第二話 居候のお仕事
その日の、午後九時。
朝方言ったとおり、麻美はアシスタントの女の子二人を連れて、ティカのバイト先に姿を現した。
店主であり、チーフコックであり、ティカの雇い主でもある叔父と、二言三言言葉を交わし、テーブルに着く。
ステンレスのラウンドトレイを持ったティカが、三人に水の入ったコップを配り、メニューを渡した。
視線をメニューの端から端まで行き来させて、何を注文するか悩んでいる三人を見つめながら、ティカは何も言わずに待っている。
たっぷり五分ほどかけて、ようやく注文が決まった三人からオーダーを受けたティカは、厨房で調理している麻美の叔父に向かって声を上げた。
「マスター、オムライスと煮込みハンバーグのセット一つずつとナポリタン。あと、コーヒー、ウーロン茶、オレンジジュースを一つずつね!」
「はいよ」
ティカがバイトとして雇われる以前から、月に最低でも一度、麻美はアシスタントの女の子を連れて食事に訪れるようにしている。
店の売り上げに貢献するつもりであるのか、一人暮らし――現在は、異世界人の居候がいるが――をしている姪を心配する叔父に対する彼女なりの配慮であるのか、その辺りはティカには分からない。
しかし、麻美と彼女の叔父との遣り取りを見る限り、良好な関係を築いているように見えた。
「仕事、終わったの?」
オーダーを通したティカは、麻美たちが座っているテーブルへと近づいて、口を開いた。
アシスタントの二人に対しても、『意思疎通』の魔法を使用済みなので、普通に会話することができるのだ。
一応、麻美から日本語を教えてもらっているが、まだ挨拶や極々短い会話程度しか覚えてられていない。
まあ、こちらの世界に来てから二年も経っていないうえに、魔法のおかげで言葉には困っていないのだから、無理もない話ではある。
ちなみに、店内にはティカと麻美たち三人の客しか居ないため、ティカがマスターにどやされることもない。
「まーだ。でも、ま、なんとかなりそうよ」
「あー、ティカさん。お仕事お疲れ様ですー」
「いつ見ても、その服似合いすぎだと思う……」
椅子の背もたれに寄りかかっていた麻美が応じ、それに続いて何やら二人で話ていたアシスタントたちもティカへと視線を移す。
「良かったじゃない、麻美。ありがとね、香奈。それから、沙織にも一応ありがとと言っとくわ」
三人から一度に応えが返ってきたため、苦笑を浮かべながらもティカはそれぞれに対して律儀に応じた。
沙織が言った“その服”とは、雇い主である麻美の叔父が、ウェイトレスとして働くなら、制服もきちんとせねばならん、と言い出して急遽採用されたメイド服のことである。
所謂、ヴィクトリアンスタイルと呼ばれるロングスカートのシンプルなものであったが、男性客と一部の女性常連客には評判がいい。
着ている本人としては、己の貧相なスタイルを考えると全然似合ってないと思うのだが、目の前の沙織のように褒めてくれる者もいるため、微妙な表情にならざるを得なかった。
その沙織と一緒に、麻美のアシスタントをしている香奈とは既に何度も会っており、麻美の家に居候していることも知られているので、彼女たちの反応はいたってフランクである。
ただ、流石にティカが異世界人であるということは、麻美以外には打ち明けておらず、他の者には外国人と偽っているのだが。
そうやって女四人で話し込んでいると、厨房から野太い声が飛んでくる。
「チカ! オーダー上がったぞ」
「はいはーい! すぐ行きまーす!」
弾かれるように厨房へと向かったティカが、間仕切りとなっているカウンターに置かれた料理を受け取りながら、雇い主に抗議する。
「マスター、あたしの名前はティカだって。いい加減覚えてよ」
「あん? だからチカだって言ってるだろ?」
「それ、言えてないから」
トレイ一つには載りきらなかったため、両手で料理を運びつつも、異世界からのウェイトレスはため息をついた。
毎日のように繰り返す遣り取りに、指摘する本人も半ば諦め気味である。
「ティカって名前は珍しいですからねー」
「でも、可愛いと思う……」
料理を配膳するティカに、香奈と沙織からフォローが入るが、身内である麻美からは、
「もう諦めたほうがいいって」
と、何かを悟ったような口調のアドバイスが発せられるのみだった。
麻美たちが食事を終えて、ティカを交えてお喋りに熱中していると、厨房から店主の声が投げかけられた。
「麻ちゃん、そろそろ帰りな? それから、チカ。お前も、もう上がっていいぞ。麻ちゃんたちと一緒に帰れ。
あと、ついでに、帰るときに表の看板を『CLOSED』にしといてくれ」
言われて麻美が店の時計を見ると、既に夜の十一時を回っている。この店の閉店時間は夜十時なので、叔父は一時間も待っていてくれたことになる。
終電までは余裕があるものの、歳若い女性が街中をうろつくには少しばかり遅い時間帯であった。
特に、香奈に関しては未成年なうえに、ここから電車で三十分以上かかる場所から通っているため、雇い主の麻美としても気を遣わねばならない。
「叔父さん……。“麻ちゃん”はよしてって言ってるでしょ……」
少し前に繰り広げられた、似たような光景を再現しながらも、麻美は席を立った。
ティカは既に制服の上に着けていたエプロンを外して、レジの前で精算する準備を整えている。
「先生、ごちそう様でーす」
「大変、美味しゅうございました……」
アシスタント二人の食事代は、毎回麻美が奢ることになっているので、香奈と沙織もいつものように礼を口にするだけである。
「まったく……」
独り言のようにぶちぶちと零しながらも、精算を済ませた麻美に、再び叔父から声が掛けられた。
「そういや、麻ちゃん。近頃、この辺りでタチの悪い馬鹿共がうろついてるらしいから、気をつけるんだぞ」
彼女の抗議は聞こえてなかったかの如く、またも愛称で呼ぶ叔父に、麻美はヤケ気味に「はいはい」と応じたのだった。
「それじゃ、先生。お疲れさまでしたー」
「失礼します……。次回のお目見えは四日後に……」
「うん。また、よろしくねー」
「二人とも気をつけて帰んなよー」
叔父の店からほど近い私鉄の駅まで、アシスタント二人を送った麻美たちは、軽い挨拶を交わし、その場で別れた。
麻美の家――と言っても賃貸マンションだが――は、ここからそれほど離れていない。
駅前から横にそれ、一度ガード下を潜り、国道に出て十五分も歩けばマンションが見えてくる、そんな場所だ。
春も終わりに近づいたこの時季、夜中でも流石にもう寒いと感じることはなくなっており、二人はゆっくりとした足取りで歩いていた。
「麻美、またコンビニ寄るんでしょ?」
道路の内側を歩くティカが、横に並んだ麻美の顔を、ある種の期待を込めた目で見つめる。
「いいけど、今日はお酒はナシよ?」
「えぇー」
異世界人であるティカが、この世界で最も気に入っているのが“コンビニ”だった。
食料品からビールなどのアルコール類、雑誌や日用品まで取り揃え、しかも何時行っても店が開いている。
あちらの世界にも雑貨屋はあったが、夜になれば店は閉まるし、何より品揃えの豊富さは天と地ほどの差がある。アルコールにいたっては、酒場に行かないとありつけなかったのだ。
ちなみに、コンビニに次いでティカのお気に入りとなっているのは、ディスカウントストアである。
理由はコンビニとあまり変わらない。
「『えぇー』じゃないっ。私だって、連日酔っ払いの相手なんてしたくないの!
だいたい、帰ってからも作業の続きが私を待ち構えてるんだから」
「いいじゃんー。今日は大人しくしてるからさぁー」
「だーめ」
自らも働いて、この世界の金を得ているので、その気になれば発泡酒の一本や二本買うことなど大して痛くもないのだが、居候の身であるティカとしては家主の言葉に逆らうわけにもいかない。
何とか麻美から色よい返事を引き出そうと、「今日は一本だけにするから」だの「絶対、仕事の邪魔はしないから」だのと、言葉を重ねるティカだったが、結局、
「仕事が片付いたら、付き合ってあげるから。明日の夜まで我慢しなさい」
との返事に引き下がるしかなかった。
そもそも、本音を言えば麻美も飲みたいのだ。しかし、〆切りを明日の午後に控えた今、酒を飲んでいる余裕などない。
香奈と沙織に手伝ってもらい、一応目処はついたのだが、仕上げがまだ三分の一近く残っている。
麻美が楽しみにしている深夜アニメも、今夜ばかりは録画で我慢するしかないと諦めているのが現状だ。
「ちぇー」
麻美と同年代のティカが、子供のように頬を膨らませているうちに、二人はコンビニの近くまでやって来ていた。
国道沿いに建てられたそれは、店の前面に駐車場を備えた典型的な郊外タイプのものだ。
その駐車場には、三台の車が停められており、入口横のゴミ箱付近に数人の人影が見える。
「そういや、今日はファ・ノンの発売日だったわね。一応、資料として買っとこうかな……」
十代の女の子をメインターゲットにしたファッション雑誌の名前を口にしながら、麻美が店の入口に近づいた時である。
「こぉんばんはぁー」
ゴミ箱の横でたむろしていた集団の中から、見るからに柄の悪そうな男が、妙に馴れ馴れしい口調で話しかけてきた。
こういった手合いは無視するに限るとばかり、麻美はそのまま店内に入ってゆく。
ティカも、男を一瞥したきり、何も言わず麻美の後に続いた。
男はついて来ることはなかったが、仲間らしき集団の下へ戻り、ガラス越しに麻美たちの動きを目で追いながら、何やら話しているようだ。
「面倒なのに目を付けられたかな……」
つい先ほどの叔父の忠告が、早速現実のものとなったことに、麻美はため息を漏らす。
しつこく纏わり付いてきたわけでもないので、コンビニの店員に言ったところで、何ら対処もしてくれないだろう。
「もう……。早く帰って仕事の続きやらなきゃなんないってのに……」
にやにやと気色の悪い笑みを浮かべながら、こちらの様子を窺う連中を横目で一瞥した麻美は、苛立つように呟いた。その口調には、僅かな恐怖を押し殺す気配も混ざっていた。
目当ての雑誌をカゴに入れ、ドリンク類の陳列ケースの前までやって来た麻美が、横目で外を窺うと、駐車場でたむろしていた男たちは姿を消していた。
「諦めて帰ってくれた……のかな? だったら、いいんだけど」
希望を込めて呟く麻美だったが、駐車場には相変わらず三台の車が停められたままである。
無論、男たちが車で来ていない可能性もあるのだが、うち一台は、全てのウィンドウガラスが真っ黒なワゴン車で、“いかにも”な雰囲気だ。
「ちょっとヤバいかも……。叔父さんに来てもらったほうがいいかな」
嫌な予感を覚えて、麻美が上着のポケットからケータイを取り出そうとしたとき。
「大丈夫だよ」
男を前にしたときも、そして店内に入ってからも無言であったティカの声が、麻美にだけ聞こえるように囁かれた。
「え?」
「少なくとも、あたしたちは、ね」
振り向いた麻美が見たティカの顔には、今まで見たことのない不敵な笑顔が浮かんでいた。