

そんな時に五月女が現れたのだ。

原口は10日間で依頼された型紙を仕上げた。

1日休みがあったが、仕事は休まなかった。

原口は五月女に電話した。


意外に早く型紙が出来たことに五月女は嬉しく思った。

「直ぐにタクシーで伺います。代金はいかほどでしょうか」

「タクシー代がもったいないから迎えに行きましょう。いや、お届けします」

「ありがたいです。住所はみどり町5番地です」

原口の車にはカーナビが付いていた。

五月女の家には10分ほどで着いたが、車を止める所が無かった。仕方なく公園に止めた。

型紙を持ち五月女の家に向かって歩いた。小さな川が流れていた。その水音のように懐かしいミシンの音が聞こえて来た。

古い建物が見えた。家の周りが杉の板を重ねた造りであった。

懐かしさを感じた。

「ごめんください」

一度では聞こえなかった。大きな声でもう一度怒鳴るように言った。ミシンの音が止んで

「は~い」

と高い声が聞こえた。


原口が逢いたいと思った細面の顔が見えた。

「わざわざすみませんでした。散らかっていますがどうぞ」

狭い家であった。

ミシンのすぐわきに案内された。

「早く出来て嬉しいです」

「これでいかがですか」

原口は出来上がった型紙を見せた。

「こんなに丁寧な型紙見たこと無いです」

確かにそうかも知れない。刺繍の型紙は輪郭が解れば良かった。

原口は捺染の型紙の彫り方で丁寧に仕上げた。

「おいくらになりますか」

「一万でいいです」

「安すぎです。三万円支払いします」

「働いていますから、彫っただけで満足です」

「無理にお願いしたのですから・・・」

五月女は三万円を原口の手を掴んで渡した。

手を握られた原口はその感触の驚きで札を握っていた。

「ではこうして下さい。このお金で食事をするって」

「それでは何にもなりませんわ」

「使い道ないんです。一人者で・・・」

「私も一人者」

五月女は笑いながら言った。


「打ち掛けの納期が間に合いそうにないんです。食事行きたいですが仕事します」

「見物させて下さい」

「どうぞ」

赤地の布に御所車を刺繍していた。

右の足を左右に動かし、針を左右に振っている。

丸い枠にはまった布の部分を、両手で動かしながら、まるで絵を描くように銀の糸が御所車の車輪を縫って行った。

「上手いもんですね」

「同じ柄15年もやっていますから・・・」

「お邪魔ですね。暇なとき電話下さい」

「お茶も出さず・・冷蔵庫から冷たいもの持っていって下さい」

「飲んできましたから・・・」

「気持ちなんです」

「本当に結構です」

五月女はミシンを止めた。

「はい、どうぞ」

100パーセントジュースを渡してくれた。

「世話やかす方」

と笑いながら言った。

車に戻りジュースのプルタブを引き上げようとすると、底に刺繍の銀の糸が絡んでいた。原口は取りテシュに包んだ。

家に帰り、座卓の上で開いてみると、銀の糸は蜘蛛の糸のように見えた。

それから半年が過ぎた。

原口は街で隊列を組んだオートバイを見たとき、ジャンバーに見覚えのある虎と鷹の刺繍を見た。

そして結婚式に招待された時、花嫁がお色直しに着たのは御所車の打ちかけであった。そのたびに原口は五月女の顔を思い出した。

原口の方から五月女に電話する勇気は無かった。

五月女も原口の電話を待っていた。電話が来れば食事に行きたいと思っていたのだ。



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